第41話 偽物と本物
政虎がさやと出会ったのは、五年ほど前になるという。その時の事は、詳しく話そうとしなかったが、とある事情でとある場所に向かっていた折、ふらふらと目の前に倒れこんできたのがさやだったのだと。
ぼろぼろで薄汚れた着物。傷だらけの身体。見えない目と、言葉を発せない唇。動乱の時代に、不自由な女一人、どうやって過ごしてきたかは想像に難くない。
女一人、ましてそのような状態の女を放り出すわけにもいかぬと、城へ連れ帰った。以来、普段は大人しいものの、時折手負いの獣のように暴れるさやを、根気強く庇護してきたのだという。
障りにはなっても益にはならない。そんな者を手元に置き続ける。その事が、黒風には不思議に思えた。身内でもないのに、何故、と、いう問いかけを、黒風は飲み込んだ。この男に、何故は必要ないのかもしれないと思った。自分も、助けてもらったことを思い出した。あの時の自分は、それこそ身内でもなく、障りにはならなくとも、益にはならない。金だけ差し出したことを考えれば、その分は損をすることになる。それでも助けてもらったのだ。
黒風は冬の宿や、街で聞いた噂話を思い出していた。政虎は信濃から逃げてきた豪族を匿い、関東から落ちてきた憲政に尽くし、負担でないわけは無し。それでも助けを求める声を無下にしないという。
政虎には損得の外に、己の行動を決める何かがある。黒風はそう、思った。国を治めるほどの者であるならば誰しもそれはあるのかもしれない。自分のような身分の低い者には考えもつかない、何かが。
「さや殿は、何かを探していると言っておられた」
「うむ」
「失ってしまった何かを追い求めていらっしゃる、と、いうことも在り得ますでしょうか」
「あるいは、な。真の理由は、さやの胸の内にのみあると思うが」
「私も、母を亡くしておりますれば、心のどこかで求めておるのやもしれませぬ。昨夜、とても懐かしい夢を見ました」
「ほぅ」
「夢の中身はよくは覚えておりませぬが、さや様に出会い、母を思い出したのやも知れませぬ。母が亡くなった折、私は幼く、顔を覚えておりませぬが」
苦し気にのどに詰まった声を流すように、黒風は白湯を飲んだ。ことり、と、茶碗を置いて、姿勢を正し、苦し気に笑った。
その様子を見、政虎は静かに口を開いた。
「何故、と、問うても良いか?」
「……幼い時分のこと、詳しくは存じませぬ。私は母の師に育てられました」
「師、とな」
「軽業の一座にて」
「成程」
政虎は白湯を一口飲み、静かに降ろした。外からふわりと優しい風が吹いた。仄かに香る草木の香りが、少しばかり夏の気配を連れて来る。その風を、暫し二人は感じていた。
「近く、戦になろう。ここへもそう足繁くは通えぬようになる。其方に、さやの話し相手を頼みたい」
「戦ではなく、に、ござりまするか?」
「野武士故、か」
「は、」
「そうさな。それも考えてはおこう。だが、今は何より、さやを第一に考えてはもらえぬか」
「勿体ない。命じて頂ければそう致します故」
「其方にそれほどの義理は無かろう」
「そう、では、ござりまするが……」
「仕事故か」
そう訊かれて、黒風は困った。
「……さやは、子を探しているのやもしれぬと思うたことがある。其方には、母親を求める気持ちがある。真実、親子でなくても良い。子であるようなものが親であるようなものの傍にあれば、癒される傷も在ろう」
それは、さやのことを言っているのか、黒風の事を言っているのか。そもそもさやが探しているものは真実、子であるのだろうか。確かにその可能性もあるだろう。自分の年の頃を見て、興味を示したのであれば、確かに子である可能性が高いとも思える。
「触れうる温もりは、死者の思い出より強い。時に真よりも、な。偽りでも、真にすれば良い。人の心は、人に寄り添うて、温みを得るものよ」
頼んだぞ、と、言って政虎は席を立った。黒風ははっとして平伏した。何とも、穏やかで、それでいて強い言葉だった。何をどこまで知っていて、どれほどの意味を込めて言ったのか分からない。それでもそれが、最良であると、何故か腑に落ちてしまう。不可思議な感覚に包まれながら、黒風は庵の外を見た。
初夏の日差しを浴びた木の葉が美しかった。
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