文学と経験者と教授ー第14話


 肩で息をしている橘は振り返ろうとしなかった。


「何で、俺だと分かった……?」


 振り返った苦渋に満ちたその顔は、優男風の目尻の下がった甘いマスクを怪しいモノへと変えていた。

 中性的な顔立ち、色白の長身、日本人離れした様な美形な男だ。


「ヒ、ヒントをくれた人がいましてね……」


 キッツ。心臓いてぇ。カッコつけて喋る余裕もねぇわ。

 こう言う時、探偵もののフィクションなら犯人はお前だ! とか言って、カッコつける所なんだろうけど。


「中森か……」

「ミイラがミイラ取りになったって感じですかね……」

「君は、確か……上条君だったね。えにしの彼氏、と言う噂の……」


 何か吹っ切れたようにさっきまで俺を睨んでいた目が笑う。

 写真撮られて逃げ様が無いと開き直ったのか。

 ちょっと、頭イカレてるんじゃねぇかと思いたくなる様な、その表情の変化に俺は驀進する血管内の血液に落ち着け、と繰り返す。

 冷静に、単純に、順番に、そして極めて普通に、だ。

 相手にまんまと乗せられて感情的になれば、こっちがハメられる。

 直感的にそう思った。ポケットの中のスマホを握りしめて、大きく息を吐く。


「橘先生、沢木縁に関わるのを、金輪際止めて頂きたい。それさえ守って貰えたら、俺達はあの写真を公表する意志はありません」

「良いよ、約束してあげるよ。あの写真、消してくれるならね」


 思っても無い事をいけしゃあしゃあと言うあたり、俺を欺けるとタカを括っているのか。


「先生も良い性格してますよね。あの発火事件も、先生の仕業でしょ?」

「僕が? まさか。何処にそんな証拠がある?」

「証拠はないです。でも、推察するに中森先輩が川端先輩を好きな事を知って、それを先生が利用した……」

「推察だけで犯人扱いとは、とんだ探偵役だな」

「川端がストーカーしている事を知っていましたよね? 先生」

「大事な生徒の安全を守るのは、教師の務めだよ」


 不遜で、食えないヤツだ。

 何としてでも自分の有利に持って行こうとする執念が、その目から溢れ出ている。窮地に立っているのは橘の方なのに、負ける気がしないと言う勝ち誇った目をしているのだ。

 その理由が分からなくて、俺は微妙に感じる焦りをただ只管に宥め続ける。

 ビビるな、落ち着け。


「あの日、生物室と音楽室の鍵が入れ替わっていました。月曜日の合唱部の打ち上げの後、鍵を入れ替えて返したのは橘先生、あんただ」

「何の為にそんな事を? 僕は火曜日は君達の学校へは行かない。あの事件は火曜日の放課後にドライアイスが破裂したんだろう? 学校にいない僕に何が出来るって言うんだい?」

「川端とあんたは同類だった。沢木縁をストーカーしていたあんただからこそ、川端の行動を知っていた。そして受け持っている合唱部の部長、中森が川端に好意を持っている事を知ってその情報をリークした。その上で中森に川端の目を覚まさせる為に一計を案じようと持ちかけ、中森を使ってあんたはあの発火事件を起こした」

「君は妄想癖でもあるのかい?」

「妄想出来たら、こんな時間にこんな所であんたと喋っちゃいねぇんだよ」


 真実は太陽。それは、美しく暖かく、そして辛辣で残酷だ。

 その存在から逃れて妄想出来たら、俺は今頃布団に転がって夢見てる事だろう。

 本当の事を追及するからこそ、俺は今ここにいる。


「あんたは月曜日、合唱部の打ち上げが終わった後、片付けはしなくて良いと生徒を帰し、生物室の鍵と音楽室の鍵を入れ替えて返す。当然あんたは、ちゃんと所定の場所に返したと言い張るつもりだったんだろう。そして部活の無い火曜日、鍵を借りた様に中森に工作させ、音楽室にドライアイスの入った袋を持って行かせた」

「何で鍵を入れ替える必要がある?」

「月曜日にちゃんと掛かっていた鍵が入れ替わっていたのなら、火曜日に誰かが鍵を使ったに違いないと言う事になる。でも火曜日はあんたは学校にいない。自動的にあんたは犯人から完全に除外される。あんたは中森先輩にこう指示したんだ。鍵の貸し出しノートに偽名を使って鍵を借りた様に痕跡を残せ、と」

「どっちにしたって僕が中森を使ってやった証拠は何処にもない」

「まぁ実際、音楽室は鍵が無くても開いてしまう。鍵を借りなくても誰でもドライアイスを放り込みに行く事は可能だ。だが、中森先輩はそのアリバイ工作に気付いた」


 鍵のノートにあった「十五時 五月」と言う記録は、生物室の鍵を借りていた。

 生物室の鍵を借りたんじゃ、アリバイとは言い難い代物になる。

 生物室の鍵を借りたヤツがいたとしても、音楽室に入ったことの証明にならない。

 橘の狙いは沢木が入る前に音楽室の鍵が借りられた様に痕跡を残す事で、火曜日に学校にいない自分のアリバイを確定する事がまず一つ。

 次に本当に音楽室の鍵を借りたはずの沢木が「間違えて持って行った」と言う事で記憶に残す為の二重トリック。

 本当は十五時に五月と言う名前で音楽室の鍵を借りた様に細工する筈だった。

 でもそれに気付いてしまった中森の僅かな抵抗がそこに残っていた。

 橘が言う様に、発火事件の証拠はもうどこにもない。立証しようがない。

 俺が発火事件のあった五月の時点で、直ぐにでもあの新しく出来たアイスの専門店に証拠を探しに行っていたら、物的証拠や目撃証言を得られる可能性があった。

 なのに、俺はそれを放置した。

 三か月たった今、それを手に入れるのは難しいだろう。

 ドライアイスの入手は、多分あの店だ。

 そしてそれ以外に証拠として思い当たる物は無かった。


「鍵のノートに書かれていた偽名は五月。最初は五月に起こった事件だし、深く考えずに適当に書かれた偽名かと思ったけど……中森先輩は、そこにヒントを残してた」

「ヒント……?」

「陰暦で五月は橘月、つまりあんたの名前を書いてたんだよ」


 中森は多分、この計画に乗ってしまった後に気付いてしまったんだろう。

 川端をほんの少し懲らしめる為の遊びの様な計画。

 実際、中森に課された使命は鍵のノートに偽名を書き残す事と、ビニールに入ったドライアイスを散らかった音楽室に放り込むだけの簡単な仕事だった。

 その結果、煙にビビった川端が沢木と噂になり、そうなれば沢木は全力でその噂を否定する。川端と自分は何の関係も無いと。

 でもそれは橘のとても醜悪で危険な感情の上で踊らされていると、気付いた。

 何故なら、それは沢木縁の手の内で爆発するかもしれない危険を孕んでいたからだ。

 中森は橘の目的が川端では無く沢木縁だと言う事に気付いて、あの鍵のノートに僅かな痕跡を残した。


「中森先輩は俺に真実が分かると良いわね、と言った。あんたは欺いたつもりだったかもしれないけど、中森先輩は証言者になってくれると思いますよ?」

「物的証拠は何もない。一生徒がどう足掻こうと、教師である僕の方に信憑性があるのは確かだ」

「何で、あんな事を? あんたは、あいつの事が好きなんだろ?」

「あぁ、僕は彼女を愛しているよ。君が彼氏だろうとそうで無かろうと、僕には関係ないんだ。あの子は僕のものだ」


 気持ちの悪い笑い方だ。

 まるで蛇が獲物を狙う様な、ねっとりとした執着心が丑三つ時の闇の中に浮かぶ。

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