文学と経験者と教授ー第15話
このままでは埒が明かない、と次の手を考えている所に人の気配を感じて振り返った。
「わ、私は……」
「バッカ! お前……何してんだッ!?」
後ろにはパジャマのまま出て来た沢木が息を切らして立っていた。
暫くすると遅れて追い掛けて来た廉太郎と樹里の姿も見える。
阿呆太郎め……。
どうせ樹里と沢木に押し切られて、家に留める事が出来なかったんだろう。
樹里の後ろに隠れる様にしてゴメン、と合掌している。
「私は先生の為に死んだりしない!」
ド直球ストレート。
振り向きざまに顔面に一撃食らうより強烈な一言が、真摯な眼差しで凛とした表情の沢木からぶっ放される。
「だ、そうですよ? 先生」
「君は僕の手紙を受け取っていたじゃないか。僕の事が好きだから、受け取ってくれていたんだろう? 君が何処にも行きたくないって言うから僕は……」
「手紙は意味が分からなかったから、どうにもしようが無かっただけです。それに確かに私は、何処にも行きたくないって言いました。でも、そう言う意味じゃ無い。ここにいる皆とずっと一緒に居たいって思っただけ……」
「そんな……バカな……君は僕を好きなはずだ。ずっとここにいたいって言ってくれたじゃないか……。ピアノさえ弾けなくなれば、パリへなんて行かなくても良くなるって言ってたじゃないか!」
「パリって……? 何、どう言う事?」
後ろで聞いていた樹里が間髪入れずに突っこんで来る。
「樹里、それはまた今度だ。今はその話をしている暇はない。廉太郎、さっきの写真は?」
「バックアップも取ってあるし、準備は万端だよ」
「じゃあ、橘先生。ここからは交渉では無く、命令だ」
自分の背中に隠す様に、沢木の前に立ちはだかった。
橘の口から出たパリの話を、樹里や廉太郎に聞かれて困惑している。
そう顔に書いてあった。
「何だと……?」
「あんたがやっていた事は明らかに犯罪だ。発火事件が実証出来なくても、あの手紙によるストーカー行為は証拠写真もある。今までの手紙も全て取ってあるし、気付いて欲しかったのか知らんが、ご丁寧に直筆だ。言い逃れのしようもない。と言う事で、これ警察に出すのは簡単だが、猶予を与えましょう」
奥歯を噛みしめる様な苦い顔を遠慮なく向ける橘に、相馬君の顔が重なってしまう。
あの時、皆の前で泣いた相馬君もこんな顔をしていた様な気がする。
悔しさと後悔、そして僅かな悲壮感が、噛みしめられた唇や眉間に寄せられた皺の隙間から滲み出る。
俺は悪くないのに、と橘の全身が震えている。
「夏休みが終わるまでに、自分で身の振り方を考えて下さい。学校が始まって、先生が現状維持を貫く様なら、こちらも取るべき手段を取らせて貰う。これ以上、何かする様なら俺達はあんたを許さない」
踵を返して「行こう」と沢木の肩を押した。
後ろにいた廉太郎達も元来た道を戻る。少し離れた廉太郎達の背中を見ながら、眉尻を下げた沢木は一言も喋らない。
「まだ二年半はある。向こうへ行っても、五年経ったら戻ってくるんだろ?」
「うん……」
「あいつらなら、ちゃんとお前の帰りを待っててくれると思うぞ。話しにくかった事も、ちゃんと話せばあいつらなら分かってくれるよ」
俺は、待ってるなんて言えないけど……あの二人ならいとも簡単にそう言うだろう。
沢木の自宅に戻って来て、誰も何も言わない空気が重苦しく感じられた。
一応リビングに集まって麦茶を出されたけれど、ぶっちゃけもう四時を過ぎようとしていて、夜中に全力疾走したあげく、疲労困憊も良い所。
早く寝たい……。明日も夏休みで良かった。
「エニィちゃんはパリに行くの?」
……流石、空気を読まないド天然男だ。
でも、その勇気に今日だけは称賛の拍手を贈ってやろう。
誰かが口を開かなければ、この沈黙は夜が明けても続いただろう。
「う、ん……。だ、黙っててごめん……。まだ、卒業してからの話だけど……」
「そっか。じゃあ、エニィちゃんが向こうに行ったら、お金貯めて皆でパリ旅行だね! ね、樹里?」
「……」
「ジュリィ、ごめん。黙ってて……」
難しい顔をしたまま返事もしない樹里は、何か納得がいかないのだろうと察したが、俺はもう思考回路が限界に近くてソファに項垂れてその様子を黙って見ていた。
「樹里、何か怒ってんの? エニィちゃんだって言い辛い事もあんじゃん?」
「別に……怒っては無いけど……」
「けど?」
「……上条が先に知ってたのが、ムカつく!」
何だそりゃ……。
樹里の視線が刺さるのを感じながら、俺はそれを敢えて見ない様にしていた。
あの橘の相手をした後に、樹里や廉太郎の相手をするなんて、俺にはオーバーワークだ。
ウトウトと意識が落ちる感覚を感じた。
その途中、沢木の声で「ありがとう」と聞こえた気がしたけれど、もうそれが夢なのか現実なのかは俺には分からなかった。
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