第56話 結び
黒風のすぐ脇を一頭の馬が走り抜けた。当然、馬だけではあるまい。黒風は頭が働くより先に馬に付いて駆けだした。
見失ってはならない。その一心だった。
馬上の武者は政虎だった。彼は脇を走る黒風に気付いた。
「黒風、来い!」
「承知!」
駆けながら政虎が言う。黒風は鋭く返事をして走る馬の背にひらりと飛び乗った。一瞬躊躇ったが、緊急事態と割り切り政虎の肩に触れる。それを政虎も咎めなかった。笑みすら浮かべていた。それに黒風は気づいてはいない。索敵に夢中だった。
黒風には政虎の向かう先が、聞かずともわかる気がした。武田の旗印が増えてきている。何が起きたのかは分からなかったが、時間が無いことだけは直感で分かった。そもそも、じっくり腰を据えて戦をしてもいい状況ならば、大将が単騎で駆けてはいまい。こうなれば、危険は危険だが、それしかないと、本能が言っている。
今、二人は一つだった。
立ちふさがる武田の兵を政虎の馬が蹴散らす。飛んでくる矢を黒風が落とした。
時折、前方で駆け寄ろうとする兵が、喉や額を抑えて倒れることがあった。誰が何をしているのか、見ずとも政虎にはわかった。
やがて、人の波が無造作に切れ、諏訪法性の兜が見えた。
「御屋形様!」
黒風が叫んだ。
「うむ!」
そこでひらりと黒風は馬から降りた。
ここから先は聖域。そう、思えたのだ。
(政虎様は、戦場に聖域を見ている)
おかしな表現ではあるが、そう思える何かが今はあった。そして、恐らくは武田信玄も思いは同じ。
戦を越えた何か。それが、たとえそれぞれに違うことを思っていたとしても、その根底にあるものに大きな違いは無いように思えた。それは、他者が踏み入ってはならないもののように思えた。
そして、普通ではありえない、今までに見たことのない場面が展開しようとしている。
大将同士の一騎打ちを、黒風は目にした。政虎の振り下ろした刀を、信玄は軍配で受けている。二度、三度、鋭い金属音がした。
「御屋形様!」
駆けつけたのは武田の武将だ。黒風がすかさず間に入る。正直、真正面から切り合って勝てる自信は無い。
しかし、汚させはしない。その想いだけで動いた。身を屈めて武将の足元を払った。
その時、倒れこむ武将の後から他の武将が放った一撃が、政虎の馬に当たった。
驚いた馬は嘶き、駆けた。黒風は追いたくても、敵兵が邪魔になって追えない。半ば囲まれた形になった。
(これまでか)
それでもいい、と、すら、思えた。
一陣の風が、黒風の頬を撫でた。
戦場の風だ。男たちの怒号、馬の嘶き、鋼と鋼のぶつかり合う音。血の匂い。
戦場に生きると決めたものに、戦場で死ぬと言うことはつきものだ。自然の摂理だ。
あとは、
(さやのことは、お屋形様がお守りくださる)
そう思った黒風の耳に、政虎の声が響いた。
「生きよ! 黒風!」
強い声だ。真を示す、心からの。その言葉は、黒風に強い意志を生んだ。
(生きよ)
それは信長にも言われた。義元にも、今、交戦している信玄にも。あの時は、その意味が分からなかった。だが、今ならわかる。
それが、本心だと。
誰しも、少なからず縁を結んだ相手を失いたくはない。縁を結ぶということは、命を、生を結ぶということだ。現世を生きる、その全てのものたちに、恐らくは、本人が気づくことなく流れる、大きな大きな流れ。それを、結ぶ。身分の上下なく、生まれの違いなく、それは、同じ。同じだからこそ。
「が、あああああああっ!」
黒風は吠えた。
目の前の敵兵をなぎ倒し、戦場を駆けた。一見、自殺行為にも思えるその様は、根底に強い意志を湛えていた。
今までの結びに誓いを込めて。
生きる、と。
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