第44話 葉桜
入り口から左手に回ると、そこに小さな庭がある。様々な植物が植えられているが、石や岩の類は置かれていない。目の見えないさやを気遣ってであろうか。
その庭に一本の桜の木が植えられている。今は花は無く、青々とした葉を茂らせ、心地よい木陰を作る桜。その木陰に、さやは居た。
目を閉じて、ただ、何かを感じている。顔の傷は、木の陰になって映らない。薄く開いた唇が、今にも誰かの名を呼びそうだった。
美しい光景に、黒風は声を出すのが躊躇われた。だが、その静寂の中、先に変化を呼んだのはさやの方だった。
声は出さなかった。逆に静かに唇を閉じ、緩慢な仕草で黒風の方へ向き直った。見えないはずの目ではっきりと黒風に視線を送っている。
「こ、んにちは」
黒風が、恐る恐る声をかけると、さやはしばらく何かを思い巡らせていたが、ふっと何かに気付き、困ったように笑った。
「え、と、黒風、と申しまする。政虎様から、さや様のお話相手を仰せつかっておりまする」
そう言って、一歩、前に踏み出した。敢えて、土を踏む音を鳴らした。さやの意識が、それを確かめているのが分かる。そして、さやはもう一度黒風の方を向いた。
それが恐らく合図であろうと思った。近づいてもいい、という。
しかし、黒風は焦らずにゆっくりと歩を進めた。いつでも駄目だと言っていいというように。
しかし、手の届く距離まで近づいても、さやは逃げようとしなかった。表情はまだ硬いままではあるが、その場を離れようとはしない。
「花を、」
そう言って、黒風は花を持った手を差し出した。さやの方から手を伸ばせば渡せる距離である。
間があった。
さやは鼻をひくつかせて、香りの元を探していた。そして、そっと手を伸ばす。その手が、花を持つ黒風の手に触れた。
「……っ」
その感触にさやが怯えたように一度手を引っ込めた。だが、やはり逃げない。そして、もう一度手を伸ばし、触れた。
笑う。
驚いたのは黒風の方であった。もっと心を閉ざされてしまうかと思った。だが、こんなにも短時間で、自分に心を開いてくれた。少なくとも、触れても良いと思う程度には。
「ど、どうぞ」
そう言って、さやの手に花を渡した。さやはそれを受け取り、顔を寄せて喜んでいる。
(何だろう……)
そんなさやを他所に、黒風は思いがけない自分の心に戸惑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます