文学と経験者と教授ー第1話
夏休み。惰眠を貪る幸せな毎日に、沢木から不穏な匂いのするラインが入った。
>トロワ君。【気が気でつい寝れす】って何かな?
>知らん。ちなみに、寝れず、だろ。濁点が抜けている。
>いえ、寝れす、と書いてあります。
>何の話をしているのか、全く分からん。
>私にも、何の話なのか全く分からないんです。
それは大変だ。と突っ込もうかどうしようか悩んでいる所に、
>明日、会いに行っても良いですか……?
>構わんが、一人で来れるのか?
>道順は覚えてるから大丈夫。お昼過ぎには行けると思う……。
終りにフワフワしたウサギのスタンプが貼られて、俺は了解、と短く返した。
何しに来るんだ……。
別に用事はないから構わんが、夏休みに入ったばかりだと言うのに、学校以外で沢木に会う事になろうとは。
外を一緒に歩いて、誰かに見られるよりは余程マシかもしれん、と縁側に寝転がり教授の尻尾が頬に当たるのを感じながら寝入る。
夢を見ていた。
忘れたい記憶は潜在意識の奥深くに収納されていると言うのに、たまに気まぐれにそこから湧き上がって来ては同じ夢を見せる。
「
右上をチラリと見たその人は、震える指で玄関を開けて振り返りもせずに行ってしまう。
開かれた玄関から見えたのは、黒いセダンに乗った見知らぬ男。
多分、俺がその時の事を忘れられないのは、右上に視線を移された時の衝撃が今も消えないから。
返事が出来なかったのも、何故嘘を付かれたのか分からなかったから。
俺がそんな風に見ていた事を、あの人は知らなかっただろう。
「……夢か」
西日の差す縁側で汗をかき過ぎて、ぐったりとした目覚めだった。
あの時から、俺は傍観者でいようと決めた気がする。
どんなに嘘を見抜いても、蓋を開けて良い事なんか無い。
優等生の相馬君の事をクラスの全員にバラした俺は、嘘を付いて家を出たあの人の事を、誰にも言わなかった。
それでもあの人を、誰も探そうとしなかったのは、家の者は本当の理由を知っていたのだろうと子供ながらに思った。
翌日、午前中に家の事を済ませて素麺を流し込んだ後、爺ちゃんの書斎に行って適当に本を取り、縁側に寝転んだ。
沢木は昼過ぎには来ると言っていたし、本でも読んで時間を潰そうと扇風機の前で横になったのも束の間、ウトウトし始めた俺をここぞとばかりに弄りに来る教授の気配を感じた。
顔の前に尻尾を持って来て、ふりふりし始め、小馬鹿にした様に俺を弄るのだ。
「きょうじゅー……くすぐったい」
「んなーん……」
「……なんだ、一緒に寝……」
「あ、あのっ……」
尻尾を掴んだはずだ。
「何してんだ? お前……つか、どうやって入った?」
「げ、玄関が開いていたので、何度も声を掛けたんだけど……教授さんが沢山鳴くので、もしかして何かあったのかと思ってしまって……勝手に入ってしまってごめんなさい」
俺が掴んだのは沢木の髪で、それをチラッと見る視線に「悪い」と手を離した。
起き上がると「いえ」と髪を耳に掛ける仕草で沢木は恥ずかしさを誤魔化す。
「寝るつもりはなかったんだが……。教授は玄関に誰か来ると餌を貰えると思って鳴くんだよ」
ん、待て。玄関が開いていた?
「お前、さっき……」
「
……犯人はお前か、兄貴よ。
シャワーを浴びて来たであろう半裸状態の兄、杏理が風呂場から出て来た。
小さい頃からのガリ勉と夜中の読書が祟ってド近眼なのだ。
「兄貴、メガネをかけろ……」
「あのっ、あのっ、わ……私っ……」
「フィギアが喋った……」
「良いから早く服を着ろ!」
真っ赤になって両手で顔を覆ってしまった沢木の方へと体を傾け、視界を遮る。
兄貴は俺と血が繋がっているのか怪しい位、俺とは正反対の人種だ。
大らかで能天気で、勉強だけは出来るので頭が上がらないのだが、大らか過ぎてたまにイラッと来る。
「悪い……。うちは男所帯ってヤツだから、ああいうの普通にあるんだ」
「あ、いえ……私の方こそ、ごめんなさい……ちょっと、ビックリして……」
背中に当たっている小さな額が、熱を持っているのが分かる。
教授が「何々、どうしたの?」と言わんばかりの顔で俺を見上げていた。
「教授、誰にでも餌を強請っちゃダメだ……」
眉間を指で撫でてやると、グルグルと喉を鳴らす。
「ばーか、喜んでんじゃねぇよ」
「教授さん、お腹空いてたのかな?」
「いや、ちゃんと餌やったし、取りあえず強請っとけって感じだろ」
「ふふっ、じゃあ今度おやつ持って来ますね」
「やめろ、太るから。一応、こいつは雌なんだ」
「知ってますよ? 女の子らしい顔してます」
「高校生にもなると、家に女を連れ込む様になるのか……」
着替えて眼鏡を装着した兄貴がポカリと口を開けて俺の方を見ている。
「連れ込んでねぇわ!」
寧ろ、お前が鍵をあけっぱで風呂なんか入ってるからこんな事になってんだろ。
「あ、あ、あ、あのっ……私っ……さ、
「落ち着け」
「おぉ! これが噂のエニィ! いやー、どうもどうも、瀞和の兄の杏理です」
噂の……。学校以外でも噂になるのは、絶対浅沼家のせいだ。
松平邸の話を聞きに行った時に、廉太郎が「彼女」なんて言うから、凜子さん経由で兄貴の耳に入ったのだろう。
「か、上条君とはその……」
「弟がいつもお世話になってます。何かとぶっきら棒な弟と仲良くしてくれてるんだってね。ありがとうね」
こいつの、こういう所は昔から敵わないと思う。
人に嫌われる要素など一ミリも所持してない様な笑顔で相手の気持ちを察して、やんわりとフォローを入れたりする。
俺には付いてない機能だ。だが、俺は知っている。この男の本性を。
「で、二人で何してたの? ん?」
目が笑ってねぇ。やめろ、馬鹿兄貴。
「兄貴が鍵あけっぱにするからだろ。俺寝てたし、返事無いから心配して上がって来たみたいだ。それに帰るなら帰るって言っとけよ」
「そーか、そーか。そりゃすまん。
「知るか」
「凜子さんって……廉太郎君の、お姉さん?」
「あぁ、凜子さんは兄貴の彼女だからな」
「わぁ、そうなんですね! 美男美女カップルですねっ!」
「そぉ? そう思う? エニィは良い子だなぁ! ほら、こっちに来てお茶でも飲みなさい」
おいおいおいおい……。
まだ続くのかよ、この茶番……。
チラリと教授と目が合って、そのまま書斎に逃げようかと思った矢先に、手首を掴まれた。
「トロワ君も一緒に……」
チィ……。動物的勘ってヤツか。
教授はふいっと身を翻してどこか寝場所を探しに行ってしまう。
裏切り者め……。
「はいはい……」
「はい、は一回ですよ」
「ぶっ!
「うっさいわ!」
樹里と違って沢木に対しては、樹里を相手にする時の様な物言いを無意識に控えてしまう所が無いとは言えない。それは多分、沢木が俺の言葉を真っ直ぐに受け止めて傷つくかもしれないと言う危機感がそうさせるのだと思う。
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