第40話 さや

 昼下がり、同じ搦手の地区内にひっそりと結ばれた庵に黒風は居た。そこには政虎と、使用人と見られる年配の夫婦。そして、件の女性がいる。彼女が目は閉じたまま、静かに政虎の隣に座っていた。

「名は、さや、と、呼んでいる」

政虎は黒風に向けて静かにそう言った。その言い方に黒風が怪訝な表情を見せると、政虎は静かに息を吐いた。

「分からぬのだ。本当の名も、素性も」

さや、と呼ばれた女がぴくりと動いて顔を上げた。そして、政虎の方へ手を伸ばす。政虎は震えるその手をそっと取って、膝の上へ置いた。心配いらない、とでも言うようにその手を擦る。女の方もその意を汲み取ってか、薄く唇で笑った。

「見る力も、話す力も失っている。そして、恐らくは記憶も、」

さやと呼ばれた女性は俯いて、苦しそうな顔をしていた。

「さやは、昨夜のように、何かを求めて出歩くことがある。あるいは、何かを探しているのやもしれぬ。記憶が、戻りかけるのか……その記憶そのものを知らず探し求めているのか」

ただの憶測に過ぎないが、と、白湯を含んだ後に付け加えた。

「さやというのはその者の名前ではないのですか?何か手がかりのようなものがあったということでは……」

「さやと最初に出会うた時がそういう夜であった。故にそう呼んでいる。当人は己の名前も分からぬようだが、呼び名が無くては不便だろう。幸い、己のことと覚えているようで助かるが」

字を当てれば、小夜、あるいは清夜かと、黒風は思った。その時、さやが悲鳴のような声を上げた。手を握りしめ、何度も首を横に振る。錯乱しかけたようなその状態に、政虎は動揺せず、ただ、静かにその背を擦っていた。

 同室していた媼もまた、動揺の影も見せず、静かに奥の棚から薬を出し、白湯と共に持って来た。その媼にさやを託し、政虎は静かに見守っていた。

 用意された薬を含み、さやは落ち着きを取り戻したが、座ってはいられない様子だった。政虎は老夫婦に指示して別室に床を延べさせ、さやを休ませるよう言った。始終、穏やかで、そして、迅速だった。その様子だけでこの状況に慣れていることが見て取れる。日常的に起きていることなのかもしれない。少なくとも、彼女がここに来た当初は多くあったことなのだろう。

「思い出したのだろう。ここへ来る前の事を」

襖が閉められてしばらくしてから、政虎はゆっくりと話した。

「いつ頃ですか?」

黒風が問うと、政虎は一瞬、何かを思い巡らせ、口元に困ったような笑みを作った。

「?」

黒風はその意味を測りかねて首を傾げた。

 その様子に、政虎は小さく咳払いをして、話し始めた。

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