もう一つの太陽ー第1話
あれ以来、沢木の自宅にあの変な暗号が届く事も無く、毎日の様に樹里が連絡を取っているようだが、大事に至る様な事は何も無い様だった。
ぶっちゃけ直筆で書いてあったが、黒板をほとんど使わない音楽教師の筆跡なんて、あまり覚えてはいなかっただろう。
沢木は「見覚えがある」と言ったが、見覚えがある方が凄いって話だ。
橘はそれでも、自分の手であの手紙を書きたかった。
パソコンで印字するのではなく、自分の手で書いて伝えたかったのだろう。
あんな形で告白していた事を考えたら、あの男は自分の社会的立場をちゃんと理解していたと言う事だ。
教師が生徒に色目を使って何か起これば、自分の立場が危うい事は分かっていたんだろう。
だから、俺にはこれ以上何かあるとは思えなかった。
逆に言えば、そう言う理屈が通じない相手なら、もっと早い段階で沢木の身に何か起こっていたに違いないのだ。
盆も過ぎて夏休みも佳境に入ったある日の昼下がり、いつもの様に黄色いリュックに厄介事と面倒事を詰め込んで背負った廉太郎が現れる。
「トロ、お願い聞いてくれるって言ったよね?」
縁側で扇風機の前に寝っころがっていた俺の顔の前に、廉太郎の顔があった。
「ちけぇよ……。何の話だったかな? 忘れたなぁ」
片手で廉太郎の顔を避けて、背を向ける様に寝返りを打った。
「ちょっと一緒に出掛けて欲しい所があるんだよっ」
「言ったよな? 睡眠、体力、時間が掛から無い事なら聞いてやるって。どっかに出掛けるなんて全部浪費してんじゃねぇか」
その上、心労が掛かるって言ってたな。冗談じゃない。
「一生のお願い!」
顔の前で合掌して、まさに頼み込んでいる廉太郎に溜息が漏れた。
ここで問答を繰り返した分だけ時間の浪費になるだろう。
まぁ、あの時は廉太郎の協力が無ければ一人で全て熟すのは難しかっただろうし、特別する事も無いし、付き合ってやるか……。
「どこ行くんだよ? あんま遠くに行くんなら、断る」
「二駅向こうの本屋さんだよ」
「二駅向こう? 樹里達が使ってる駅の近くか?」
廉太郎を縁側で待たせて、居間の奥にある座敷で着替えながら襖越しに喋る。
このクソ暑いのに、何で外に出ようなんて思えるのかが既に謎だ。
「そうそう、でかい本屋さんあるの、知らない?」
「わざわざあんな所まで本買いに行かねぇから知らねぇよ」
洗いざらしのTシャツに袖を通して、Gパンを履いた。
ポケットにスマホと財布だけ突っこんで、教授の餌を一応追加してから家を出る。
真夏の太陽がジリジリと肌を焼く。
終始浮かれ気味な廉太郎が、俺の半径一メートル四方の気温を更に上げている事は間違いないだろう。
「何か欲しい本でもあんのか? 電車に乗ってまで本探しに行かなくても、ネットで探せばいいだろう?」
「そこにしかない、貴重なストーリーがあんだよ!」
「意味が分からん……」
「そう言えば、エニィちゃんがパリに行く事、トロは知ってたんでしょ?」
「あぁ、まぁ……」
「行かないでってちゃんと言えた?」
「は?」
「現実的にそれが叶わないとしても、行って欲しくない時は行かないでって言うべきだよ。現実と自分の気持ちは別物なんだからさ」
「結局行ってしまうなら行くなって言った所で一緒じゃないか。それに俺は……」
「行くなって言って、それでもどっかに行かれるのが怖いんでしょ? トロは」
何もかもお見通しと言う、ニヤついた廉太郎の顔に本気でイラッとさせられる。
この男は理論理屈では説明できない癖に、本能的な直感で俺の内心を暴いて来る。
「別に怖くない。非効率的な事を避けたいだけだ」
「じゃあ、逆にさ」
「あ?」
「自分がどうしても行かなきゃならない時に、行かないでって言ってくれる人が居なかったら、トロはどう思うのさ? 現実的に行かないって事が無理だったとしても……僕なら、大事な人にはそう言って欲しいと思うけどな」
「そんなの……考えた事も無い」
自分から誰かの傍を離れるなんて、家族ですら自分の周りにいない俺には考えた事も無い話だ。
だけど、廉太郎の言う事は、少し分かる気がした。
誰にも引き留められない、誰にも興味も関心も持たれてない、そう感じる事は知らない訳じゃ無い。
だとしたら、あの日、嘘を付いて家を出たあの人もそう思っただろうか……。
俺が泣いて縋って行かないでと言ったら、あの人は少し嬉しかったのだろうか。
「そう言えば、橘は学校辞めるらしいよ」
「何でお前がそんな事知ってんだよ?」
「中森先輩に犯人確保の報告をしたら、合唱部の部活の時に一身上の都合で退職するって言ってたって連絡があった」
「お前、まだ中森と連絡取ってたのか……」
「ああ言うタイプの人は味方に付けておいた方が得だからね。凜子ちゃんと同じ匂いがするもん、あの人……」
動物的嗅覚なのか。流石、生まれてからずっと凜子様に仕えているだけある。
確かに中森は食えない感じが凜子様に良く似ている。
「そう言えば中森先輩が、砕く前に気付いて良かったわ、って言ってたんだけどどういう意味だと思う?」
「それは……」
橘が「ピアノさえ弾けなくなれば」と言っていた事を思い出す。
橘の狙いは多分、沢木の手。
ピアニストにとって一番大事な手を狙っていたのだろう。
橘は中森にドライアイスを直前で砕いて音楽室に放置する様に指示していた。
その方が気化までの時間が早まる。
だが、鍵の工作の時点で気付いた中森はその時間を引き延ばす為に、ドライアイスを個体のまま置いて帰った。橘の完璧主義に泥を塗る為に。
「まぁ、解決したから良いけどね! あ、そろそろ着くよ、トロ」
「あぁ……」
電車で十分。
樹里や沢木が住んでいるこの街は、高校に入ってから良く足を運んでいる。
駅前には大きな車道が走り、ドラッグストアや大型ショッピングモール等の店舗が並び、少し奥へ入ると閑静な住宅街が広がっている。
「こっちこっち」
早くしろと言わんばかりに廉太郎が前を歩きながら、イチイチ俺を振り返って手招きする。
「分かったから、少し落ち着けって……」
道路沿いに右に折れて真っ直ぐ歩いていると、ふと左手に大きな建物が目に入った。
「芹沢女学園……?」
沢木を送って帰った時に、見掛けた廉太郎と一緒にいたあの女子はここの制服を着ていた。
何か、とてつもなく嫌な予感が背筋を走って行くのを感じた。
流石に夏休みだし、生徒の人影は見えないけれど……。
まさか、二人目の彼女を紹介されたりした日には、樹里に殺されそうな気がする。
いやまぁ、廉太郎に限ってそんな事はしないだろうけれど……。
隠れてコソコソなんて、一番似合わないヤツだ。
芹沢女学園の前まで来ると、向かいに大きな本屋が見えて来た。
三階建てのその大きな本屋を指して、ここだよ、と廉太郎は楽しそうだ。
「早く欲しい本探して買ってこい」
「トロも一緒に行くんだよ!」
「俺は適当に時間潰して待っててやるから……」
「ダメダメ。目的地は三階、ほら、行くよ!」
わけもわからないまま、背中を押される様に入った自動扉の先にはエアコンの涼しい冷気が待っていて、俺は少しさっきまでの焦りが引いて行くのを感じた。
何をするか分からない得体の知れない廉太郎と言う生き物に、俺はずっとこうやって振り回される運命なのだろう。
これに熱血で泣いたり怒ったり忙しい樹里がくっついてくるんだから、俺の人生は騒々しい事極まりない。
そしてあの手の掛かる天然お嬢様、沢木が増えたのだから過剰労働と言っても過言じゃない。
どうしてこう、俺の周りは落ち着かないのだろう。
三階へと辿り着いて、徐に廉太郎は傍に在った旅行ガイドの様な雑誌を俺に渡した。
「はいこれ、あのレジで買って来て」
お洒落パリの一人旅。これさえあればパリの全てが……? 分からんでも良い。
「お前、これが欲しかったのか? つーか、これ何処でも買えるだろ?」
「良いから! ハイこれ、お金!」
財布から千円札を抜いて押し付ける様に渡す廉太郎は、切羽詰まった顔をしている。
「何でお前はそんなに必死な顔してんだよ……」
「お願い、聞いてくれるって言ったじゃん……」
そんなにパリの全てが知りたいのか。それは初耳だ。
と言うか、自分で買いに行けば良いものを……。
俺をパシリに使うのが夢だったのか? 小さな夢だな。
まぁ、こいつが理解不能な生物なのは今に始まった事じゃない。
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