第十一話 敗北感 其の一

 とうとう陛下は呉の要所、東興とうこうへの侵攻を決意された。

 敬仲けいちゅう張緝ちょうしゅう)様は最後まで反対されていたが、結局、子元しげん司馬師しばし)様に押し切られるかたちで、朝廷内の意見がまとまったのだ。

 年内の出兵は短兵急ではないかと躊躇ちゅうちょされていた陛下も、士気が高まっている間の方が勝機も高まると、最終的には判断されたのだ。






「奥様ぁ……」


 戦に向けて朝廷内が緊張感に包まれつつある冬の日、紅玉こうぎょくが青い顔をして私の部屋へやって来た。

 彼女は、私に向かい合ってその場にぺたりとへたりこむと、両手で顔を覆い、しくしくと泣きはじめた。


男鹿おがにまた何かあったの?」


 紅玉がこのような様子になるのは、たいてい男鹿の身に何かよからぬことがあった場合なのだ。

 私は胸騒ぎを覚えながらも、努めて冷静に若い侍女に訊ねた。


公休こうきゅう諸葛誕しょかつたん)様が、男鹿様を今回の戦に連れて行かれるそうなのです」


「……え……」


 私は思わず息を呑んだ。

 仮にも倭国からの客人である彼を、戦に同行させ、命を危険に晒すなど、常識的には考えにくかった。


「一国の王を目指すのであれば、戦を経験することも必要であろうと、子元様がおっしゃったそうです」


 やはり……。

 私は心の中でつぶやいた。


 先日、兵の相手をさせて男鹿の鼻をあかすつもりが、失敗に終わった子元様は、もはや手段を選ばれなくなったのだ。

 もし彼が戦場で命を落としたとしても、やまとみかどには、不慮の事故にあったとでも説明されるつもりなのだろう。

 とはいえ、さすがに子元様おひとりの判断では、倭国との関係を考え、少なからず反対する者もあるはず。

 おそらく、皇太后様の承認もあってのことだろう。


「……ひどい」


 声をあげて泣き続ける紅玉の姿を見つめながら、私は唇をきつく噛んだ。


「男鹿は今どこに?」


「訓練場で、兵と共に鍛練されていると思います」


 しゃくりあげながら、紅玉は涙で濡れた顔で答えた。






 訓練場についた私と紅玉は、木陰に身を隠して、男鹿の姿を探した。

 戦が近付き、血の気が多くなっている男達の前に、女が姿を晒すのには危険を感じたからだ。

 私たちは寄り添いながら、木の幹にしがみ付くようにして身を乗り出し、訓練場を見回した。

 そんな私の肩に、何者かが背後から軽く手をかけた。

 驚いて飛び上がった私が振り向くと、祖父張政ちょうせいがいた。


「こんなところで何をしておる」


 私たちの身を案じてか、祖父はいつになく厳しい表情で、私の目を見つめていた。


「男鹿が東興へ行くことになったというのは、本当なのですか?」


 そう訊ねた私の視線の中に、祖父の後ろに立つ男鹿の姿が入った。





 私たちは祖父に導かれ、訓練場から少し離れた建物の陰に移動した。


「これは子元様と皇太后様の陰謀です」


 眉をひそめる私の顔を、祖父は睨みつけた。


「軽率にそのようなことを口にするでない。あの方達の耳に入ると首が飛ぶぞ」


 強い口調で言われ、私は悔しい思いを抱えながら唇を噛み締めた。


「男鹿様、本当に戦場に赴かれるのですか?」


 紅玉が涙を溜めた瞳で、男鹿に訊ねかけた。

 兵士服に身を包んだ彼は、先ほどまで体を動かしていたらしく、額や首筋に流れる汗をさらしで拭いながら、少女に真顔を向けた。


「子元様に命じられたからだけじゃない。私が王になることを目指している狗奴国くなこくは、大陸からの玄関口に位置している。国を守る者となるつもりなら、大陸の戦をこの目で見ておくことも必要だと思うんだ」


 男鹿はそう言って少し身を屈め、真剣な表情で、紅玉の顔を覗き込んだ。


「何が何でも私は祖国に帰らなくちゃいけない。だから、必ず生きて帰って来るよ」


 紅玉が涙顔で小さく頷くと、彼はにこっと笑い、少女の頭を優しく撫でた。

 そんな彼の様子に、私は微かな変化を感じた。


「おい。若いの」


 その時、野太い男の声が彼を呼んだ。

 振り向くと、鎧を身に着けた公休様が、手に大きな巻物を持って近付いて来られるのが見えた。

 男鹿に近付きながら、私と紅玉の方をちらっと見て、公休様はちっと舌を鳴らされた。


「ふん、この色男が」


 そして、巻物を両手いっぱいに広げられた公休様は、それを男鹿の正面に差し出した。

 そこには、魏と呉の国境付近の地図が描かれていた。


「お前、なかなかの策士だそうではないか。参考までに意見を聞かせろ。今回の戦、お前ならどう攻める?」


 突然のことに、男鹿は一瞬目を丸くしたが、すぐに真剣な表情に戻り、しばらく黙って地図をじっと見つめた。


「そうですね。これを見る限り、私なら兵を三体に分けます。一体は直接東興を目指し、あとの二体は、長江ちょうこうの上流に向かわせ、呉の援軍を阻止します。東興は水上の砦と聞いておりますので、呉に援軍が加わると、水上戦に不慣れな魏にとっては不利になりますから」


 地図上に指を滑らせ、男鹿は淡々と語った。


「ふむ」


 公休様は、男鹿の話を聞きながら、何度もうなり声をあげられた。


「なるほどな。その方向で子元様に提案してみるか。後でもう少し詳しく聞かせろ」


 地図を丸め直しながら、公休様は感心したように、何度も首を上下に振られた。

 男鹿はやはり少し緊張していたのか、ほっと息をついて肩を落とした。


「ところでお前、牛利ぎゅうりの息子ではないそうではないか」


 公休様は怪訝な顔をして、責めるような視線を男鹿に向けられた。

 確か前にその男の話題が出た時、男鹿は否定したはずだが、公休様が聞く耳を持たなかったのだ。

 呆れる私と異なり、男鹿は冷静に公休様の言葉に答えた。


「私は牛利の許嫁いいなずけの弟です」


「なんと!」


 突然、公休様は男鹿の肩をつかみ、顔を間近に寄せて、見開いた目で彼の瞳を見つめられた。


「ふたりは会えたのか? 彼女はあいつを待っていたのか?」


 興奮気味にそう詰め寄る公休様に、男鹿は戸惑いながらも小さく頷いた。

 それを見て、公休様は大きくため息をつき、彼から手を離された。


「よかった。待っていてくれたのか。本当によかった」


 公休様は、少し瞳を潤ませながら、笑顔を見せられた。


「当時、呉との戦いは今より激しく、我々が命を落としかけたのは、一度や二度ではなかった。だが、奴は決して生きる事を諦めなかった。必ず帰国し、夫婦めおとになると、許嫁に誓って来たからと言ってな。しかし、十年だぞ。よくぞ待っていてくれた」


 公休様の話を聞いているうちに、私には男鹿の表情が今にも泣きそうに変化していくように見えた。

 そんな彼に気付く事なく、やがて公休様は、「よかった、よかった」と何度もつぶやきながら、私たちの前から去って行かれた。

 男鹿は、そんな公休様の後ろ姿を、いつまでも目で追い続けていた。




「どうかしたの?」


 公休様の姿が見えなくなると、私は男鹿の様子が気になって問いかけた。

 けれど彼がなかなか口を開かないので、祖父の方へ視線を移すと、祖父も難しい顔をして口をつぐんでいた。


「牛利は、その昔、倭国の女王が魏へ送った使者に仕える者で、かなり腕のたつ大男じゃった」


 しばらくして、祖父はゆっくりと語りはじめた。

 すると男鹿(おが)は、そんな祖父に半分背を向け、視線を地面に落とした。


「それゆえに呉との国境近くに派遣され、十年もの間要所を守る事を命じられたのじゃ。その男が、倭国を発つ前に将来を誓い合っていたのが、こやつの姉じゃ」


 私が男鹿の方へ目を向けると、彼はうつむいたまま、唇を噛み締めていた。


「その人を、お姉様はずっと待ち続けたのね」


 生きて帰るかもわからぬ人を、そんなに長い時間待ち続けるなんて、私には想像もできなかった。

 でも、一人の人を一途に想い続けるところは、男鹿に通じるものを感じていた。


「けれど、それほど強い絆で結ばれたふたりなら、今はさぞかし幸せに暮らしているのでしょうね」


 深い愛の話にあたたかい気持ちになって、頬を緩める私とは対照的に、男鹿の表情が固まった。


「……姉はもうこの世にはいません」


「……え……」


 噛み締めるように吐き出された彼の言葉に、思わず私は目を見開いた。


「姉は牛利の主に見初められ、側女そばめになることを拒み、そのために私の家は取り壊されました。両親も姉も、その時命を落とし、牛利に助け出された私は彼に育てられたのです」


 思いがけない事実に、私は言葉を失った。

 そんな私の袖を握りしめ、紅玉はぽろぽろと涙を流していた。


「あの誓いがなければ、姉は別の人生を選び、今頃幸せに暮らしていたのではないかと、牛利を恨んだこともありました」


 固く瞳を閉じてそう言う彼の姿を見ながら、「ああ、だから……」と私は心の中でつぶやいた。

 許嫁との誓いを胸に待ち続けた挙げ句、命を落とした姉を思い、きっと彼は、必要以上に約束を交わす事を恐れるようになったのだ。


「言葉で相手を縛る事はできないわ。あなたのお姉様は、そうしたいと思ったから待ち続けたのよ」


「……」


 私の言葉に弾かれたように彼は顔をあげ、驚いたような表情を見せた。


「そして牛利かれも、言葉だけでお姉様の心を留めておけるとは思っていなかったかもしれない。でも、その誓いを心の支えに、死と隣り合わせの戦場で、必死に生き抜いたんだわ」


 しばらく呆けたように、私の話を聞いていた男鹿は、ふと私たちに背を向け、冬の雲に覆われ、ぼんやりと光を放つ太陽を見上げた。


「……くそ。かっこいいな……」


 小さく舌打ちして、彼はそうつぶやいた。

 その背中は、微かに震えているように見えた。

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