第二十五話 自立心

 皇后様の計らいでお会いすることはできたけれど、それ以降も陛下が私のもとへお越しくださることはなかった。

 陛下がどれほど私の事を愛して下さっているかは、あの日痛い程よくわかった。

 けれど、それ故に私を遠ざけようとされているお気持ちを思うと、自然と涙がこぼれ落ちた。


「どうして私はこうも無力なのかしら」


「奥様……」


 ため息混じりにそう言う私を、紅玉こうぎょくは心配そうに見つめていた。

 所詮、誰かに囲われていなければ生きていけない妾の身。

 陛下に安心していただくために、男鹿おがと共に倭国へ渡るべきなのか。

 それとも、他の誰かに買われる前に、いっそこの世から消えてしまおうか。

 そんなことを際限なく考えあぐね、私は今日何度目かのため息をついた。


「この世の中、女が自分の足で生きていくことはできないのでしょうか……」


 ふと、紅玉がつぶやくように言った言葉に、私ははっとした。

 年頃になって、美しく成長した彼女だけど、この子の背中には、私を庇って負った醜い傷がある。

 私が倭国に渡ったり、この世から去れば、この子は一体どうなるのだろう。

 普通であれば実家に帰り、親の勧める相手と結婚するのだろうが、いくら美しく、気立てが良くても、あのような傷があれば条件が悪くなるだろう。

 かといって、宮廷に残り誰かの侍女を務めるとしても、年頃を迎えれば嫁ぐ事で引退していくことが通例の侍女に、老いた者は存在しない。

 あと数年もすれば、侍女として生きていくことも難しくなるだろう。


『女が自分の足で生きていくことはできないのでしょうか……』


 紅玉は、私の将来を思って述べたのだろうけれど、私には、彼女自身の心の叫びにも思えた。

 同時に、この子のためにも、軽はずみな決断はできないと思ったのだった。






 庭木に青葉が繁りはじめた頃、久々に祖父張政ちょうせいが訪ねて来た。


「苦戦を強いられたが、なんとか南安なんあんは敵から護り仰せたようじゃ」


 それを聞いて、私と紅玉はほっと胸を撫で下ろしたが、直後、眉をひそめて祖父の顔をじっと見つめた。


「安心せい。男鹿は無事じゃ」


 私たちの言葉にならない問いかけを感じ取った祖父は、そう言って笑った。

 私と紅玉は今度こそ心からの安堵のため息をついて、笑みを浮かべた顔を見合わせた。


「じゃが……少々厄介なことになった」


 祖父は一旦緩めた表情を再び引き締め、視線を床に落としてあご髭を撫でた。


「厄介なこと?」


 問い返す私に、祖父は髭を握りしめ、「う〜ん」と唸った。


子元しげん様が、あの者を軍師としてそばに置きたいと言い出したのじゃ」



 


 鉄籠山てつろうざんへ逃れた子尚ししょう司馬昭しばしょう)様の兵らを、水不足から救った男鹿だったが、その後も彼の活躍は続いたらしい。

 飲み水を得て、命を繋いだとはいえ、山頂へ至る唯一の道は蜀軍に包囲されたままで、両者の間では睨み合いが続いていた。

 そして、いよいよ兵糧も底を尽き、子尚様の兵には限界が近付いていた。


 そのような緊迫した状況に、男鹿は、魏の武将玄伯げんぱく陳泰ちんたい)様に、ひとつの策を提案した。

 彼の考えに賛同した玄伯様は、五千の兵を引き連れ、蜀と行動を共にするきょう王の陣地へと赴いた。

 そこで彼は、鉄籠山で籠城している子尚様に代わって、南安を護っている伯済はくさい郭淮かくわい)様のもとから亡命してきたと訴えかけたのだ。


「子尚様がいらっしゃらないことをいい事に、郭淮がおごりたかぶり、意見をたがわす自分を亡き者にしようとしているため逃げて来た」


 そう言って南安の陣地の様子を事細かく語って聞かせる玄伯様に、羌王はすっかり心を許した。


「共に夜襲をかけ、南安を攻め落としましょうぞ」


 敵地を詳しく知る味方を得たと喜んだ羌王は、早速その夜、兵を玄伯様に与え、南安へ向かわせた。

 しかし、そこには男鹿が作らせた大きな落とし穴が待ち構えており、暗闇の中、兵の多くがその穴に落ち、戦意を失った羌軍は魏に降参した。


 次に男鹿は、降参した羌兵を前軍に配し、鉄籠山の道を塞いでいる蜀軍の陣地へ向かわせた。

 羌兵の姿を目にした蜀軍の武将姜維きょういは、援軍が来たと喜び、陣中に迎え入れた。

 しかし、門を開いたとたん、羌兵を踏みつけるように、後方で息を潜めていた魏の兵が雪崩れ込み、慌てて逃げる姜維を追いつめたのだ。

 寸でのところで姜維は取り逃したが、蜀軍を壊滅させ、それにより子尚様は下山することができたのだった。





 東興とうこうの戦いでは、男鹿の能力が注目されることはなかった。

 しかし、新城しんじょうでは、結果的に味方の攻撃を妨害したとは言え、彼の知恵により魏が窮地を脱したのは事実だ。

 そして、今回の勝利の陰にもその働きがあったと知り、子元様が戦力として彼を欲したとしても無理はない。

 これまでは小賢こざかしい異国の若者と苦々しく思っていた男が、味方につければ大きな力になると思い直されたのだろう。


「でも……そうなれば男鹿は……」


「倭国には帰れなくなるのう」


「そんな……」


 私と紅玉は、ほぼ同時にそう小さく叫んだ。

 壹与いよ様との未来のために異国の地までやってきた彼の身に、まさかこのようなことが起きようとは。


みかどが朝廷を開かれて以来、呉の技術を取り入れ、倭国は急速に近代化してきている。優れた鉄器を作る技術のみならず、織物技術も飛躍的に向上し、今では大陸でも高値で取引されるまでになった。倭国との関係性を考えて、あの者を留めることに反対する者もあるであろう。しかしな……」


 そう、相手はあの子元様なのだ。

 目的のためなら手段を選ばない恐ろしい方。

 そして、あの方の背後には、もっと恐ろしい皇太后様が付いていらっしゃるのだ。

 新城での男鹿の罪へ対する罰は、未だ確定していない。

 あの方たちなら、それを利用して反対勢力をもねじ伏せかねない。

 私は胸に大きな不安を覚え、唇を噛み締めた。






 その日も私と紅玉は部屋の中で書物を読んでいた。

 最近はこうして彼女と部屋で過ごすことが多くなった。

 きりのいいところまで読んだ私が、ほっと息をつき、紅玉の方に目をやると、彼女は相変わらず目を皿のようにして、真剣に書面に見入っていた。

 

「もしかして学問に興味があるの?」


 きっかけは、書物を読んでいると、いつも背後から興味深気に覗き込んでくる紅玉の様子を見て、私がそう訊ねたことだった。

 すると彼女は最初こそ否定したが、やがて顔を真っ赤にしてこくりと頷いて見せたのだ。

 詳しく話を聞いてみると、どうも薬草や医学に特に興味があるらしかった。


「私のように命を落としかけた者を救えるようになりたいのです。男鹿様のように……」


 彼女は自分が重傷を負った時、手当をしてくれた男鹿の姿を見て、医学に興味を持ったらしい。


 以来、私は彼女に部屋にある書物を自由に手にとらせ、疑問があれば説明してやるようになったのだ。

 そうして勉強に付き合うようになり、思っていた以上に彼女が聡明であることに驚いた。

 前々から利口な子だとは思っていたけれど、大抵の物事は一度説明すれば理解できるようだ。

 そして、ひとたび疑問が浮かべば、納得するまで「なぜ?」「どうして?」の連続で、私のほうが思わずたじろいでしまうほどだった。


「ねえ、紅玉、あなた、産婆になってみる気はないかしら?」


 ある日私は、いつものように無心に書物の文字を目で追う彼女にそう訊ねてみた。


「産婆……ですか?」


 紅玉は驚いたように目を丸くして顔をあげた。

 この国には、女の医者は存在しない。

 昔も今も、医者は男の仕事であるとの認識なのだ。

 だが、お産の際、赤ん坊を取り上げる産婆だけは、唯一女でも医学に携われる仕事だった。

 私の今後に寄っては、彼女の人生もどうなるかわからない。

 そんな不安を抱えていた私だったけれど、彼女が産婆として独り立ちできれば、安心できるような気がしたのだ。


「なれるでしょうか。私に」


 紅玉はうつむき、もじもじと書物を持つ手を動かした。


「なれるわよ。あなたならきっと」


 私が明るい声でそう言うと、彼女は弾かれたように顔を上げた。

 その目はきらきらと輝き、いつもに増して頬が赤く染まっていた。

 笑顔でうんうんと頷く私に、嬉しそうに顔をほころばせた紅玉だったが、次の瞬間、その顔が真顔に戻った。


「では、奥様はお医者様に……」


「……」


 真剣な表情で見つめる紅玉から、私は思わず目を逸らして苦笑した。


「無理よ。私は女だもの」


 そう言う私に、紅玉は興奮気味に一気に言葉を並べた。


「以前、男鹿様がおっしゃっていました。奥様の知識は張政様にも引けをとらないと」


「いくら知識があっても、世間から認めてもらえなくては医者にはなれないわ」


 私は大きなため息をつきながら目を伏せた。

 例え誰より医学の知識を持っていようと、他人から見た私は女である以前に妾なのだ。

 私だって自分ひとりの力で生きていく術は欲しい。

 そうすれば、陛下にご心配をお掛けする事もなくなるかもしれない。

 けれど、一度は妾に身を落とした私を、医者として誰が使ってくれるというのか。


「無理でしょうか……」


 紅玉がそう言って、残念そうに肩を落とした時、部屋の外で使用人たちが騒ぐ様子が感じられた。

 何事かと戸口に目を向けると、突然、武装した男たちがどかどかと部屋の中に入って来た。


「な、何事ですか?」


 思わず立ち上がった私の体に、一瞬のうちに縄が何重にも巻かれ、口には猿ぐつわをされた。


「陛下へ対する不貞罪によりその身を確保する」


 兵らが戸口を挟んで二手に分かれた間を、冠帽を被った役人が進み出てきて口上を述べた。

 直後、私は縄を握った兵に背中を押され、部屋から外廊へ出た。


「奥様!」


 叫びながら私に近付こうとする紅玉の腹を、別の兵が蹴り上げ、彼女はくの字に体を折り曲げてその場に倒れた。


「!!」


 猿ぐつわをされた私は声を上げることもできず、兵に背を押されながら首だけを紅玉の方へ向けた。

 紅玉は何度か身を起こそうと試みていたけれど、あまりの痛みに動けないようだった。





 私は縄で縛られたまま、宮中にある討議の間と呼ばれる広間へ連れて行かれた。

 広間の中央部まで来ると、兵士に肩を強く抑え付けられ、冷たい石の床の上に強引に跪かされた。

 部屋の左右の壁際には、大臣や武将、役人たちが居並び、その中には心配そうに私を見つめる祖父の姿もあった。

 しばらくその体勢でいると、がちゃがちゃと鎧がぶつかり合う音と共に、背後から複数の人間が近付いてくる気配を感じた。

 やがて、私の隣で何者かが立ち止まり、突き飛ばされるようにその場に膝を落とした。

 見るとそれは汚れた戦闘服を身につけ、縄で縛られた男鹿だった。

 その様子から、おそらく彼は長安からの帰還直後、ここへ連れて来られたのであろう。

 私たちは、再会を喜ぶ間もなく、不安気な顔を見合わせた。

 次の瞬間、玉座の置かれた前方の袖の扉が開き、子元様と皇太后様が入って来られた。

 玉座よりも一段低い場所に置かれた椅子に、お二人が腰を降ろされると、続いて陛下と皇后様がいらっしゃった。

 陛下は私の顔に一瞬目を留められたが、すぐに視線を前方に移し、まっすぐ玉座に向かわれた。

 そしておふたりがふたつ並んだ黄金の椅子に腰を降ろされると、兜を被った兵士が銅鑼どらを力一杯叩いた。

 石で作られた閉鎖された空間に、割れるような銅鑼の音が響き渡り、私は大きく頭をもたげた。


「これより、保留になっていたその者の処分について、審議を行う」


 銅鑼の残響が途切れた頃、子元様が立ち上がり、大きな野太い声でそうおっしゃった。


「今回、その女の陛下へ対する不貞行為も明るみとなった。よって、同時にそちらも審議する」


 子元様の言葉に、私はごくりと唾を呑み込んだ。

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