第5話 終局
ひゅっという音と共に、義元の首筋を光が撫でた。夥しい血が噴出し、義元の身体が大きく傾いで、落ちた。
黒風である。彼は狙っていた。じっとその機会を。乱戦の中を器用にすり抜け、義元が捨てた輿の陰に身を潜めて。
「お……のれ、若造が……」
義元は首を抑え、反射的に出血を抑えようとする。だが、そこから血は無情に流れ続けていく。もはや塞がることのない傷を負った事は分かっていた。
(死ぬ、のか?ここで?こんなところで?)
義元の脳裏を、様々な顔が過っていく。圧し、屠った者も、愛しく、守っていた者も。
(死にたくは、ない、な)
薄れていく意識の中で、それを最も強く思った。これからだと、そう思っていた、正にその時に命を落とすなど。否。いつであってもそう思うのだろう。だが、その願いに反して、もう自分の命が尽きかけている事も感じていた。
(命は、続くものと、師匠は言うていたな)
幼い折に身を寄せていた寺で学んだ仏の教え。それ以上に大きなものを学んだと今でも思う。
草を食らう虫が居て、その虫を食らう鳥がいる。その鳥を食らう獣が居て、その獣を食らう他の獣、そして、人間がいる。そうして、全ての命は等しく死ねば土に還る。そうして、その土から、草が生える。命とはそうして回っているのだと。尽きる事のない命の旅路。それならば、
地面に倒れる義元の顔がふっと笑った。それを覗き込んだ黒風の心臓がどきりと跳ねた。何故、死に至るこの局面で笑うのか。不気味とすら思い、反射的に足が僅かに後ろに下がった。すると、義元は、死にかけているとは思えない力で黒風の足を掴んで引き倒し、倒れ込むまいと、地面に着いた腕をつかんで引き寄せた。死にかけているとは思えない、強い、強い力だった。
(殺される!)
道連れにされる、と、黒風は思った。だが、
「若い、な」
その言葉にはっとして目を見開いた。そこには義元の顔があった。その目は強く、そして、静かに黒風を見て居た。
「我を斃して手柄にするか。天は……其方を選んだか」
ごぼり、と、その口から血が吐き出された。だが、義元の手は緩まない。
「生きろよ、若造。我の命を取って、早々に死ぬなど、許さぬ故に、な」
にやり、と、笑った。そうして、義元の手が力を失くし、どさりと落ちた。
黒風はしばらく動けなかった。考えてみれば、大将と対峙したのは初めてだった。今までいくつもの命を戦場で奪ってきたが、全ては自分と同じような下っ端だった。恨み言を言われたこともある。勝てずとも差し違えようとされたこともある。だが、自分が手をかけた相手から、生きろ、と、言われたのは初めてだった。
(大将、ってのは、どういう神経をしてるんだ?)
義元の意図は量りかねる。だが、そのことで黒風は、次にすべきことに迷いを生じた。
次にすべき事。それは、義元の首を取ることだ。それで、この戦は終わる。殺し合いが終わる。自分も命の危険から解放されて、褒美がもらえる。そのために、この戦に、織田軍に雇われたのだ。
だが、それが容易にできなくなった。思えば、首を取るということも初めてだった。首実検が必要なほどの大物を討ち取った事がない。だが、誰かがやらねば終わらない。少なくとも、このまま無意味な殺し合いが続くことは、義元本人の本意ではないような気がした。
自分に生きろと言うような人だからこそ。
黒風は、もう一度、義元の顔を見た。穏やかな顔をしている。まるで全てを許してくれたような。自分にとって都合のいい解釈だとわかっていても、そう思わずにはいられない。
黒風は義元と目を合わせたまま、義元の首筋に刃を立てると、一息にその首を落とした。その感触は冷たく、既に命は消えて久しい。その冷たさが指先に残るようだった。ふと、自分に血が通っている事も疑いたくなった。人の首を落とすことが、容易にできるなど。その思いを振り切るように黒風は取った首を高々と掲げて叫んだ。戦の終わりを宣言するために。せめても、その命の責任を、背負って生きられるように。
「今川義元、討ち取ったり!」
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