第十二話 敗北感 其の二

 年が明けるのを待たずに、魏軍は挙兵した。


 子元しげん司馬師しばし)様は弟である子尚ししょう司馬昭しばしょう)様を、三体総勢約三十万の兵士を指揮する大都督だいととくに任命された。

 男鹿おがが提案していたように、公休こうきゅう諸葛誕しょかつたん)様が率いる軍は直接東興とうこうを目指し、残りの二体は、それぞれ長江ちょうこうの上流にある南郡なんぐん武昌ぶしょうで、呉の援軍を阻止することとなった。

 援軍を壊滅させた二体が、東興で合流し、大軍となって呉領内に一気になだれ込むという戦略だった。


 男鹿は公休様の兵と共に、東興を目指して行った。

 私に、先日訓練場で会って以降、彼と言葉を交わす機会はなく、軍が戦地へ出立する日も、遠くから見送ることしかできなかった。

 雪の降りすさぶ中、彼は緊張した面持ちで公休様の隣に並んでいた。

 鈍色にびいろの兜の下から覗くその瞳は、終始鋭く戦地の方向を見つめていた。




 意外にも出兵後、朝廷内は楽観的な空気に包まれていた。

 もともと魏軍の方が、圧倒的に兵士の数で勝っていることに加え、即位したばかりの幼帝のもとで、呉軍の結束力は晩弱であるはずとの見方が強かったのだ。

 そのため、宮殿内では、戦争中であることが嘘のように、穏やかな日常が続いていた。






「油断が足をすくうことにならなければよいが……」


 部屋の戸を開き、雪の降り積もる庭を見つめながら、陛下がつぶやかれた。


「呉は今存続の危機に瀕している。だからこそ、奮迅ふんじんの戦いを挑んでくる可能性もあるのだ」


 しんしんと降り積もる雪とは対照的に、陛下の表情は険しかった。

 私は、脱ぎ捨てられていた長衣を携えて背後から近付き、陛下の肩にそれを掛けた。

 陛下は長衣に添えられた私の手を握り、ぎゅっと力を込められた。


「司馬師の態度も気になる」


 確かに、いつも緻密に戦略を練られる子元様が、今回の戦に際しては、なぜか弟の子尚様に全権を委ねておられることが不可解だった。


「お風邪を召されます」


 陛下の背に手を添え、部屋の奥へ導く私に、陛下は笑顔を見せてくださった。

 でも、そのお顔は不安気に曇っていた。

 たとえ御身は洛陽ここにあっても、陛下の心は戦地の兵士らのそばに、常に寄り添っておられるのだ。

 私は、陛下の凍えた体と心を温めて差し上げようと、茶器に茶を注いだ。


「そなたに頼みがある」


 腰を降ろし、ほっと息をつかれた陛下は、ふいに話題をかえられた。


「頼み? 私にですか?」


 茶器を手渡しながら、私が訊ね返すと、陛下は照れくさそうな笑顔を浮かべられた。


「皇后の相手をしてやってくれぬか。最近どうも元気がないんだ。ちんにはどうしてやればよいのかわからんでな」


 陛下は少し頬を赤く染め、茶をすすられた。

 私は陛下のお話を聞いて、今回の出陣に際し、子元様に異を唱えられた敬仲けいちゅう張緝ちょうしゅう)様の娘である皇后様は、少し肩身の狭い思いをされているのかもしれないと思った。


「女同士のほうが話もしやすいであろう」


 皇后様は、たしかまだ十三歳。

 紅玉こうぎょくと同じ年頃のはずだった。

 陛下は、年の離れた幼い妻の扱いに、少し困っておられる様子だった。

 不自然な澄まし顔で頬杖をつきながら、照れ隠しされている陛下に、私は思わずくすりと笑ってしまった。


「私でお役に立てるなら。明日早速、ご機嫌を伺いに参ります」






 翌日、私は皇后様のお部屋を訪ねた。

 皇后様は瞳を輝かせて、想像以上に私を歓迎してくださった。


花蓮ファーレンさんに来ていただけるなんて。本当に嬉しい」


 淡い桃色の衣が似合う愛らしい少女は、そう言って満面の笑顔を浮かべられた。

 私たちはしばし、自己紹介をかねて、他愛のない世間話を交わした。

 皇后様は少女らしく、ちょっとした話題にも、目を大きく見開いて驚いたり、泣きそうな表情になったり、急にけらけらと笑いだしたりされた。

 そんな、めまぐるしく変わる表情を見ていると、自然と私の顔もほころんだ。


「最近お元気がないご様子と、陛下が心配しておられました」


 話題が途絶えた時を見計らって、私は本題に入った。

 皇后様は、一瞬驚いたように口を開けられたと思うと、すぐに顔を赤らめてうつむかれた。


「……どうすれば、陛下にふさわしい女性になれるのかわからないのです」


 皇后様は耳まで真っ赤にされ、ますます顔を床に向けられた。


「私、花蓮さんのように賢くもないし、大人っぽくもないし。陛下が何か悩まれていても、何のお役にも立てなくて……」


 皇后様はそう言って、うつむきながら膝の衣を握りしめられた。

 そのあまりにいじらしいお姿に、私の胸はきゅんと音をたてた。


「陛下を愛していらっしゃるのですね」


 微笑みながらそう言う私の顔を、皇后様の今にも泣き出しそうな瞳が見つめられた。


「よくわからないけれど、ただ、陛下のお役に立ちたいんです」


 私が両手で皇后様の小さく白い手に触れると、微かに震えておられた。


「難しいお話をなさる必要はありませぬ。皇后様のその素直なお気持ちで、陛下を癒してさしあげてください。きっと、喜ばれますよ」


 私の言葉に少し安心されたのか、皇后様はほっと息をつき、肩を落とされた。

 同時に気が緩まれたのか、その頬に涙がはたはたと流れ落ちた。


「司馬師と意見を対立させた張緝の娘が妻であることで、陛下のお立場が悪くなることはないでしょうか」


 目をこすりながら涙を流される皇后様に、私は掛ける言葉を失った。

 こんなに幼いのに、この方はご自分の立場が、陛下に悪影響を及ばさないかと憂いておられるのだ。

 そう思うと、陛下の愛を裏切ってばかりの自分が恥ずかしくなり、今度は私が床に視線を落とした。


「戦に勝てば、わだかまりもなくなりますよ」


 拭いきれない不安を感じながらも、私は作り笑いを浮かべて皇后様にそうお伝えした。





 数日後、私の部屋にいらした陛下のお顔は、いつもより穏やかに見えた。


「皇后が、そなたと会ってから、よく笑うようになった」


 そう言って陛下は、嬉しそうに微笑まれた。


「あの無垢な笑顔に癒される」


 可愛くて仕方がないという様子の陛下に、私はほっと胸を撫で下ろした。

 長年おそばについていながら、私は陛下のこんな幸せそうなお顔を見た事がなかった。

 つまりこれまで、私は陛下のお気持ちを癒して差し上げた事など、一度もなかったのだろう。

 陛下にふさわしくないのは、きっと私のほうだ。

 そんな事を考え、表情を曇らせた私に気付かれたのか、陛下は肩を優しく包み込んでくださった。


「そなたは、朕にとって戦友のようなものだ。そなたがいなければ、朕は今日まで生きてこられなかったと思う。これからもずっとそばにいてくれ」


 そう言って重ねられた唇は、これまでで一番、甘く優しかった。

 けれど同時に、なぜか陛下が少し遠くに感じられた。






 魏の軍が呉の侵攻に出立してから半月ほど経った頃、信じられない知らせが朝廷内を駆け巡った。

 東興へ派遣された公休様の率いる軍が、呉によって壊滅状態となり、長江の上流へ向かっていた二体も侵攻を諦め、陣営を焼き払って撤退したというのだ。

 詳しい状況はまだわからなかったが、早急の出陣に反対されていた敬仲様は、ほらみたことかと、早速、子元様の責任を追求し始められた。

 そうして再び、朝廷内には不穏な空気が漂いはじめた。


 東興での戦いでは、数万の兵士が命を落とし、二人の武将が敵に討ち取られたとの伝聞があった。

 公休様の無事は伝えられたが、私たちに、武将でもない男鹿の生死を知るすべはなかった。


「きっと大丈夫よ。彼は必ず帰って来ると言っていたのだから」


 魏の敗北を耳にしてから、泣き通しの紅玉をなぐさめながらも、私の心は不安でいっぱいだった。





 何の情報も得られぬまま、さらにひと月あまりが過ぎた頃、東興から公休様の軍がようやく帰還した。

 宮廷内を列を成して歩く兵士らの顔は、出発したときとは別人のように生気を失い、生還者は約半数ほどしかなかった。

 そして列の後半になるほど、負傷者や病人が、仲間の兵に支えられながら歩く姿が目立った。

 重く暗い、まるで死者の行列のような兵士の群れに目を配り、私と紅玉は男鹿の姿を探した。


「男鹿様!」


 紅玉が最後尾近くで、負傷した兵士の肩を抱えて歩く彼の姿を見つけ、叫び声をあげた。

 少し頬がこけ、目元を黒ずませた男鹿は、他の兵士同様、力なく足を引きずるように歩いていた。

 紅玉の声に気が付いた彼は、弱々しい目を私たちに向けて、無表情のまま小さく頭を下げた。





 兵達が帰還して、時が経つにつれ、戦の全容が明らかになってきた。


 呉の兵が、険しい山岳地帯の道を使って東興を目指しているとの情報を得た魏軍は、敵よりも先に現地に到着し、戦いに有利な場所を占拠できるとふんだ。

 実際、先に東興に着いた魏軍は、岸から河の上に建つ砦に向かって、小舟を繋げて浮き島を作り、攻撃の準備を整えた。

 ちょうどその頃、洛陽らくようから兵士らへの契機付けとして、大量の酒が送られてきた。

 敵に先手をうてた事で、既に勝利を確信していた魏軍は、愚かにも岸辺に張った陣で酒を酌み交わしはじめたのだ。



 しかしその頃、敵に遅れをとれば不利になると懸念した呉の武将丁奉ていほうが、少数の兵を従えて、最短距離で東興に向かっていたのだ。

 そんなことを夢にも思わず、魏の兵は完全に油断し、いつしか宴が始まっていた。

 そこに丁奉率いる約三千の兵が、水上から奇襲をしかけて来たのだ。

 しかし、酔いがまわり、判断能力を失った魏の兵らは、少数で軽装の敵を見て、相手にならぬとあざ笑った。

 そんな中、信じられない事に丁奉の兵は、船から真冬の河へ飛び込み、魏が陣を張る岸へ泳いで向かって来たのだという。


「この寒いのに、川に飛び込むとは、自殺行為だな」


 魏の兵士らは、はじめそう言い、笑って傍観していたという。

 しかしやがて、ひとり、ふたりと敵が岸に上がりはじめ、ようやく危機を感じた彼らは、慌てて刀を抜きだした。


 しかし、時既に遅しだった。


 すっかり酔いのまわっていた魏兵たちは、足元がふらつき、まともに戦うこともできず逃げ惑い、呉兵は彼らの背中を次々と斬り捨てていった。

 陸で逃げ場を失った者は、難を逃れようと、浮き島に飛び移った。

 だがその頃には、後続の呉の兵が到着しており、船同士をつなぐ綱を切断し、浮き島を破壊していたのだ。

 連結させることで安定していた船は、大きくぐらつき、水上戦に不慣れな魏兵は、次々と川へ落ち、酒を飲んでいたこともあり、水死者が続出した。



 陛下が懸念されていた通り、後がない呉軍の決死の攻撃に対し、油断しきっていた魏軍は完敗したのだ。


 やっとの思いで生きながらえた者たちを、今度は病が襲った。

 極寒の中、水につかった兵士らは、次々と高熱に倒れたのだ。

 だが、体を休めるあたたかい場所も、食べ物もない状態で、多くの者が力つき、命をおとしていったという。


 こうして、なんとか無事洛陽ここへ帰り着いた時には、生存者は約半数となっていたのだ。






 兵が帰還してしばらくして、私は紅玉を連れて、男鹿の屋敷を訪れた。

 彼の居所を侍従に聞くと、北の池ではないかと言われ、私たちは夏の日に蓮をでた池へと向かった。


 冬の池はすっかり様変わりし、そこには寒々しい景色が広がっていた。

 ひからびた蓮の茎や葉が折れるように首をもたげ、一面褐色に染まった池に、夏に溢れていた瑞々しい命の息吹はいっさい感じられなかった。


 そんな池のふちに、背を向けてたたずむ男鹿の姿を見つけ、私たちはそっと近付いて行った。

 気配を感じて振り返った彼は、私たちに向かって力なく微笑んだ。

 帰還した当初よりは、幾分か顔色は良くなっていたが、その表情は重く沈んだままだった。


「……私は結局、何もできませんでした」


 そうつぶやいて、彼は焼け野原のようにも見える、荒涼とした水面に視線を戻した。


「あなたは、兵士らに酒を控えるよう訴えたのでしょう?」


 私は祖父を通して公休様から、戦場での彼の様子を聞いていた。

 気を緩め、酒盛りを始めた兵士らに危機を感じた彼は、陣地内を駆け巡り、深呑みするなと訴えたという。

 けれど、異国の若者の言葉に耳をかす者は、誰一人いなかったらしい。


 呉の兵が上陸してからは、逃げ惑うばかりの味方の中、ひとり、刀を手に敵に向かっていったとも聞いた。

 しかし、いくら彼が人並み以上に剣術に優れていたとしても、万単位の兵士らが入り乱れる中、できることはしれている。

 結局、我が身と、その周辺の者を守るだけで精一杯だったのだろう。


「熱に侵された兵士らを、治療してまわってくれたとも聞いているわ」


 慰めるように言う私の言葉に、彼はうつむいて、大きく左右に首を振った。


「何の手も尽くせぬまま、多くの者が死んでいきました。帰れぬ故郷を偲びながら……」


 そう言って彼はその場にうずくまり、膝の上で組んだ腕に顔を埋めた。


 そんな男鹿の姿を見て、私は今回、子元様が彼を戦場に送られたのは、この無力感を味あわせるためだったのかもしれないと思った。

 ふとその瞬間、私は子元様が今回の戦に敗れることを、わかっておられたような気がした。

 けれど、いくらなんでも、みすみす数万の兵の命が失われるようなことをされる訳がないと、自分自身に言い聞かせた。


 しかし、私のその推測は、恐ろしい事に、思い過ごしではなかったのだ。

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