エスカレーター殺人事件
「きゃあああっ!!」
絹を裂くような女性の悲鳴。
「あらやだ。何かあったのかしら?」
「ちょっと、行ってみましょうよ?」
百貨店の甘味処であんみつを食べていた私たちは、レジのおばちゃんに「後で戻って来るから、そのまま置いといてね」と声をかけて、悲鳴が聞こえた現場に向かった。
甘味処のほかにも飲食店が立ち並ぶ階の、エスカレーター付近に人だかりができていた。
「あそこかしらねえ」
「ちょっとちょっと、そこのお兄さん。何があったの?」
「うわっ、
「あらやだ。誰かと思ったら、
上りエスカレーターの前でうつ伏せになって倒れている老女のすぐ側にいた若い男性は、顔見知りの
「まあ、多賀目くん。あなたも非番?」
「ええっ、
「あのねえ多賀目くん。
「打ちどころが悪かったみたいで、もう」
「そう。ならすぐに通報して多賀目くん」
「はい」
現役婦警の神田さんは、いつも持ち歩いている白い手袋をポケットから出して、現場検証に入った。
「エスカレーターは動いていたの?」
「いいえ。僕がここへ来た時は、この女性はすでに倒れていて、エレベーターは止まっていました。非常停止ボタンが押されたようです」
「誰か、この人が倒れたところを目撃した人はいらっしゃるかしら?」
神田さんは舞台女優ばりの大きな声を張り上げると、何人かが彼女に近寄って話を始めた。
これは時間がかかりそうね、と思った私はすぐに甘味処に荷物を取りに行き、お代を払って先に帰ることにした。
「神田さーん! 悪いけど、あたし先に帰るわね!」
「ごめんねえ丹野さん! またねえ!」
エスカレーターの非常停止ボタンあたりに付いた血痕に注目していた神田さんが振り返り、私に両手を合わせてから、手を振った。
私はエスカレーターを背に、真っすぐと先にあるエレベーターに向かう。
エスカレーターが事件現場になったせいで、エレベーターの前は混雑していた。百貨店の従業員や若い人は階段を使って降りているいるけれど、自分を含めある一定の年齢が達した人や、小さな赤ちゃん連れたママさんたちは階段の利用が難しい。乗る人数も多く、いつもよりもゆっくり動くエレベーターに苛立ちながら、みんな扉が開くのを待っている。
「お待たせいたしました。五階でございます」
今の時代には珍しいエレベーターガール(といっても私と同年代くらいのオバさん)が、疲れ切った様子で私たちを出迎えた。
「遅いぞ! いつまで待たせるんだ!」
「こっちは急いでいるんだ! 早く降ろせ!」
短気そうな老人が、エレベーターガールに野次を飛ばす。
申し訳ございません、とか細い声で、両手を前で合わせて謝る彼女の手を、私は引っ張ってエレベーターから降ろした。
「お、お客様!?」
「ボタンくらい自分で押せるでしょ! 勝手に降りなさい!」
「お客様……大変ありがたいのですが、本当に困ります。私はいま勤務時間中ですので、エレベーターから勝手に離れるわけには……」
「大丈夫。あなたはもうエレベーターガールには戻らないから」
「と、言いますと?」
「あなたが犯人よね?」
驚きの表情で私を見るエレベーターガール。
エレベーター前の騒ぎに気付いた多賀目巡査長が、私のすぐ後ろまで来ていた。
「ちょっと、何の騒ぎですか探偵オバさん?」
「多賀目巡査長、この人が犯人よ」
「ご、誤解です! 私は今までずっと、エレベーター内で勤務していました! このオバさんが意味不明なことを言ってるだけです!」
「言っとくけど、あなたもオバさんですからね! 多賀目巡査長。見て、この白い手袋。右手なのに、左手の手袋をつけてる。左手は手袋をつけていないのも不思議よね。もし手袋を左右間違えてつけたなら、左手には右手の手袋をつけていないとオカシイもの。でもそれが出来ないとしたら? そこで私、ピンと来ちゃったのよね。この人、右手を怪我して、それを左手の手袋で隠している。おそらく右手の手袋には血が付いていて、つけられないんじゃないかしら?」
真っ青な顔して、エレベーターガールは沈黙した。
「ちょっと手袋を外して、手を見せてもらってもいいですか?」と多賀目巡査長が聞くと素直に応じ、右手の手袋を外す。若い女性が好むカラフルな原色で塗られた長い爪。その右手の親指だけは、ポケットティッシュのような白い紙でぐるぐる巻きにされ、うっすらと血が滲んでいた。
「どういう
「監視カメラ……こんなにいっぱい、監視カメラがあるのに。どうして、エレベーターの中に、監視カメラが付いていないんですか?」
エレベーターガールは、自分の手が白くなるほど握りしめて震えた。
「エレベーターの中で何が起こっているかわかりますか? 扉が早く開かないだけで文句を言われ、自分の行きたい階に真っすぐ止まらないと怒鳴られ。もう若くも無いのにいつまでエレベーターガールなんてやってるんだとか、密室の空間に私とふたりきりになったから胸やおしりを触ってもいいと思ったとか。私は、エレベーターガールの仕事に憧れていましたし、この職に誇りを持っています。ですが、お客様からのクレームやセクハラで、ここにはもう私一人しか残っていません。自分の好きなことを続けたくて、それで傷付いても、誰も助けてくれなかった……」
「そんなことがあったのね。そういえばさっきのジジイも、ちっちゃなことであなたに文句言っていたわね。ひどいと思うわ」
「あれくらいは普通です。でも、あの人は。この店に来るたびにエレベーターに乗って、私をイジメるんです。遅い。グズ。まだいたのか、と。雨の日は、濡れた傘の先で後ろから刺されたこともありました。上司に相談しましたが、あの人がエレベーター内で私をイジメているという証拠が無くて。どうにもならなくて。あの人にエレベーターに乗らないで欲しいと、私は願っていました。しかしあの人はご高齢でしたし、他に上階へ移動する術がないから仕方がないと、自分に言い聞かせていました。でも、さっき。あの人がエスカレーターに乗るところを見てしまって。許せなかったんです。エスカレーターを使えるのに、あの人はわざわざエレベーターに乗って私をイジメに来ていたんだと、わかってしまって……でも、殺すつもりは無かったんです……」
エレベーターガールは、その場に
私は小さく丸くなった背中を、優しく撫でた。
「自分が受けてきた痛みを、あの奥さんにも味あわせてやりたい、って思ったのよね。でもね、あなた。度が過ぎたと思うわ。例え会社の中で起こったイジメやセクハラでも、あなたは会社を通さずに直接、警察に被害届を出すこともできたのよ。あなた自身が警察のお世話になったら、何もかもおしまいじゃない」
「うううっ……ううっ……」
「まずは罪を
「ううっ……ありがとう、オバさん」
「いいのよ。あと、あんたもオバさんよ」
エスカレーター付近にできていた人だかりは、いつの間にかエレベーター付近に移り変わっていて、すすり泣くエレベーターガールに憐みの目を向けていた。
「あの~そろそろ良いですか、探偵オバさん?」
多賀目巡査長が、エレベーターガールの手を取って立ち上がらせる。
「ええ。あとは任せたわよ、多賀目巡査長」
「当然です。僕は非番中でも警察官ですし、あなたは民間人ですから。急に現場に現れて犯人を捕まえるのは、本当に本当に、これで最後にして下さいね。お願いしますよ!」
「あ、私、冷蔵庫の卵が切れていたの思い出したわ! それじゃあね!」
私はそそくさとエレベーター付近から立ち去って、人の少ない階段を一歩ずつ降りていった。地下に食品売り場まで行きたいけれど、やっぱり階段を使うのはしんどいわね。エレベーターで降りれば良かったわ。私は階段の途中に座って、ハンカチで汗を拭いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます