文学と経験者と教授ー第10話

「いこっか。二人が変に思うかも……」


 振り返って鍵を開け、開こうとした扉を片手が勝手に塞いでいた。


「そのまま、聞いてくれ。ちょっと、言葉選べなくて意味不明かも知れないけど……」

「う、うん……」


 ドアの方を向いたままの沢木の首筋に、縋りたくなる様な気持ちになる。

 ただ、今何も言わなかったら、後悔しそうな気がした。

 何も言わずに見送ってしまったあの時みたいに、置いて行かれる事の方が怖いと、思ってしまった。

 あの時、あの人に何か言えたら、あの人は留まってくれただろうか。

 なんて考え尽くしてしまった葛藤が、アスファルトの地面を割って生える雑草の様に芽を吹く。


「俺は先の事なんて約束出来ない。だけど……その、お前が震えたり、その手を握りしめて我慢したりするのは嫌だと思うし、あのメッセージの犯人は俺が何とかしてみせる。今、言えるのはそれだけだ……」


 沢木は「十分だよ」と振り返り様に笑う。

 部屋を出ると、二階の扉は全て全開になっていて、俺達がいる部屋の前にバカップルが聞き耳を立てていた。


「やーらしー、トロ。鍵なんか掛けちゃってやーらしーんだから」

「鍵を掛けたのは俺じゃない」

「「えっ?」」


 二人に疑いの眼差しを浴びて慌てている沢木が、恨めしそうにこっちを見た。


「樹里、ココ何か付いてるぞ。蚊にでも刺されたか?」


 俺は自分の耳の下辺りを差して言うと、真っ赤に赤面した樹里は絶句していた。


「耳が付いてる、って言いたいんでしょ? トロ」

「……何それ! 相変わらず腹立つ男ね!」

「僕がそんなヘマする訳ないじゃない、樹里」

「廉太郎、何かしてたって自供を堂々とするな」


 さっきまであんな面して立っていた癖に、沢木はまた真っ赤になって俯いている。

 どうも沢木縁さわきえにしが相手だと調子が狂う。

 俺は、何を言いたかったんだろう。

 何か言わなければ、と言う衝動だけで開いた口から零れた言葉は、あいつにどう伝わったかすら分からない。

 だが、重かった体が不思議と軽い感じがするのは、きっとあいつが笑ったからだ。


 風呂を済ませ、俺達は別室で休むことになった。

 沢木の部屋の隣は和室で、風呂に入っている間に吉野さんが布団を用意してくれていた。


「見て、トロ。何か高級老舗旅館に来たみたいだろ! あ、そう言えばお手伝いさんの吉野さんは、このお家の裏手に自室があるから、そこに住み込んでるらしいよ。何かあったら呼んで下さいってさ」

「へぇ……」


 吉野さんが同じ屋根の下にいないのなら、居るとは良い難い。

 それで樹里を呼んだのか。

 先に風呂に入った廉太郎は、まるで我が家の如く布団の上を満喫している。

 何処だろうと立派に順応してみせるお前にはホント感心するよ、と内心呟きながら隣に並べられた布団の距離を少し離すと「襲ったりしないよ」と廉太郎は俺を睨んだ。


「しっかし、女子の風呂は長いねぇ」


 洗われた犬の様に短い髪を左右に振る廉太郎に、タオルを投げつける。


「全くだなっ!」

「ちょっと、投げないでよ! あの二人湯船の中で何話してるんだろうねぇ?」

「さぁ……」

「トロ、さっき二人っきりで何話してたのぉ? もしかして告白とかしちゃったの?」

「どうだろうな……」

「え? 否定しないんだ? うそ、マジ?」


 ――――エニィ!


 空耳の様な僅かな声に、俺達は顔を見合わせた。


「トロ今、樹里の声が……しなかっ」

「一階からだ!」


 慌てて階段を駆け下りると、パジャマ姿の沢木が廊下にぶっ倒れて、プチパニックを起こしている樹里がいた。

「樹里、どうした!?」


 俺の声に樹里は泣きそうな顔で振り返る。


「っ! エニィが突然倒れて……どう……どうしよっ……」


 余程現状に理解が追い付いてないと見える。

 倒れた沢木は身体が熱くて呼吸が浅い。風呂に入り過ぎて逆上せてしまった様だ。


「廉太郎、樹里をリビングに連れて行って休ませろ。俺はこいつを二階まで運ぶ」

「分かった」


 抱き上げた身体は軽くて、勢い余って後ろに倒れそうになる。

 俺の家で廉太郎が覗いていた時の異常な怯え方、猫の額ほどの飯、手を握られた時のあの熱い体温。


「阿呆が……」


 あの手紙の一件が少なくとも三週間続いていて、この誰もいない様な家で、一人ずっと耐えていた事にもっと早くに気付くべきだった。

 俺の様な傍観者とは違う。

 感受性の強い沢木がそんな緊張状態に長く置かれて、しかも学校が休みに入れば気が紛れる事も無くなるだろう。


「阿呆は俺か……」


 ベッドに寝かせて、パジャマのボタンを外そうかと悩んで止めた。

 頬が林檎病みたいに真っ赤になって、幼い子供の様だ。

 こんな時だと言うのに、親指を握り込んで自分を抑えようとしている。

 歪んだ眉が息苦しそうで、自分があの発火事件の残った疑問をおざなりにした事を激しく後悔させられる。


「悪い……。俺のせいだ……」


 窓を開け、一階に氷水を取りに降りようと扉を開けると、洗面器に氷水を用意して来た樹里が立っていた。


「樹里、大丈夫か?」

「あ、うん……ちょっと、ビックリしただけ。ごめん……」

「少し、付いててやってくれ。それと、パジャマ少し楽にしてやれ」


 樹里の肩に手を置いて「頼んだぞ」と一言添えた。

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