文学と経験者と教授ー第7話
沢木が好むのは、もっと童話とか絵本の様な夢の在る物だと思っていた。
小説はあまり読まない俺だが、婆ちゃんが好きだったのでたまに開いていた。
江戸川乱歩なんて結構グロかった印象があるし、頭使う様な推理物や描写の深い近代文学を好むとは人は見かけに寄らないとはこの事だ。
「トロは思い出せないの?
「全く。つまりこれは、この言葉自体に意味は無い、と言う事だろ」
「どう言う事さ?」
「俺はこの言葉に聞き覚えすらないんだ。なら、この言葉は別の何かを言おうとしている」
「えーっと、何だっけ? 文学と、経験者と、教授だっけ?」
「文学は相手が好きなのもあるかも知れないが、あいつ自身が好きな事も知ってる奴だと思う。だから、この言葉の意味が分かると思ったんじゃないか?」
「なるほど……。じゃあ、経験者ってのは?」
「さっきの恋愛の話だが、もし仮にこの言葉を使って告白した人間、もしくは告白された人間がいれば、それは経験者と言えると思う」
――――死ぬほど嬉しかったのを覚えてるわ。
凜子さんの声が脳内を過った。
もし、兄貴がこの言葉を使って凜子さんに告白していたとしたら、辻褄が合う。
兄貴は「怖いモノになるかもしれない」と言っていたが、それは自分にとって都合の良い相手じゃ無かった場合、困ったことになるとも取れる。
実際、沢木が何とも思っていない相手なら、これはただのストーカー行為でしかない。
「最後の教授ってのは大学の先生って言う意味? それとも猫って言う意味?」
「猫……?」
「杏理君はトロんちの教授を指して言ったんだろ? どっちの意味か分かんないじゃない」
「……そうか。分かったぞ」
「え? 分かったの?」
「あぁ、この文章の本当の姿はこれだ」
俺は勉強机の上にあったペン立てからペンを取り、傍に置いてあったルーズリーフを一枚抜いて「ツキガキレイデスネ」と書いて見せた。
「何これ? 何でこうなるわけ?」
「アナグラムだ。この気が気でつい、寝れす。をキガキデツイネレスと書き換えて、並べ替える。そうすると、月が綺麗ですねと言う平文が出て来る。これは、夏目漱石がアイラブユーを日本人は愛してるなんて言わないもんだ、月が綺麗ですねとでも訳しなさい、と教えた逸話から来た告白の言葉だと、婆ちゃんから教えて貰った」
そして、爺ちゃんに「月が綺麗ですね」と言われた時の話を聞いた。
この逸話を知っているなら、答える側は「死んでもいいわ」と答える事も。
二葉亭四迷がドイツ語の貴方に委ねるわ、と言う言葉を「死んでもいいわ」と訳したのが、この漱石の告白の返歌の様になっていると言う話だ。
廉太郎の「猫」と言うワードが無ければ、俺の記憶にもヒットしなかったかも知れない。
吾輩は猫である、つまり夏目漱石に結びつくヒントだったって事だ。
確か、あの話を婆ちゃんから聞いた時は兄貴も傍に居た。
と言うか、凜子さんが懐かしんで死ぬほど嬉しかったと言ったと言う事は、兄貴はこんな臭い告白をしたと言うのか……。
どこまで文学かぶれなんだ。恥ずかし過ぎるだろ。
「でも、トロ。それが分かっても犯人は分からない。一体誰が……」
「それなんだが……一人該当者に心当たりがある」
「え? マジで?」
「まぁ、推論だからまだ口には出せんがな」
「でも、根拠はあるんでしょ?」
「まぁな……。だが、決定的な証拠が無い」
「筆跡は?」
「俺はそいつの筆跡を知らない。だから、あいつに聞くほか無いんだろうけどな……」
ただ、もしそうだったとしたら、あの発火事件の残った疑問を放置した俺の罪は重い。
「ご飯ですよー! 二人共、降りて来てくださーい!」
階段下から沢木の声が聞こえた。
部屋を出て行こうとする廉太郎に、犯人の目星がついた事をもう少し黙っておくように釘を刺した。
あの発火事件の時、残した疑問をちゃんと追及していれば、この件は起らなかったかもしれない。
そう思ったら、犯人を確定するのが少し躊躇われたからだ。
「でも、そうだとすれば全てが繋がる……」
「え? 何? トロ何か言った?」
「いや、何でもない。下へ行こう」
階段を下りながら、漂ってくる匂いに、腹が減っていたことを思い出す。
「何だろうね、ご飯。樹里が頑張り過ぎて無きゃ良いんだけどな……」
「まぁ、しょうがない。そこは彼氏の務めってヤツだろ。頑張って食え」
「トロも同じ物食べるんだから、他人事じゃないでしょ?」
「俺は不味いものは不味いと言って残せる立場だ。最悪、白い飯だけでも一晩くらいどうにかなる」
「エニィちゃんが作ったって事も、お忘れなく!」
「……」
「僕達は運命共同体ってね。死ぬ時は一緒だよ、トロ」
「俺は生き延びるぞ、お前を踏み台にしてもな……」
キッチンから繋がるリビングに、豪勢に並べられた夕飯は見た目ハンバーグに見える。
大きな皿にてんこ盛りにされたサラダも、見た目は旨そうに見える。
俺達の命は首の皮一枚繋がったらしい。この見た目なら、即死は免れるハズだ。
「おー、旨そう!」
見た目だけでもう安心出来るお前が羨ましいよ、廉太郎。
「でしょでしょ? 今日はエニィにちゃんと教えて貰ったから、大丈夫だって!」
ほぅ、だとすれば沢木は料理が得意、と言う事になる。
「あんまり、期待しないでね……」
それは謙遜か、はたまた本気でハードルを下げてくれと言う意味か……。
「トロワ君、どうしたの? こっち座って?」
エプロンをかけたままの沢木が椅子を引いて「どうぞ」と笑う。
久々に見る、人が集うリビングに、少し居心地の悪さを感じて呆然としていた。
「あぁ、ありがと……」
でも、目の前に並べられた皿の上のハンバーグは、不味くても食えるような気がする。
「いっただっきまーす!」
廉太郎の大きな声に、一泊遅れて手を合わせる。
「いただきます」なんて、いつ振り言っただろう。
「ご飯はお代わりありますからね」
エプロンを外しながら最後に俺の隣に腰かけた沢木は、綺麗に合掌して小さな茶碗に入った猫の額ほどの白飯を片手に取る。
「旨いっ! 旨いよっ!」
相変わらず煩い男だ。黙って飯も食えんのか。
「やったー! エニィのお蔭よ!」
「いやいや、ジュリィが作ったんだよ」
料理はある程度材料の分量が合っていれば、どうにかなる。
材料を沢木が揃えて、こねる作業を樹里がやったとしても大事には至らんだろう。
後は火加減さえ間違えなけりゃ、大惨事にはならん。
「トロワ君、美味しくない?」
「ん? あ、いや、旨いよ」
「なら、良かった。黙ってるから、美味しくないのかと思った」
「あ、悪い。ボーっとしてた」
食事中に誰かと喋る事が無いから、黙って食う習慣が身についてる。
なんて、言ったら間違いなく眉尻を下げてしまうんだろう、このお嬢様は。
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