海外添乗員
「シンガポールですか?」
「シンガポールですよ!」
シンガポールは赤道直下に近い、マレー半島の南にある島にある都市国家で、金融センターが立ち並んだお金持ちの国で。
「シンガポールですか?」
その国に
「シンガポールですよって! がんばれ、
「え? ちょっと待って下さい
「シンガポールの公用語は英語です」
「うっそ!」
ググったら、本当だった。
うちの旅行代理店、まさかシンガポールにまで支店があるとは。
「というわけで私、シンガポールに行くことになりました」
「おめでとう、澤村さん。海外勤務の夢が叶って、良かったですね」
イケメン高身長のイタリア系ハーフの
大高くんは、私と同じ旅行代理店に勤務する、英語が堪能なエリート添乗員。
私は代理店での窓口業務だったので、大高くんと話す機会なんて全くなかったけれど。
以前、団体のハワイ旅行を私が受付した時。旅行を申し込んだお客様から、私も添乗員として来て欲しいと頼まれたことがあった。
その時、添乗員としての実務経験が無かった私は、エリート添乗員の大高さんの補佐として、ハワイへ同行させてもらった。
それは私にとって、人生の転機になる出来事だった。
ハワイ旅行に同行した後、私は窓口業務も続けつつ、支店長にお願いして国内ツアーの添乗員としての経験を積んだ。
英語力も上げたくて、ビジネス英語の検定を受けたり、仕事が終わった後は英会話教室に通ってコミュニケーション能力を身に付けようとした。
旅行の時に親しくなった大高くんも、私を応援してくれた。
もっと海外へ行きたい。
海外に住みたい。
海外の美味しい食べ物とお酒が、私を待っている!
その一心だった。
「でも、まさかのシンガポールですよ」
「シンガポールは良い国ですよ。外国人に寛容なので、日本人にも優しいです」
「本当はハワイが良かったんですが、募集が無くて。アメリカやカナダでもいいかな、って思って勤務希望地を英語圏にチェックをしたら、シンガポール……完全にアジア圏じゃないですか!」
「あかりさんは、アジアに対して偏見があるんですか?」
「いや、無いですけど。欧米の方がなんとなくカッコイイじゃないですかって、植田さんいつの間に?!」
「あかりさんがここにいるって聞いたから駆けつけました」
私と大高くんがいるテーブルに、
「植田さん、今日はいつもと感じが違いますね?」
「すみません。あかりさんに会う時は、いつも気合いを入れてオシャレにオシャレを重ねているのですが、いま仕事から抜け出して来たので着替える暇もなくて」
「植田さんはオシャレしない方がオシャレですよ。もう私の前でオシャレしないでください」
「ボクの今までの努力がっ!!」
ガックリと
自称ではない青年実業家の植田裕二は、私より三つ年上の三十七歳。彼こそが、私に人生の転機を与えてくれたハワイ旅行を申し込んだお客様だ。
私が勤める旅行代理店のお客様になる以前から、植田と私は顔見知りで。初対面の時になぜか私を気に入った植田が、私のいる旅行代理店に現れるようになり、ハワイ旅行の後も様々なツアーを申し込んでくれた。
植田は、国内旅行には私を、海外旅行には大高くんを添乗員に指名するほど私たちのことを気に入ってくれて、今はこうしてプライベートでも飲む関係だ。
「来て早々、すみません植田さん。会社から連絡が入っていたので戻ります」
「いいよいいよー。いってきなさい大高くん」
「それじゃあ、また。お疲れさまです澤村さん」
「お疲れさまです、大高くん」
携帯電話とバッグを持って、大高くんが席を外した。
私は植田のグラスにビールを注いで、私の空いたグラスにも同じものを注いだ。
「また大高くんから教えてもらったんですか?」
「なんのことでしょう?」
「私たちがここで飲んでいたことです。植田さん、私がひとりで飲んでいる時は来ないけど、大高くんと飲んでいる時は必ず来ますから」
「バレていたんですね」
てへ☆ とウインクして舌を出す植田の顔も、すっかり見慣れてしまった。
私たちは乾杯をして、ビールを口にする。
「会社からの連絡なんて、嘘まで吐かせて。本日弊社は、プレミアムフライデーです」
「だって、あかりさんがシンガポールに転勤になるって大高くんから連絡が来て、もうあかりさんに会えないかもしれないって思って」
三十七歳で口を尖らせる植田が、今夜は可愛いく見えた。酔いが回ったのかもしれない。
「そうですね。私がシンガポールに行ったら、もう植田さんには会えないです」
「そうですよ、あかりさん!」
「でも植田さん。きっとまた、私を探してシンガポールまで来てくれるんですよね?」
小首を傾げて問いかけた私を、植田は真顔で見た。
それから植田の顔は、みるみるうちに赤くなり。
両目から、ぼろぼろと大粒の涙が流した。
「あ~か~り~さ~ん!」
「うわあ! ちょっと植田さん! ハンカチ! ティッシュ!」
私は自分のバッグから、ハンカチを取り出して植田さんに差し出した。
そのハンカチを、植田さんは私の手ごと両手で包み込む。
「澤村あかりさん。ボクはあなたが好きです。結婚してください」
植田は今までに何度も、私に結婚を申し込んできた。
でもノリで言ってるみたいだったし、本当に私のことが好きで結婚したいと思っているようには感じられなかった。
でも、今回は違う。
私も、素直に、本当の気持ちを伝えなければいけない。
「私、まだ結婚できません。やりたいことがあるんです」
「あかりさん……」
「私は来月からシンガポールへ行きます。海外で仕事がしたいんです。私のこと、好きと言ってくれてありがとうございました植田さん」
私の手を包んでいた、植田さんの手が緩む。
私はハンカチを植田さんの手に持たせて、席を離れた。
―― 三ヶ月後 ――
シンガポールに転勤してきた私の毎日は、てんやわんやだった。
日本での実務経験があるとはいえ、初の海外勤務の私は、まず現地スタッフによる社内研修を行われた。
私が知ってる英語じゃなかった、シンガポールは。
英語、マレー語、中国語、あとなんだかよくわからない語が混じっている。
日本語でいうところの、方言。もしくは、ルー語みたいな。
シンガポールの旅行代理店の窓口に来る人は、英語が話せる人がほとんどだという。しかしスタッフ同士や生活圏では、訛りの強いシンガポール語(シングリッシュというらしい)を理解しないと困難なところもあって。
何度か、心が折れそうになった。
それでも毎朝、私の携帯電話に届く励ましのメッセージが、私を支えてくれた。
『おはようございます、あかりさん。今日もマーライオンはたくさん吐いてますか? あかりさんがお酒を飲み過ぎて、マーライオンのように吐いていないか心配です。飲みすぎないように、気を付けてくださいね!』
『おはようございます、あかりさん。昨日はスタッフのみなさんとインフィニティプールへ行ったんですね。あかりさん、泳ぎは得意ですか? ボクはカナヅチです。今年の目標は、犬かきができるようにがんばります。今日の研修も、がんばってくださいね』
当初、一ヶ月間の予定だった社内研修が、私の環境適応度に合わせてもう一ヶ月間延びて。
ようやく、私はシンガポールの旅行代理店の業務に就くことになった。
主な仕事は、日本からシンガポールに来たツアー客の添乗員。
空港からホテルまで先導したり、観光名所を一緒に回って案内したり。
シンガポール長期滞在中の日本人には、モルディブやクアラルンプールのような近隣の観光地へのツアーを紹介して、日程を組んで航空券やホテルを手配したり。
あっという間に、月日が流れていた。
そしてある日。
毎朝、必ず届いていたメッセージが届かなかった。
一日、二日、三日、一週間。
完全に、音信不通になってしまった。
結婚の申し込みを何度も断り、単身でシンガポールへ行ってしまった女のことを、植田さんはようやく諦めたのかもしれない、と私は思う。
すべて、自分の行いのせいだ。
そうわかっていても。
植田さんのメッセージが届かなくなった携帯電話を握りしめ、私はボロボロと泣いた。
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