白い謎ー第9話

「当時大学生だった主人は、お母様の御危篤にも駆けつけられなかったお父様を酷く軽蔑したそうなの。その事があってから、主人とお父様の折り合いは悪くて……」


 俺はもう、帰りたくなって来ていた。どっかで聞いた事のある様な話だ。

 そして更に、金が絡んだ話と言うのは、得てして醜い結末を迎える事が多くある。

 ここで一応現場まで行って、考える振りさえしていれはバレはしない。

 結果「分からなかった」と言う事にして早々に退散するべし。


「あ、あのっ……お母様はどんなご病気だったのですか……?」


 お前は、そこを気にするのか……。

 沢木は聞き辛そうにはしているが、それは聞いておかねばならないと言う顔をしている。


「ガンだったそうよ。一年程闘病されて、最後は眠る様に逝かれたと聞いているわ」

「そう……ですか……」


 二十一年も前に死んだ見ず知らずの女性の死を、こんな苦渋の顔で受け止めるのはこいつくらいだろう。

 感受性が強いのは悪い事では無いと思うが、この表情にはきっと危篤に立ち会わなかったと言うお父様の事が含まれている。

 沢木縁さわきえにしとはそう言う女だ……多分。


「主人はあんな部屋、壊してしまえと言うのだけど……」


 夫人は困った様に俯くと「いやだわ」と気を取り直して顔を上げる。


「何故、壊さないのですか?」


 樹里があたかも「そうして仕舞えば良かったのに」と言いたげに突っ込んだ。

 樹里の事だから、そんな男の遺品など壊してしまっても良いだろう、と言う単純な発想だろう。

 死者と言うのは美化されがちだ。

 死んだ方の人間が、同情に値する。

 亡くなったお母様がどんなに悪女であったとしても、この話で分が悪いのはお父様の方だ。

 何故なら危篤に立ち会わなかった、と言う事実の裏側を俺達は知る由もないからだ。

 直球で放たれた樹里の言葉と視線に少し狼狽えた後、夫人は右下に視線を落とした。


 痛みを思い出している? ……何の痛みだ?

 右下を見るのは肉体的苦痛の記憶を反芻している時だ。一体、何が……。


「お父様は私には優しい人だったから……」


 そう前置きの様に零して、綺麗に重ねた膝の上の両手を握りしめる。


「私達夫婦は学生結婚でね。お母様の一周忌が終わってすぐに結婚して、私はここに嫁いできたの。若い貴方達にこんな事を言うのは恥ずかしいのだけど……今でいうデキチャッタ婚で、松平家の親族からすれば私は馬の骨、肩身の狭い想いを強いられる事も多かった」


 これもどこかで聞いた事ある話だが、そんな夫人にお父様は優しかったのだと言う。


「お父様だけが、無理をしてはいないか? 何かあったら言いなさい、っていつも気にかけて下さっていたのよ」

「自分の奥さんの危篤には駆け付けなかったのに?」


 廉太郎の言う事は最もだ。

 息子の嫁に来た夫人には優しく、自分の嫁には冷たかった。

 これはお父様の人格ではなく、夫婦間が冷え切っていた、と言う事になるのだろうか。


「嫁いでくる前の事は、私も良く分からなくて……。主人がお父様を毛嫌いする理由も、お母様の件があるからだと理解はしているけれど、あの部屋がお父様の大事な物だとしたら、壊してしまうのは忍びない気がして……」


 遠くで「かっぽーん」と言う音が聞こえた気がした。

 水の無い枯山水にかっぽーんがあるわけもなく、その音はどうやら母屋の反対側にある中庭からの様だった。

 重く雲を漂わせる空の影が縁側を浸食して来て、雨の気配に窓の外へと視線を移した俺は「現場を見せて貰えますか?」と立ち上がった。


 案内された開かずの間は、高さ四メートル、幅、奥行き共に三メートルくらいだろうか。

 白い壁の四角い箱には正面に観音開きの立派な鉄扉が付いている。

 蝶番は外に上下左右に四か所、左右の扉に一本づつ縦に長いドアハンドルが扉中央に付けられていて、スライドさせる為のサッシも見当たらない。

 そして最もオカシイのは「鍵穴」が無い事だ。

 鍵穴の無い立派な鉄扉の横に、謎の十字の鉄の棒が一メートル程突き出して埋め込んである。


「一つ、確認したい」


 案内してくれた夫人に向き直り、声を掛ける。


「この部屋、入れないと言う事は?」

「それは無いと思うわ。お母様の遺品をお父様はここに全部保管していると仰ってたから。お父様は人に見られない様に、夜中にしかここに入る事は無かった様だけど、母屋にはお母様の遺品は一つも無いから、それは嘘ではないと思うわ」

「なら、お父様以外にここに入った人は居ないのですね?」

「えぇ」


 俺達はここを調べる時間を貰い、夫人は「何かあれば呼んで下さいね」と母屋へと戻って行った。


 雨を運ぶ風が生温く過ぎ去って行く。

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