天声 -君を想うー

第1話 雨

雨が、降っていた。


「雨、なんて、可愛いものじゃあ、ないなぁ」

その、可愛げのない雨の中を歩きながら、黒風はそう呟いた。実際、雨は肌に当たれば痛いほどの勢いで降っている。豪雨と言っていい。視界もほぼ、利かない。そんな中で動くのは、自殺行為と言えるかもしれない。普通に考えれば誰もが何かを諦める。それほどの雨だ。


だが、これは好機だ。


黒風の中で誰かがそう囁く。理論的に何かを展開したわけでは無い。直感的に思ったのだ。そして、そう思ったのは黒風だけではない。今、黒風が雨に抗い、風に立ち向かい、歩を進めているのが、その、何よりの証拠だった。


 永禄三年、五月。尾張国、桶狭間。

 駿河国より西進する今川軍は、その数、約二万五千、迎え撃つ織田軍は約五千。世に言う、桶狭間の戦いである。

 その、織田の軍勢の中に一人の若者が居た。年の頃は十七ほど。黒の直垂簡単な胸当てと、籠手、鉢金のみの軽装である。そのいで立ちで戦場を軽々と動き回るのを得意としていた。通称、黒風。特定の主を持たない、所謂野武士である。時に応じて主を変える、その身軽さも、その名をもらう一因であった。

 ふらりと戦に雇われてはそれなりに働き、褒美もらっていなくなる。誰をも主とせず、誰とも親しくならず、誰も詳しい素性を知らない。

「あああ、ツいてねぇ。この戦、やるまえから負け戦だっていうじゃあねぇか。この雨の中動くって事は、逃げるんじゃあねぇのかぁ?」

黒風の隣に居た雑兵仲間が、力無く槍に縋り付いて言った。その隣で、陣笠の男が笑いながら口を開いた。

「じゃあ、何でここにいるんだ」

「うるせぇ。たまたまこっちが不利だって聞いちまったんだ」

ついてねぇ、と繰り返す。

「聞かなきゃよかったのによ」

陣笠の男が言うと、

「負けたら自分の命が助かったって、金はもらえねぇからなぁ。何にもならねぇなぁ」

槍の男は、ついてねぇ、ついてねぇと繰り返すと、黒風が小さく笑い声を漏らした。

「そうかァ?」

その声を追うように二人は視線を移した。その視界の中で、黒風は天を仰いでいた。心なしか、空が少しばかり明るくなっている様な気がした。雨も、先刻より静かになっている。

(何かが……)

二人の心に、何かがざわめき、ごくりと唾を飲んだ。その様子を見、そのさざめきを煽るように、黒風が笑う。その口が静かに開かれた。

「オレぁ、負けたこと、ねーんだ」

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