火の無い所に立つ煙ー第2話

 猫の額ほどの庭に、古い平屋。

 誰も手入れしないその庭は荒れ放題で見るに堪えないが、草むしりをする体力もなく、そのまま放置されている。


「きょうじゅー、ただいまー」

「んなーん」


 姿を見せずに返事だけ返して来る生意気な俺の家族。

 小学生の時、爺ちゃんが拾ってきた黒い子猫に、先生では捻りが無いと付けた名前が教授で、それも大して捻りは無かった。

 何がしかの研究をしている父親は、ほぼ研究室に入り浸り。

 今年都心の大学に受かった兄は春から一人暮らしを始め、俺はこの家にほぼ一人暮らし状態だ。


 玄関から左手に縁側が伸び、居間、台所と繋がっている。

 縁側の先には風呂場があって、その手前に離れへの勝手口がある。

 離れ、といっても爺ちゃんの書斎として使われていた小さな部屋で、中は心理学の本で埋め尽くされている。

 本棚に入りきらない婆ちゃんの愛読書は床や本棚の上に積まれていて、俺はそこで祖父母と過ごす時間が何より好きだった。

 玄関正面から真直ぐ縦に俺の部屋と兄の部屋が一応あるが、そこも殆ど使ってはいない。突き当りの両親の部屋も。


 人気のないこの家で、唯一存在感があるのは教授だけで、最初にこの家を出て行ったのは、母親だった――――。


「腹、減ったな……」


 居間にカバンを放り投げ、足元に纏わり付く教授を抱き上げ、シンク脇の皿に餌を入れてやると、下せ、と暴れる教授が俺の腕から飛び出て無心に餌を貪る。

 冷蔵庫の中の作り置きのカレーをレンジに突っ込んで、回る皿を見ながら呟いた。


「音楽室で発火……男と女……?」


 火の気のない音楽室でゴミ箱が爆発したのなら、そのゴミ箱の中に何か仕掛けがあったと断定して良いだろう。

 昨日は気持ちの良い五月晴れだったが、そう特別に暑くも無かった。

 特別棟は二階に作られた渡り廊下で繋がっているが、その二十五メートル程の渡り廊下を渡って、三階の最奥、辺境の地とも言える音楽室にわざわざ出向いてそんな仕掛けをするとなれば、そこに何か意味があるのか、ただの悪戯なのか。

 余程、暇なのか。


「面倒臭そうだな、おい……」


 夢中になって餌を齧る教授の方を振り返ってみたが、華麗にスルーされた。

 暖めたカレーをかき込んで珈琲を用意し、離れへと移動する。

 五月とは言え、飛び石三つ分外に出ると、夕暮れ時の涼しい風が刻々と夜を従えたように流れて行く。

 俺の膝の上で転がろうと、颯爽と俺を追い越して行った教授が、離れの扉の前で「開けろ」と鳴くのを苦笑いで見た。


 遮光カーテンの埃の匂い、本から漂う時間の匂い、誰もいないその小さな書斎には本の隙間に挟まった寂寥が染み出している。

 家中に人気が無いのに、その濃厚な深閑のお蔭で、俺はここにいる時が一番落ち着ける。


 誰もいない、と言う事を感じる事で希望や期待を忘れる事が出来る。

 鳶色の壁一面の本棚には心理学者だった祖父の遺品と言える本が並び、色を合わせて揃えられた祖母自慢のフランスアンティークの家具。

 祖母の特等席だった皮張りの一人がけのソファに腰を下ろすと、待ってましたとばかりに教授が膝に乗って来る。

 左脇に寄せられたパソコンデスクの上には、PCと祖父母の写真が入った写真立てだけを置いている。


「ただいま」


 挨拶だけ済ませて、教授の顎を揉みながら発火事件の事を考えていると、それを見越したかのようにポケットに入れていたスマホが鳴った。

 ディスプレイには真壁樹里まかべじゅりの表示。

 廉太郎の彼女を務める武士の様な、気の強い女だ。

 小学校からの腐れ縁で廉太郎より少し後に出会った分、廉太郎の方が古株と言える。

 朱に交われば赤くなる。

 また喧しいのが首を突っ込んで来たが、これも道理と俺は熟知している。


「はい」

『あ、もしもし、私だけど……』

「だろうね」

『相変わらずイラつく男ね!』

「樹里、スマホには名前が表示されるんだ。知らなかったか? 用件を言え」

『そりゃ、ご親切にどうも! 廉ちゃんから話聞いた。明日の放課後、空けといて』

「現場はもう見た。後は情報があれば良い」

『現場にいた女子、私と同じクラスの子なのよ』

「なるほど……」

『あんた、ちゃんとご飯食べた? いつもどうしてんの?』

「お前は、俺の母親か?」

『私からあんたみたいな陰気でイラつく男が生まれてくるわけ無いでしょっ!』


 ガチャン、と形容出来そうな勢いで通話が切れる。

 そりゃ、お前みたいな堅物な母親がいたらこっちが大迷惑だ。

 小学校三年の時、学校から帰って来た俺と鉢合わせたボストンバッグを片手に立ち尽くす母親は、目線を右上に逸らして誤魔化した様に笑って「直ぐ帰って来るから」と言って家を出た。


 ――――嘘を、ついている。


 直感的に、そう思った。

 けれど真実が怖い俺は、そこで問い質す事も、嘘を追及する事も出来ないまま立ち尽くす事しか出来なかった。

 研究員である父親は、その頃には既に今の様な研究室に入り浸りの生活を確立していたし、中学に上がってすぐ、祖父母も他界した。

 今年の春、兄の杏理が家を出て晴れて俺はこの家に一人、残されたのだ。

 淋しいなんて思わない。

 希望や期待を持たなければ、淋しさなんてない。

 人間は一人でいるのが当たり前だから、誰かがいてくれる事を想定しなければ良い。


「お前が居なくなったら、ちょっと淋しいかもな」

「ぐうぅ……」


 返事とも寝言とも取れる様な声で唸る教授は、腹一杯になって微睡んでいる。


「そしてお前、地味に重いよ……」


 気持ち良さそうに蹲る教授を見ていると、この椅子に腰かけて教授を抱いてサティを聞きながら本を読んでいた祖母を思い出す。

 物静かで、良く笑う人だった。

 剽軽ひょうきんな祖父と穏やかな祖母は所謂おしどり夫婦で、その二人の傍に居る時が一番居心地良かった。

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