第十話 覚悟 其の二
謁見部屋へ招かれた私は、緊張に震えながら、陛下がいらっしゃるのをじっと待っていた。
この部屋は、幼い頃は何度も訪れ、陛下と共に学んだり遊んだりした場所だった。
でも、妾となった私が陛下とお逢いできるのは、基本的には陛下が私の部屋へお越しになる夜だけで、私からこの部屋へ赴いたのは、今の身分になってからは初めてのことだった。
私の隣には、汚れを落とし、長衣に着替えた
私の事で、自分が陛下に良く思われていないことを知っている彼も、話の内容が何なのか、不安を抱えているようだった。
しばらくして、
その様子を見て、男鹿は両手を床に付き、上半身を折り畳むように頭を下げた。
正面を見つめたまま、陛下は黙って玉座に近付くと、ゆっくりと腰を降ろされた。
広い室内に、陛下の冕に釣下る玉がぶつかり合う音だけが響き渡った。
「お前の戦いぶりを見せてもらった」
七色の宝玉の間からのぞく冷ややかな目に睨まれ、男鹿は一層身を屈めた。
「聡明で弁がたち、武術にも優れているとは、才能に恵まれた男だな。さすが
そう言って陛下は玉座から立ち上がると、男鹿のそばへ近付き、手にされていた
顔をあげた男鹿は、上目遣いにまっすぐ陛下を見つめた。
「そのうえ、こんな美しい顔をしていながら、他の女には目もくれず、一人の女を一途に想い続けているとは。
私は頬が熱くなるのを感じ、床に視線を落とした。
「だが、お前を王として認めるわけにはいかぬ」
思わず顔をあげた私が隣を見ると、微かに眉間を寄せて、陛下の顔を見上げる男鹿の姿があった。
「お前、その唯一の女に、なんの約束も誓いも告げず、ここへ来たそうではないか」
「それは、守れるかどうかもわからない約束で、彼女を縛りたくないという、彼の優しさで……」
男鹿の気持ちを代弁する私に、陛下はそのままの姿勢で、目線だけを向けられた。
そして再び男鹿に向き直ると、さらに笏を持ち上げられた。
「違うな。この者には、その女の人生を受け止める覚悟がなかったのだ」
陛下の言葉に、男鹿の瞳が見開き、眉が一層寄せられた。
「なぜ、お前が王になって、その女と同じ立ち位置にいかねばならぬ? 女王がお前と同じ場所まで、身を落とすという選択肢もあったはずだろう」
陛下を見上げる男鹿の瞳が潤み、震える口元で小さく歯が音を立てはじめた。
「この者は、自分のせいで、女王の人生が大きく変わることを恐れたのだ。共に生きる約束をしなければ、たとえ王になれなくても、自分が身を引くことで、彼女の立ち位置は変わらぬからな。一人の女の人生にさえ責任を持つ勇気のない男に、民が自分たちの生活を委ねられると思うか?」
そう言って陛下は、身を翻し、再び玉座に腰を降ろされた。
男鹿は打ちのめされたようにうなだれ、肩を震わせていた。
「この者には、その女のために生きたいという奮起が感じられない。
陛下はそう言って立ち上がり、謁見部屋を出て行かれた。
あとには、膝に置いた拳を震わせ、唇を噛み締める男鹿と、掛ける言葉も見つからず、彼を見守るしかない私が残された。
謁見部屋を後にした私たちは、無言のまま、宮廷内の外廊を歩いていた。
紅葉の見事な庭に差し掛かった時、男鹿が立ち止まり、柵に肘を置いて身を委ねた。
「陛下のおっしゃられる通りです。私は、あの方の人生を変えてしまうのが怖かった」
私も立ち止まり、彼の隣に並んで、美しく色付いた木々を見つめた。
「以前、
そう言って男鹿は掌で目元を覆った。
その指の間から、涙が伝い落ちた。
「あの方はとっくに、私とともに生きる覚悟を決めておられたのに、その頃の私は、あの方のために死ぬことばかり考えていた」
柵に置いた腕に顔を埋めた彼は、やがて嗚咽を漏らしはじめた。
見た事がない、弱々しいその背中を、私は黙って後ろから抱きしめた。
抱きしめた背中から、私の中にも彼の切なさが流れ込み、私も一緒に泣いた。
「陛下にとって大切な命を粗末にするなって、あなたが私に言ってくれたのよ。あなたも壹与様のために、その命を大切にしなくちゃね」
涙混じりに私がそう言うと、彼は一層身を屈め、全身を震わせて男泣きした。
「陛下は、本当にあなたのことを愛していらっしゃるのですね」
しばらく時が過ぎ、落ちつきを取り戻した男鹿は、ゆっくりと頭を持ち上げながらそうつぶやいた。
「……え?」
私が驚いて目を丸くすると、彼は赤くなった瞳を私に向けて、優しく微笑んだ。
「本当に人を愛したことがなければ、あのような言葉は出てこないと思います」
その言葉に、私は衝撃を受けた。
陛下の私へ対する想いも、幼い頃から共に困難を乗り越えて来たことによる、依存心のようなものだと思っていたのだ。
『きっといつか、そなたを皇后にする』
だとすれば、繰り返しおっしゃっていたあの言葉も、私へ対する覚悟の現れだったというのだろうか。
そう考えてみると確かに、皇太后様にどんなに反対されても、妨害されても、陛下はこれまで一貫してそう言い続けてきて下さった。
けれどそんな言葉を、私は自分の身の可愛さから、いつも受け流してばかりいたのだ。
それなら、陛下をお支えしたいと言いながら、覚悟を決めていなかったのは私のほうだ。
「そして、私などには想像の及ばない、大きな覚悟を持って、玉座に座っておられるのですね」
そう言って色付く木々を見上げた男鹿の横顔は、さっきまでより少し、大人に見えた。
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