第37話 女
搦手。
城の規模は大きく、山一つがそのまま城になっているようであった。その縄張りのうち、奥に位置する場所。
黒風は、そこにいた。
夜である。月は薄く、それでも明るく感じた。厚い雲がその月の前を何度か行き過ぎていった。
黒風はあれ以来、政虎とまともに言葉を交わしていない。何をどう話せばいいのか分からなくなってしまったのだ。かけられる、さほど多くはない言葉に、気の無い相槌ばかり打っている。それをどうとられているのかも、怖くて確かめられずにいた。
今の黒風に分かるのは、出て行けと言われない限りは決定的な不興は買っていないであろうという、自分自身の甘えだった。
ふわり、と、風が過った。その心地よさに黒風は目を細めた。人との関りであれやこれやと悩んでいる時、人の関わらない自然のものは、心を癒してくれる。耳を澄ませば、そこここに優しい音があることにも気付く。黒風は暫し、それに身を委ねた。
と、ふいにそこに人の気配が混じったことに気付いた。黒風は反射的に身を固くした。ここに、まだまだ自分が知らぬ場所であるここに、自分に害を成すものがいないとは限らない。政虎の庇護下にあるとはいえ、非公式だ。まして、名も無い一野武士。どうなろうと何にも悪くは響かない。
黒風はじっと気配に集中した。殺気などは感じられない。その時、雲間から月が顔を出した。すぅっと降りる、仄かな月光の中に一人の女の姿が浮かび上がった。
美しい、女であった。
元は、と、言うべきだろうか。その顔には、大きな傷があった。戦にでも巻き込まれたのか、村が襲われでもしたのか。元の顔立ちが美しいだけに痛々しい。仄かな月光の元、ましてその傷では、年は推し量れなかった。黒風よりは年上だろうということぐらいだった。
彼女はどこか遠くを見ていた。口元が僅かに動いている。誰かの名を呼んでいるようだが、声になっていない。唇も読み切れなかった。声をかけようかどうしようか迷っていると
「ここに居ったのか」
背後から聞き覚えのある男の声がした。
(政虎様)
その主に思い当たり、黒風ははっとなって声の方に身を向けた。一瞬、対応に困る黒風に静かに微笑み、政虎は黒風の肩をぽんと叩いて脇をすり抜けた。そのまま真っ直ぐに女の元へと歩いて行く。
政虎は何かを話しながら女に近づいていった。すると、女はほんのりと笑顔を見せた。彼女が、先ほどとは違い、安堵しているのがわかる。
「あ、」
もしかしたら、政虎が語っていた女とは彼女のことかと思った時、声が漏れた。その声に女が黒風の存在に気付いた。怯えた様子で政虎の着物の袖を掴んだ。目線が彷徨っている。一瞬、目が合ったと思ったが、気づいてはいない。
(もしや、目が見えないのか)
黒風はその時初めて気づいた。だから政虎は声をかけながら近づいた。女が怯えぬように。
「大事ない」
政虎は怯える女に静かにそう言った。女はまだ不安そうにしているが、それでも少しは持ち直したようだった。それを見定めてから、政虎は再び黒風に視線を戻しら。
「そう、この女子だ。明日にでも席を設けようと思っていたのだが……思いがけず縁があったようだな」
政虎は黒風の表情と声から、状況を正しく判断していた。女が不安そうに政虎を見上げる。見えてはいないようであるのに、声の方向へ目線を向けている。
「うむ。其方の慰めになればと思うてな」
その言葉に、女は力無く首を横に振る。
「やれやれ……さて、今宵はもう遅い。ここまでとしよう。黒風、戻れるな」
「はい」
黒風は努めて静かな声で返事をした。女を驚かせないようにという気遣いだった。そして、足元に咲いていた、名も知らない花を一輪、摘んだ。顔を近づけると、仄かな優しい香りがする。これならば、と、思った。
「お近づきのしるしに、そちらのお方様へ」
黒風はそう言って、その花を政虎に渡そうとした。すると、政虎は二人の手を取り、そっと触れさせた。また怯えるかと心配した黒風であったが、存外、女は素直に手を開き、花を受け取った。
黒風はそれを少し不思議に思いながら、手を引き、すっと頭を下げた。そして立ち去ろうとすると、女は何を思ったか、黒風の着物の袖を掴んだ。それは、ほんの一瞬の出来事だった。掴んだのか、あるいは、偶然袖が触れ、何かに引っかかっただけなのか分からないほど。
(気のせい、か?)
黒風はそう思い、振りかえること無くその場を立ち去った。
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