第二十四話 撩乱

 長安ちょうあんでの戦いは、一進一退を繰り返していた。


 子元しげん司馬師しばし)様は、東興とうこうの戦いに敗れた責任をとって官位を返上していた弟、子尚ししょう司馬昭しばしょう)様を再び大都督だいととくに据えられ、しょくきょうを迎え討つことを命じられた。

 当初は子尚様に仕える武将、玄竜げんりゅう徐質じょしつ)様が、圧倒的な戦闘能力で敵を蹴散らし、魏の有利かと思われていた。

 しかし、その玄竜様が敵の罠に落ち、火攻めにあった上に、斬り殺されてから、形勢は一気に逆転した。


 蜀の将軍姜維きょういは、討ち落とした玄竜様の兵から鎧兜を奪い、それを自らの兵の身につけさせ、魏の本陣へと向かわせたのだ。

 魏の鎧を着け、旗印を掲げた軍隊を見て、味方が帰還したと判断した門番は、疑いも無く門を開いてしまった。

 結果、蜀の兵が陣地内に流れ込み、本陣はあっさりと焼き払われたのだ。


 その時、子尚様は、六千の兵と共に、命からがら、本陣の近くにそびえる鉄籠山てつろうざんへと逃れられた。

 しかし、この山は、四方が切り立った崖になっており、頂上へ向かう道は一本しかない。

 その唯一の道を蜀軍に包囲され、魏の兵は山頂での籠城ろうじょうを余儀なくされたのだ。

 しかも、この山に唯一あるため池は、水が澱み、とても口にできるものではなかった。

 そのため、兵も馬も水に飢えて次々と命を落としていった。


 そんな魏軍の危機的状況を知り、男鹿おがは戦地へ向かったのだ。

 鉄籠山で、彼の育ての父の友人である公休こうきゅう諸葛誕しょかつたん)様も苦しんでいらっしゃると耳にしたからだ。


 長安に着いた彼は、まず、身のこなしの優れた兵士を山に向かわせた。

 敵の目を欺き、崖を登って山頂に着いた兵士は、彼からの伝言を子尚様に伝えた。


「池のそばに井戸を掘るように」


 藁をも掴む思いであった子尚様が、男鹿からの伝言通りに井戸を掘ると、そこには地中を伝って浄化された池の水が満ちてきたという。

 こうして、子尚様の兵や馬は飲み水を得て、命をつなぐことができたのだ。

 

 

 


 そのようなめまぐるしく変わる戦況を耳にしても、魏の勝利と、男鹿の無事を祈る事しかできないまま、淡々と時は過ぎて行った。


 やがて厳しい冬が過ぎ去り、季節が春へと移り変わっても、相変わらず陛下が訪れて下さることはなく、私は未だ決心をお伝えできないままでいた。


「奥様、皇后様がお話があると……」


 そんなある日、紅玉こうぎょくがそう言ってきた。

 先日十五になった彼女は、気が付けば背が少し伸び、表情からも幼さが抜け、最近きれいになったような気がする。


 彼女に導かれるまま、桃のつぼみがほころび始めた庭を抜けると、宮廷内で一番大きな池を見渡せるように佇む東屋あずまやに、皇后様のお姿があった。


「久しぶりね」


 そう言って、手で大理石の椅子に座るよう、私に示された皇后様も、以前より少し大人びて見えた。

 紅玉と同じ年の皇后様も十五。

 もう、立派な淑女におなりだった。


「あれから陛下とは……?」


 机を挟んで向かい合わせに座った私と皇后様の前に、紅玉が茶を運んで来てくれた。

 私が目を伏せて、黙って首を横に振ると、皇后様は大きくため息をつき、茶器に手を伸ばされた。


「私ね、皇太后と司馬師を失脚させてやろうと思っているの」


 皇后様のお言葉に、私は口元に近付けかけた茶器を思わず離した。

 驚く私の前で、皇后様は思い詰めたような表情を浮かべ、手の平で茶器を包み、ゆらゆらと揺れる茶を見つめられた。


「このままじっとしていたら、また命を狙われかねないわ。だから父とも話をして、今、密かに仲間を募っているの」


「あのお二人は恐ろしい方々です。このようなことが明るみになれば、どんな目にあうか……」


 声を震わせ、不安気に訴えかける私に、皇后様は今度は厳しい表情を見せて、低い声でおっしゃった。


「このままでは、陛下も廃位されかねない。司馬師にとっては、父も邪魔者のはずよ。大切な人たちを守るためにも、あの二人は生かしておけないのよ」


 覚悟を決めたような皇后様の口ぶりに、私はそれ以上何も言えなくなった。

 皇太后様が陛下を廃位し、新たな皇帝を据えようとされていることは、祖父の話からみてほぼ間違いない。

 子元様にとっても、敵対する皇后様の父、敬仲けいちゅう張緝ちょうしゅう)様は目障りな存在のはずだ。

 あのお二人なら、自分たちにとって邪魔な存在は、あらゆる手を使って消そうとされかねない。

 事実、皇太后様はあの日、私を利用して、皇后様の命を奪おうとされたのだ。

 だから、皇后様と敬仲様が、身の危険を感じておられるのもわかる。

 だが、相手は、目的のためには手段を選ばない恐ろしい方々だ。

 このような計画を知れば、どのような手を下してくるか……。


 そんなことを思いあぐねていると、例えようの無い不安が、どんよりと私の胸の中に横たわった。

 皇后様は黙り込んだ私の顔をしばらくじっと見つめておられたが、ふっと表情を緩め、笑顔を見せられた。


「話はそれだけ。帰りは池の向こう岸を回って行ってね。牡丹が見頃なの」






 東屋を後にして、私は紅玉と共に、池の淵をゆっくりと歩いていた。

 気持ちは重いままだったが、皇后様が勧めてくださった牡丹の花を、一目見てから自分の部屋へ帰ることにしたのだ。


「まあ」


 やがて、池の淵から見下ろす開けた場所に、緑の中に散らばる紅や桃色の塊が見えた。

 それは、無数に咲き乱れる大輪の牡丹だった。

 ひとつひとつが鞠のように大きく丸みを帯び、花弁が幾重にも重なる様は、とても美しかった。

 私の後ろを歩いてた紅玉も、思わず感嘆の声をあげ、私たちは、しばしその光景に見とれた。


 ふと気が付くと、少し離れた紅色の花々の中に、ひと際目を惹く後ろ姿があった。

 肩と背中に金糸で龍の刺繍が施された黒い長衣。

 あの着物を身に纏える方は、この国ではおひとりしかいない。


「陛下」


 思わず発した私の呼びかけに、陛下は驚くような顔をして振り返られた。





「皇后め。はかったな」


 私がゆっくりとそばへ近づいて行くと、陛下は視線を外しながらそうおっしゃった。


「共に牡丹が見たいと言うから来てみれば……」


 少し気まずそうに口を尖らせる陛下を捕えた視界が、涙でどんどん滲んでいった。

 たくさんお話したいことがあったはずなのに、私の唇は、言葉の発し方を忘れたかのように、音を立てずただ震えた。


「あの者はまだ戻らぬのか」


 少し苛立ちを含んだ口調で、空を見上げて陛下はおっしゃった。


「わざわざ戦になど赴かず、さっさとそなたを連れて倭国くにに帰ればよいものを」


 そう言いながら背を向けて、花畑の中を陛下はゆっくりと歩き始められた。

 私もそんな陛下を追うように、その後ろを歩いた。

 紅玉と陛下の付き人たちは、少し離れた場所から私たちの様子を見守っていてくれた。


「私は……倭国には行きませぬ」


 震える声でそう言った私の言葉に、陛下は立ち止まられ、つられて私も足を止めた。


「陛下のおそばにいたいのです」


「……」


 そのまま、黒い衣に包まれた背中は動かなくなった。


「おそばに置いてください」


 再度、広い背中にぶつけるように、私は少し大きな声をあげた。

 妾の立場で要望を口にするなど、許されることではない。

 でも、この時の私は咎められたとしても、陛下にこの想いをお伝えしたいと思っていた。


「たとえ、陛下が洛陽ここを去られる日が来るとしても、最後のその日までおそばにいたいのです」


 泣きながらそう訴える私の声に、陛下の背中が一瞬びくりと動いた。

 やがてその背中越しに、乱れた息づかいが漏れ始めた。


「元皇帝の妾となれば、そなたを皆こぞって手に入れたがるだろう。そして、そなたを買い上げた者は、忠誠の証しとして己の主人に捧げる。そうしてそなたの身は、男たちの手から手へ渡っていくことになるだろう」


「……」


「だから行け。あの者とともに。あの者なら、妾にせずとも、そなたを悪いようにはしない」


 背を向けたまま発せられる陛下の言葉に、私は首を左右に何度も振った。

 主人を失った妾が辿る運命など、とうに想像がついている。

 男たちの間で売り買いされるだけではない。

 やがて女としての価値が無くなれば、奴婢ぬひとして死ぬまで働かされるか、ぼろ布のように捨てられるだろう。


「それでも、おそばにいたいのです」


 涙声でそう言う私に、陛下の首がうなだれ、押し殺したような声が聞こえた。


「行け」


「嫌です」


 私は唇と声を震わせ、強い口調でそう言い放った。


「行け!」


 今度は怒鳴るような陛下の声が響いた。


「嫌です!」


 私も一層声を荒げて言った。


「行け!!」


 叫び声にも似た陛下の声に、思わず私はその背中に抱きついた。


「……嫌です……」


 泣きながらそう言い、陛下の胸元にまわした私の手に、ぽたりと雫が落ちるのを感じた。

 顔を上げると、天を仰ぐように空を見上げる陛下の後ろ姿があった。

 そして、胸元の衣を掴む私の手には、荒く呼吸をする振動が伝わって来た。

 私たちはそのまま、しばらく身を寄せ、その場に立ち尽くして泣いた。





「……花が咲いたのかと思ったんだ……」


 しばらくして、陛下が小さくつぶやかれた。


「難しい顔をした大人しかいない、暗い宮廷の中で。初めてそなたを目にした時……」


「……」


「髪に大きな花を飾り、着物にも牡丹の刺繍がされていた。まるでそこだけ、薄紅色の花が咲いたように輝いて見えた」


 おそらくそれは、父に連れられて、私が初めて宮廷へ来た時のことだろう。

 もう十四年も前のことだ。

 幼かったので記憶は鮮明ではないけれど、確かにその時私は桃色の着物を身につけ、髪には牡丹の花を挿していた気がする。

 父に手を引かれ、煌びやかな宮殿に目を奪われながら歩いていた私は、やがて窓も扉もしめ切られた真っ暗な空間へ足を踏み入れたのだ。

 そして、その暗く冷たい部屋の一番奥。

 怖い顔をした男たちの居並ぶその先。

 一段高い位置に置かれた黄金の椅子に座り、大きな瞳で私をじっと見つめるまだ幼い少年がいた。

 べん(冠)に垂れ下がる七色の玉の間から覗くその瞳は、どこか寂し気に見えた記憶がある。


「その花を、踏みにじられ、無惨に散らされたくない」


 そう言って陛下は、衣を握る私の手をゆっくりとほどかれた。

 込み上げる嗚咽おえつに震える私の手は、あっさりと衣から引き離された。


 そのまま、私の腕の間をすり抜けるように、陛下の体は離れて行った。

 優しい衣擦れの音と、微かな香の香りだけを残して。

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