第17話 祈り
「あれから、もう十年になりまするか……」
白湯の入った茶碗を置き、そう呟いたのは寺の住職、寂啓だった。
庭を臨む寺の一室。そこに一同は会していた。
「はい」
寂啓の言葉に答えたのは瞬啓である。その隣には瞬啓の双子の弟である澄啓がいる。
瞬啓は目が見えない。澄啓は耳が聞こえず、話もできなかった。しかし、文字の読み書きは出来る。その澄啓の隣には黒風がいた。この寺では皆、黒風の昔の名前、与四郎と呼ぶ。
瞬啓は俗名を弥次郎という。幼名を白鳳丸。澄啓は弥三郎。幼名は鳳凰丸。彼らは北の方が産んだ次男三男である。十年前の政変の折、男児でありながら、障害があることで許され、仏門に入った。ある意味、その、生まれた時に背負った業が、彼らの命を救ったことになる。
「父母も兄も、無実の罪で断罪されてしまいました。謀略はこの戦国乱世では世の習い。恨んでも、致し方ありませぬが……」
瞬啓は眉間に僅かに皺を寄せた。そう、言ったところで納得など出来はしないと、顔に出ている。それをそっと諫めるように住職が口を開いた。
「今となってはただただ心よりの供養を捧げる以外にありませぬ。私も、また」
黒風は黙って話を聞いていた。黒風の母は兄達とは違う。お家に対する想いもまた、兄達とは違っていた。それは、彼の身体に流れる血が、武士とは違うものだからかもしれない。
あの日、黒風は、わけも分からないまま母親を失ってしまった。朝になり、目が覚めると、隣で寝ていたはずの母がいない。城にも帰れない。父にも、兄にも会えないまま、その後はずっと、母の古巣である旅芸人の一座で育った。
戻らぬ母の事を聞くと、刃は必ず困ったような顔をした。幼い頃こそ、いずれ戻る、仕事がある、と、何かと理由をつけてごまかしていた。
だが、黒風の年が十五を迎えると、刃は黒風を一人、森の中へ呼び出した。
そこで黒風は、自分のことを聞いた。母がとある武家の側室であったこと、そして、とある事件に巻き込まれ、行方知れずとなったこと。その生死は今となっても分からぬこと。母が、行方知れずであることは、すでに黒風も薄々感づいていた。だが、刃を始め、一座の者達がそれを隠そうとしていることも気づいていた。聞くのが怖いと思う気持ちと、皆が自分のためを思ってしている事を壊したくない気持ちとで、黒風はずっとその先を聞けないままでいた。
その時、刃にことの次第を聞いても、大きく気持ちが揺らぐことは無かった。それは、そういう年になるまで、皆が隠していたせいもあるだろう。ああ、やはり、と、心で思っただけだった。正直、自分がどこかの武家の子であると、今更言われてもそんな自覚など持てなかった。自分はあくまで旅芸人の一座の子であった。その技も、母や、刃、そして、一座の者から習ったものだ。自分にそれ以上のものも、それ以外のものも、無いと思っていた。黒風は、刃の告白に、小さく頷いただけだった。
同じ日に、刃は黒風をこの寺に連れてきた。肉親がある事を伝えたかったのだろう。天涯孤独と思い込んでいる黒風の、それが何らかの支えになることを期待したのだ。また、寺にいる兄二人にも。
兄二人は黒風、つまり、与四郎の事を覚えていた。弟は無事でいると聞かされてはいたものの、その手で触れて確かめるまで不安だったのだろう。会いに行くと、兄二人は不自由な体で懸命に駆け寄り、弟を抱きしめて涙した。住職もまた、与四郎を覚えていた。兄弟の再会を見て、心から喜んでくれた。
当の与四郎にも全く記憶が無いわけではなかった。かなりおぼろげではあるが、目の見えない兄と、耳の聞こえない兄がいたことを覚えている。そして、今は失われてしまった人達の事も。ずっと、おぼろげに、夢のように見えていたものが、現実だったのだと、その時はっきりと認識した。
再会した後、そのまま寺に身を置くこともできたが、与四郎はそれを断った。やがて旅芸人の一座とも別れ、一人、戦を求める野武士となった。
何が気に入らなったわけではない。ただ、気の向くままに生きてみたかったと言えば、それまで、という程度のものだ。記憶に在るとはいえ、出自を明らかにし、正義を振りかざして敵討ちに向かうほどの事ではない。まして、御家再興などという大それたことを考えているわけでもない。
強いて言えば、母の生死だけは、どこかで耳に入ればという気持ちはあった。
「ここに来たということは、与四郎はまた遠くへ行かれる?」
瞬啓が穏やかに、だが、心配そうに言った。
「は、はい。しばらくは来られないかと」
昔に思いを馳せていた黒風はその声にはっとして答えた。
「どちらへ?」
「……目指す先は越後の……」
黒風は少しためらってからそう、口にした。その戸惑いが、瞬啓に何かを気付かせてしまった。だが、言葉にはならなかった。
それを悟ったように、黙っていた澄啓が瞬啓の衣の裾を掴んで引っ張った。手に何やら指で書いている。
「体に気を付けて、と、」
瞬啓が書かれた言葉を澄啓の代わりに言った。澄啓がにっこりと、幼子のように微笑んでいる。澄啓は耳は聞こえないが、ある程度唇を読んでいるようだった。逐一瞬啓が説明しなくても、大筋は理解している。黒風も、ただ、黙って頷いた。今はそれが精一杯だった。
(余計な心配はかけたくない)
また、戻ってくればいいだけだ。
寺を出る時、黒風はいつもそう思う。
また、戻ってくる。
それは、祈りのようでもあった。
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