第36話 邂逅
白く煙る世界の中を、半ば現実ではないような感覚で、歩いていた。それは、儀式のようでもあった。昔の仲間と共に生きた与四郎から、一人、別の道を行く黒風へと、変わるための。
それでも、戻るわけではない。
時を経て、人は変わる。それを感じている。自分も、以前の自分ではなく、新しい黒風になるのだろう。
そんな気がした。
「早いな」
約束の場所に出るや否や、声が聞こえた。もう間違わない。あの男だ。
相手の男は振り向いてもいなかった。
「よく、分りましたね」
「足音と、人の気配がした。お前だと思った。それだけだ」
そう言って振り向いた男の顔は、静かに微笑を浮かべていた。
「もし来なかったらどうするおつもりでした?」
「どうも。その時は縁が無かったということであろう」
「一介の名も無き野武士。居てもいなくても同じでありましょうが、時間は惜しむべきでは」
「否、あまり自分を卑下するな」
そう言って、男は黒風の肩に手を置いた。その温もりは、どこか、刃を思わせた。男の姿から察するに、年の頃は三十路に入ったばかりと見えた。五十路に近い刃とは年も違い過ぎる。単に、年上の男性を身近に感じたのがこの二人であるというだけかもしれないと、黒風は思った。
「いえ、自分の器は存じておりまする」
「その腰の低さもまた、美徳」
男はそう言って笑った。
「名も聞かず、名乗りもしなかった。それで、結ばれる縁であれば、結ばれるべきものと思える。儂は、其方にまた会えたことを嬉しく思う」
男の言葉には、嘘偽りは一切無いように聞こえた。どこまでも澄み渡る空のように、誠しか含まれていない。その清々しさが、黒風には心地よく感じられた。
「私も、嬉しく思いまする」
「そうか、」
男はそう言って、静かに笑った。
「お話とは、何にござりましょう」
「うむ」
男は一つ咳ばらいをした。何かを言い辛そうに口ごもり、それでも口を開いた。
「お前に、慰めて欲しい者があると、話したな」
「は、」
「女だ」
黒風はやはりか、と、思った。
「血縁ではない。少々、奇妙な縁を結んだ女子だ。故に、秘匿としている。それを、守れるか」
黒風は意図を測りかねた。血縁ではないというのはどういうことなのか。武士であれば、自分の正室でなくても、側女を持つことは珍しくない。それほど身分は低くないように思えるが、なぜそこまで隠すのか。
「素性が知れぬ故、儂が預かっている。とても繊細な女子だ。静かに暮らさせてやりたい」
「そのような大切な方に、私などが近づいてもよろしいので?」
「卑下するなと言うたであろう。儂が良いと思ったまでだが、間違うてはおらぬと思う」
「縁、ですか」
「そうだ」
黒風は少し黙った。正直、少々面倒だとも思った。だが、この男と、もう少し話がしてみたいと思った。
(それだけが、動機でも良いか)
黒風はふっと笑った。
そして、
「承りまする。秘密は、厳守いたしますれば」
「礼を言う。きっと、かの女子の慰めとなろう」
そう言って、男は黒風の手を取った。
「このまま、参りまするか」
「うむ。お主はそれでよいか」
「御心のままに」
「では、参ろう」
「その前に今ひとつ、お聞かせ願えませぬか」
「何だ」
「私は黒風と呼ばれておりまする。どうぞ、お名をお教えくださりませ」
「政虎だ」
「は?」
聞き返したものの、聞こえている。まさか、と、思った。
「長尾景虎、改め、上杉政虎。うむ、まだこの名には慣れぬな」
そう言って、男は照れたように笑った。
逆に黒風の顔からは血の気が引いた。心臓が大きく脈打つ。自分が、様々な意味で求めた相手が、今、目の前にいる。
否、既に出会っていたのだ。
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