第21話 冬越え
「温かい所で冬を越せ」
名も知らぬ男の言葉は、妙に黒風の胸に響いた。それは、黒風がそう決断したかったからに他ならない。黒風はそれを拠り所に、南へ、西へと、暖かい方へ移動した。そうして、山間に小さな湯治場を見つけ、そこを冬越しの場所と決めた。
そこは、小さいながらも整えられていて、情緒あふれる宿であった。物売りも良く訪れ、食べ物なども簡単に手に入った。山間とはいえ雪もそれほど深くはなく、黒風は時折雪と戯れながら時を過ごした。
時折、身体がなまるのを防ぐために、土地の者に雪の装備を借り、案内を着けて雪道を歩いたりもした。土地の者と酒を酌み交わし、様々な情報を得るのも、大事な仕事だった。
その中で、気になる話を聞いた。越後に身を寄せている関東管領上杉憲政が、関東管領職と、上杉の名跡を、長尾景虎に譲るつもりであるという。春には就任式が執り行われ、越後の龍は、大手を振って関東に出兵する名目を得るわけだ。関東の情勢は、大きく動くだろうと、旅の者が噂しているのを聞いた。
「は……あ……」
黒風は露天風呂に身を沈め、大きく息を吐いた。その日はずっと雪道をあるいていた。地元の漁師に教わり、何羽かのウサギを取ることができた。旅芸人の一座にいた頃、芸の上での弓の使い方は習ったことがあったが、やはり、実際の猟となると勝手が違う。動かなかったり、規則的な動きだけをするだけの芸の的とは大違いだ。
「弓矢は、戦でも使うものだよな……」
黒風はじっと自分の両手を見た。あるいは、信長の依頼にも使えるかもしれないと思った。だが、
「一撃で仕留めるには足りない、か」
「毒でも仕込めば足りるやもしれぬぞ」
ふいに後ろから声をかけられ、黒風はぎょっとして振り向いた。だが、振り向いた時には、声の主は湯に入っていた。黒風の隣に座り、お湯で顔を拭っている。
「中々に恐ろしいことを呟いておるな。童」
恐ろしいことを言ったのはそっちだろうと、心で呟きながら、黒風は相手をじっと見た。年の頃は四十路に入ったばかりと言ったところか。体躯はがっしりとしていて、鍛えているであろうことが伺える。農夫や工夫の体ではない。髪はしっかりと整えられていて、髭も綺麗にしてある。そしてその堂々とした様子から、それなりの身分のあるものと思えた。
「童ではありませぬ」
「そうであろうとも。童がそのような言葉を吐くようでは世も末よ」
「これほど戦が収まらねば、末の世にありましょう。民は常に苦しみの中にありますれば」
「言うのぅ、小童」
たして呼び名が変わっていない、と、思いつつ、黒風は、男の様子を見ていた。言葉には笑いが含まれていた。機嫌を損ねてはいないらしい。男は静かに息を吐いて続けた。
「したが、これほどまでに戦火が収まらぬ要因の一つも、また、その民にあろう。否、思慮無き民を、焚きつけている誰ぞの罪か」
(一向宗のことを言っているのか?)
「なれど……我らの罪でもあろうな」
男は独り言のように呟いた。そして、黒風の方を向いた。
「ふうむ」
顎に手を当てて、何かを考えている。
「其の方、なかなかに美形じゃな。儂の小姓にでもなるか?」
黒風はぎょっとして首を横に振った。この場合、話の流れから察するに、色小姓だろうと思った。さすがに進んでその役に付きたいとは思わない。すると男は豪気に笑い、
「戯言じゃ。許せよ」
と、忍び笑いを漏らしながら言う。黒風は心底ほっとした。
「いや、しかし、其の方中々に面白い。儂の元へと思う気持ちは嘘ではないぞ」
「さぞや名の在る御方とお見受け致しまするが、私のような小者、お引き立て頂いてはむしろ御名を汚しましょう」
「信玄じゃ」
「は、」
その名を聞いて、黒風の心臓が跳ねた。まさか、そう思った時、
「お屋形様」
湯殿の入り口が開き、一人の男が傅いているのが見える。
「うむ」
そう言って、隣の男、晴信が立ち上がった。
「小童」
振り向きざまに声をかけられ、黒風は慌てて湯から上がると、その場に座して頭を垂れた。
「驚かせてすまぬな。せめても今宵は相手をせぬか」
黒風があからさまに怯えた顔を上げると、
「案ずるな。酒じゃ」
と、言ってまた笑った。
武田信玄。甲斐の虎と異名を持つ戦国大名である。
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