黒服の人

 日曜日。

 仕事が休みで朝からずっと寝ている旦那のそばに、黒服の人が座っていた。

 黒服の人は、私が立っている部屋の入口側に背を向けていて、微動だにしない。


「ねえ」


 声をかけると、黒服の人はスッと消えた。

 旦那が寝返りを打って、「へい?」と寝ぼけた声を出す。


「ねえ。いま、そこに誰か座っていなかった?」

「へえ? なに? 誰?」


 旦那は体を起こそうとするが、まだ体も頭も目覚めていないらしく、横向きからうつ伏せになって、すぐにグゥ~とイビキをかき始めてしまった。

 気のせい、だったんだろうか。


 夕方になってようやく、旦那が目を覚ましてベッドから出てきた。


「仕事が休みの日だからって、寝すぎじゃない? 大丈夫?」

「大丈夫だよ。昨日の夜、遅くまで動画見てたから。睡眠不足で眠かっただけだよ」


 私は夕飯を食卓に並べていく。

 旦那は自分の座椅子に座って、あくびをした。


「さっきね、いつまでも寝てるから様子を見に行ったんだけど。あなたの近くに、誰か座っていたように見えたんだよね」

「誰かって、誰?」

「わかんない。黒い服を着た、たぶん男の人だったと思う」

「うわっ、こわっ! 死神かな?」

「死にそう?」

「死なない。お腹空いて、ご飯食べたい」

「はいはい。麦茶、飲む?」

「飲む。ありがとう」


 いつも旦那が使っているマグカップに麦茶を注いで、麦茶のポットと一緒に食卓に置く。

 旦那は麦茶を飲んで、その後はテレビを見ながら普通にご飯を食べて、お風呂に入った。

 特に変わった様子はない。どこかを痛がったり、気分が悪い様子もない。


 やっぱり私の気のせいだったかもしれない。

 そう思いながら、夕飯の後片付けをして、朝に干しておいた洗濯物を畳んで。

 旦那がお風呂から上がっていないことに気付く。


 私は脱衣所をのぞいて、旦那がそこにいないことを確認してから中へ入った。

 浴室の扉は、磨りガラスのような表面がデコボコした樹脂製で、中の様子が透けて見えない。

 でも洗い場のところに、明らかに黒服の人が立っているように見えた。


「あなた!」


 浴室の扉を開ける。

 黒服の人は、いない。

 旦那は浴槽で、イビキをかいて寝ていた。


「あなた! ちょっと! 起きてよ!」

「ふえ? ああ、どうした?」

「どうしたじゃないって! またいたのよ、黒服の人が! いま、ここに!」

「まさか。ここは風呂場だろ? いたとしたら、どこへ逃げるんだ?」


 うちの浴室には窓が無い。浴槽の上に小さな換気口があるだけ。


「さっきも、私が呼んだら、黒服の人は消えたの。幽霊みたいに」

「じゃあ幽霊だな」

「真剣に聞いてよ」

「聞いてるよ。お前、疲れているんじゃないのか?」


 バカにして! と思って、私は浴室から出て扉を思いっきり閉めた。


 お風呂から上がってきた旦那は、冷蔵庫からペットボトルの微糖アイスコーヒーを取り出して、自分のマグカップに注いだ。

 寝る前にコーヒー飲んで大丈夫? と言いたかったけど、飲み込んだ。

 どうせ言ったところで、飲むのを止めるわけではないし、今夜も夜更かしをするのだろう。


「先に寝るから」

「ああ。おやすみ」


 そう言って、私は二階の寝室に上がる。

 なんだか疲れた。

 そう思いながら、ベッドの中へもぐり込む。


 お風呂に入った後は寝付きがよく、いつもなら朝までぐっすり眠れるのに。

 明け方に目を覚ましたのは、どこか不安に思うところがあったからだろう。


 目ざまし時計を見ると、四時にもなっていなかった。

 ベッドの隣を見ると、旦那はいない。

 今日は仕事なのに、まだパソコンで動画を見ているのだろうか。

 トイレに行くついでに様子を見ようと思って、階段を降りて行く。


 居間の電気は点いたままだった。

 テレビは消えているけれど、食卓の上のパソコンは開いたまま。

 旦那はこちらに背を向けて、座椅子に座っていた。

 座椅子の横には、黒服の人がいた。

 私は、息を飲んで黒服の人を見た。


 黒服の人は、旦那になにかする様子はない。

 ただ傍にいるだけ。

 旦那と同じ方向を向いているので、表情はわからない。

 背筋が良く、微動だにせず、旦那の隣に座っている。

 ガァ~とイビキをかいて寝ている旦那が、静かになる。

 静寂。

 黒服の人が動く。

 白い手袋をつけた左手が、旦那の肩に触れる。

 旦那は、思い出したかのように、またイビキをかく。





 翌朝、私は旦那に仕事を休んでもらい、病院へ行った。

 月曜日の病院は混んでいて、予約も無い私たちは何時間も待合室で待たされる。

 そしてお昼にさしかかったころ、ようやく診察室の横の電光掲示板が、私たちの受付番号を表示した。


「失礼します」

「どうぞ」


 診察室の先生の前には、椅子がひとつ。

 そこに旦那が座った。


「問診票にも書いてもらいましたが……毎晩、大きなイビキをかいているんですね?」

「はい」

「昼間、眠くなることもあるんですね?」

「はい」

「朝起きた時に、寝たはずなのに疲れが残っている感じがする」

「はい」

「体重が増えて、健康診断でメタボだと言われてる」

「はい」

「奥さん、旦那さんが睡眠中に呼吸が止まっていることに気付いたのはいつですか?」

「いつからかはわかりませんが、昨日ははっきりと」

「そうですか。結論から言うと、旦那さんは、眠っている間に呼吸が止まる病気。睡眠時無呼吸症候群の可能性が非常に高いです」


 旦那は驚いているようだったけど、私は、やっぱり、と思った。

 それから旦那は先生の指示で、食生活と睡眠の質の改善、定期的な診察を受けるように指示された。イビキや無呼吸の発生を防止するために、マウスピースを使うようにとも。


 その日以来、私は黒服の人を見ることは無かった。

 旦那の睡眠時無呼吸症候群は少しずつ改善して、結婚した時より二〇キログラム以上増えた体重も減少傾向にあった。


 黒服の人。あなたが何者か、結局わからないままですが。

 寝ている旦那の傍で、睡眠時の呼吸を見守っていてくれていたことに、感謝しております。

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