最終話
殿下が廃位された後には、東海定王様のご子息である
この方は以前、祖父が皇太后様に学問を説くよう命じられた方だ。
この人選に当初、司馬師は難色を示したらしいが、この時は皇太后様がそれを強く押し切られたそうだ。
わずか十三歳で皇帝に即位された曹髦様は、予想通り皇太后様の
しかし、間もなくその皇太后様の姿が、
けれど曹髦様が即位された翌年、その司馬師が持病により急死し、朝廷の実権は彼の弟である司馬昭が受け継ぐこととなった。
昨年、成人された曹髦様が、司馬昭の横暴振りに耐えかね、彼を討ち落とそうと兵を挙げられたが、返り討ちにあい殺害されてしまわれた。
その後は、皇族出身の
しかし、この方は即位された時点から司馬昭の言いなりで、実質朝廷は司馬家に掌握されてしまった。
おそらく近い将来、表向き
そしてそうなれば、魏も終焉を迎えることとなる。
魏の配下にある国、
黄海は広大な湾のようになっており、そこに突き出す半島の先端まで行けば、魏の玄関口である
大陸の内陸部に向かって、黄河やそれに繋がる運河も国内を貫いているため、田舎独特の素朴さがありながら、海上運搬の要所として内外の船が多く立ち寄るにぎやかな港町だ。
斉王となられた殿下は、まず、大型船も停泊できる大きな港と、商人達が留まれる宿場町を整備された。
これにより、これまで単なる通過点とされることが多かったこの地に、各国からの商品が留まるようになり、今この国は、それらの流通拠点として栄えつつある。
次に殿下は、内外の人々が行き交うこの国に必要なのは、語学力を基本とする学問であるとされ、子ども達を教育するための学び舎を各地に設置された。
王妃である私も、王宮内で働く者たちの子息に読み書きを教えたり、医者を目指す若者に医学を説いたりして過ごす傍ら、病に苦しむ者があれば、医者として治療に赴くこともある。
殿下ご自身も公務の合間に庭に出て、子ども達に自ら武道などを教えることを楽しみにしておられるようだ。
「
自室で女の子達に縫い物を教えていた私を、窓の外から呼ぶ声が響いた。
「作業を続けておいて」
私は女の子達に裁縫を続けるよう指示し、馴れた手つきで棚から薬箱を取り出し、急ぎ足で庭へ出た。
「はいはい」
そこには、木刀を片手に膝を付き、うずくまる少年を心配そうに見つめる殿下の姿があった。
「また、子ども相手に無茶をなさったのではありませんの?」
少年の手をとり、軽傷であることを確認した私は、ほっと息をつき、笑いながらそう言った。
まだ幼い少年は顔を真っ赤にして固く目を閉じ、痛みと涙をこらえていた。
「武術の手ほどきをしていたら、勢いで植え込みの中に倒れ込み、枝で手を切ったようなのだ」
軽装に身を包み、日焼けした殿下は、少しばつが悪そうに首の後ろを掻きながらそうおっしゃった。
その様子に笑いを堪え、私は少年の背を押して井戸のそばへ連れて行った。
そして、手早く傷口を洗い、薬草を染み込ませた布を当て、真新しい晒しを細い腕に巻いた。
「はい。もう大丈夫よ」
私がそう言うと、少年は巻かれたばかりの晒しに触れながらぺこりと頭を下げた。
「お妃様。ありがとうございます」
涙を堪えながらそう言ういじらしい姿に、私は思わず笑顔になり、少年の髪に手をのせて軽く撫でた。
「いったん稽古を中断して、お茶でも飲みましょうか。女の子たちも疲れた頃でしょう」
それから私たちは裁縫をしていた少女達も誘い、庭に面した外廊に腰を掛け、お茶と胡麻餅を口にした。
「今日、港に珍しい国から船が着いたみたいだよ」
子ども達の間で始まった噂話を、私と殿下は微笑ましいと思いながら聞いていた。
「倭国からだって。いつも斉王様やお妃様がお話して下さる王様が住んでいらっしゃる国でしょう?」
年長の少年が口にした国の名に、私と殿下は驚き、目を見開いた。
そして、その少年の言葉に、他の子ども達の話が、一気に沸き上がった。
「斉王様より強くて、お妃様より賢い王様がいらっしゃるんですよね?」
別の少年が、輝く瞳で殿下を見上げそう言った。
「いや、今、本気で勝負したら、俺が勝つかもしれん」
それに対し、少し面白くなさそうに口を尖らせてそうおっしゃる殿下に、私も子ども達もお腹を抱えて笑った。
「軍師としても凄い人だったらしいよ。呉や蜀との戦いで活躍したんだ」
「医者としても、戦場で疫病から兵らを救ったんだ」
「背が高くて、とても素敵な人だったとも聞いたわ」
子ども達は目を輝かせて、自分の中にある
私たちが折に触れて話をするので、子ども達の中で彼のことは、すっかり英雄として定着しているようだった。
「あそこに飾られている木の札に書かれているのは、その方の文字なんでしょ? 文字も美しいわよね」
ひとりの少女が、私の部屋の棚に飾られた、少し飴色になった薄い板を指差してそう言った。
「あの板の隣に置かれた綺麗な箱の中身は何ですか?」
別の少女が、板の隣に置かれた
「ああ、あれ?」
私は立ち上がり、部屋の奥へ行くと、その箱の蓋を開け、中に納められていた布をそっと持ち上げた。
それをゆっくりと運んできた私は、丁寧に両手に広げて持ち、子ども達に見せた。
陽の光に当たると、絹の白い布は一層艶めき、刺繍された金の糸が眩しく光を放った。
「わあ、綺麗!」
金糸で龍が刺繍されたその布に、子ども達の視線が一気に集まった。
「これは、殿下が昔、私に下さったご自分の着物の袖よ」
私の言葉に、子ども達の視線が今度は殿下の顔に集中し、しばらく動きが止まった。
「な、なんなのだ」
微動だにせず、じっと見つめる子ども達の視線に耐えきれず、殿下は顔を赤くして半分怒ったようにおっしゃった。
「斉王様がこんな綺麗な着物を着ていらしたの? 信じられない」
ひとりの少女が顔の前で手を振ってそう言うと、他の子ども達もそれに同調するように笑い声を上げた。
彼らの前にいらっしゃる殿下の姿を見れば、そう思うのも無理はない。
いつもここでは、武道の稽古で泥に汚れた軽装に、無造作にまとめた後れ毛だらけの髪をされているのだから。
「でも、龍の文様なんて、まるで皇帝陛下の着物みたいね」
改めて間近で袖を見つめながら、ひとりの少女がそう言うのを耳にして、私と殿下は思わず顔を見合わせた。
それから、私たちは、吹き出すように同時に笑った。
殿下が廃位され、この国へ来られてからもう七年。
時代はめまぐるしく変動し、目の前にいる泥まみれのこの方が、かつて皇帝と呼ばれていたことを知る子どもは、ここにはいない。
「斉王様」
その時、殿下の側近がやってきて、礼をしながら声を掛けてきた。
その声に振り返った私と殿下の動きが止まった。
「倭の帝の遣いの方が、洛陽への途中こちらに立ち寄られ、斉王様にご挨拶をなさりたいと」
そう言う側近の後ろに控える懐かしい人影に、既に私と殿下の目は釘付けになっていた。
背が高く細身の体。
ふわりとした柔らかな物腰。
そんな雰囲気の中で唯一、涼し気に光を放つ両の瞳。
年月を経ても、私たちが彼を見違えるはずはなかった。
「斉王様、久しぶりに手合わせをしていただけませぬか。長い船旅で体がなまってしまっているのです」
そう言った瞬間、涼し気に見えた目元が一気にやわらぎ、屈託のない笑顔になった。
完
花蓮〜ファーレン〜 長緒 鬼無里 @nagaokinasa
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