第二十四話 撩乱
当初は子尚様に仕える武将、
しかし、その玄竜様が敵の罠に落ち、火攻めにあった上に、斬り殺されてから、形勢は一気に逆転した。
蜀の将軍
魏の鎧を着け、旗印を掲げた軍隊を見て、味方が帰還したと判断した門番は、疑いも無く門を開いてしまった。
結果、蜀の兵が陣地内に流れ込み、本陣はあっさりと焼き払われたのだ。
その時、子尚様は、六千の兵と共に、命からがら、本陣の近くにそびえる
しかし、この山は、四方が切り立った崖になっており、頂上へ向かう道は一本しかない。
その唯一の道を蜀軍に包囲され、魏の兵は山頂での
しかも、この山に唯一あるため池は、水が澱み、とても口にできるものではなかった。
そのため、兵も馬も水に飢えて次々と命を落としていった。
そんな魏軍の危機的状況を知り、
鉄籠山で、彼の育ての父の友人である
長安に着いた彼は、まず、身のこなしの優れた兵士を山に向かわせた。
敵の目を欺き、崖を登って山頂に着いた兵士は、彼からの伝言を子尚様に伝えた。
「池のそばに井戸を掘るように」
藁をも掴む思いであった子尚様が、男鹿からの伝言通りに井戸を掘ると、そこには地中を伝って浄化された池の水が満ちてきたという。
こうして、子尚様の兵や馬は飲み水を得て、命をつなぐことができたのだ。
そのようなめまぐるしく変わる戦況を耳にしても、魏の勝利と、男鹿の無事を祈る事しかできないまま、淡々と時は過ぎて行った。
やがて厳しい冬が過ぎ去り、季節が春へと移り変わっても、相変わらず陛下が訪れて下さることはなく、私は未だ決心をお伝えできないままでいた。
「奥様、皇后様がお話があると……」
そんなある日、
先日十五になった彼女は、気が付けば背が少し伸び、表情からも幼さが抜け、最近きれいになったような気がする。
彼女に導かれるまま、桃のつぼみがほころび始めた庭を抜けると、宮廷内で一番大きな池を見渡せるように佇む
「久しぶりね」
そう言って、手で大理石の椅子に座るよう、私に示された皇后様も、以前より少し大人びて見えた。
紅玉と同じ年の皇后様も十五。
もう、立派な淑女におなりだった。
「あれから陛下とは……?」
机を挟んで向かい合わせに座った私と皇后様の前に、紅玉が茶を運んで来てくれた。
私が目を伏せて、黙って首を横に振ると、皇后様は大きくため息をつき、茶器に手を伸ばされた。
「私ね、皇太后と司馬師を失脚させてやろうと思っているの」
皇后様のお言葉に、私は口元に近付けかけた茶器を思わず離した。
驚く私の前で、皇后様は思い詰めたような表情を浮かべ、手の平で茶器を包み、ゆらゆらと揺れる茶を見つめられた。
「このままじっとしていたら、また命を狙われかねないわ。だから父とも話をして、今、密かに仲間を募っているの」
「あのお二人は恐ろしい方々です。このようなことが明るみになれば、どんな目にあうか……」
声を震わせ、不安気に訴えかける私に、皇后様は今度は厳しい表情を見せて、低い声でおっしゃった。
「このままでは、陛下も廃位されかねない。司馬師にとっては、父も邪魔者のはずよ。大切な人たちを守るためにも、あの二人は生かしておけないのよ」
覚悟を決めたような皇后様の口ぶりに、私はそれ以上何も言えなくなった。
皇太后様が陛下を廃位し、新たな皇帝を据えようとされていることは、祖父の話からみてほぼ間違いない。
子元様にとっても、敵対する皇后様の父、
あのお二人なら、自分たちにとって邪魔な存在は、あらゆる手を使って消そうとされかねない。
事実、皇太后様はあの日、私を利用して、皇后様の命を奪おうとされたのだ。
だから、皇后様と敬仲様が、身の危険を感じておられるのもわかる。
だが、相手は、目的のためには手段を選ばない恐ろしい方々だ。
このような計画を知れば、どのような手を下してくるか……。
そんなことを思いあぐねていると、例えようの無い不安が、どんよりと私の胸の中に横たわった。
皇后様は黙り込んだ私の顔をしばらくじっと見つめておられたが、ふっと表情を緩め、笑顔を見せられた。
「話はそれだけ。帰りは池の向こう岸を回って行ってね。牡丹が見頃なの」
東屋を後にして、私は紅玉と共に、池の淵をゆっくりと歩いていた。
気持ちは重いままだったが、皇后様が勧めてくださった牡丹の花を、一目見てから自分の部屋へ帰ることにしたのだ。
「まあ」
やがて、池の淵から見下ろす開けた場所に、緑の中に散らばる紅や桃色の塊が見えた。
それは、無数に咲き乱れる大輪の牡丹だった。
ひとつひとつが鞠のように大きく丸みを帯び、花弁が幾重にも重なる様は、とても美しかった。
私の後ろを歩いてた紅玉も、思わず感嘆の声をあげ、私たちは、しばしその光景に見とれた。
ふと気が付くと、少し離れた紅色の花々の中に、ひと際目を惹く後ろ姿があった。
肩と背中に金糸で龍の刺繍が施された黒い長衣。
あの着物を身に纏える方は、この国ではおひとりしかいない。
「陛下」
思わず発した私の呼びかけに、陛下は驚くような顔をして振り返られた。
「皇后め。はかったな」
私がゆっくりとそばへ近づいて行くと、陛下は視線を外しながらそうおっしゃった。
「共に牡丹が見たいと言うから来てみれば……」
少し気まずそうに口を尖らせる陛下を捕えた視界が、涙でどんどん滲んでいった。
たくさんお話したいことがあったはずなのに、私の唇は、言葉の発し方を忘れたかのように、音を立てずただ震えた。
「あの者はまだ戻らぬのか」
少し苛立ちを含んだ口調で、空を見上げて陛下はおっしゃった。
「わざわざ戦になど赴かず、さっさとそなたを連れて
そう言いながら背を向けて、花畑の中を陛下はゆっくりと歩き始められた。
私もそんな陛下を追うように、その後ろを歩いた。
紅玉と陛下の付き人たちは、少し離れた場所から私たちの様子を見守っていてくれた。
「私は……倭国には行きませぬ」
震える声でそう言った私の言葉に、陛下は立ち止まられ、つられて私も足を止めた。
「陛下のおそばにいたいのです」
「……」
そのまま、黒い衣に包まれた背中は動かなくなった。
「おそばに置いてください」
再度、広い背中にぶつけるように、私は少し大きな声をあげた。
妾の立場で要望を口にするなど、許されることではない。
でも、この時の私は咎められたとしても、陛下にこの想いをお伝えしたいと思っていた。
「たとえ、陛下が
泣きながらそう訴える私の声に、陛下の背中が一瞬びくりと動いた。
やがてその背中越しに、乱れた息づかいが漏れ始めた。
「元皇帝の妾となれば、そなたを皆こぞって手に入れたがるだろう。そして、そなたを買い上げた者は、忠誠の証しとして己の主人に捧げる。そうしてそなたの身は、男たちの手から手へ渡っていくことになるだろう」
「……」
「だから行け。あの者とともに。あの者なら、妾にせずとも、そなたを悪いようにはしない」
背を向けたまま発せられる陛下の言葉に、私は首を左右に何度も振った。
主人を失った妾が辿る運命など、とうに想像がついている。
男たちの間で売り買いされるだけではない。
やがて女としての価値が無くなれば、
「それでも、おそばにいたいのです」
涙声でそう言う私に、陛下の首がうなだれ、押し殺したような声が聞こえた。
「行け」
「嫌です」
私は唇と声を震わせ、強い口調でそう言い放った。
「行け!」
今度は怒鳴るような陛下の声が響いた。
「嫌です!」
私も一層声を荒げて言った。
「行け!!」
叫び声にも似た陛下の声に、思わず私はその背中に抱きついた。
「……嫌です……」
泣きながらそう言い、陛下の胸元にまわした私の手に、ぽたりと雫が落ちるのを感じた。
顔を上げると、天を仰ぐように空を見上げる陛下の後ろ姿があった。
そして、胸元の衣を掴む私の手には、荒く呼吸をする振動が伝わって来た。
私たちはそのまま、しばらく身を寄せ、その場に立ち尽くして泣いた。
「……花が咲いたのかと思ったんだ……」
しばらくして、陛下が小さくつぶやかれた。
「難しい顔をした大人しかいない、暗い宮廷の中で。初めてそなたを目にした時……」
「……」
「髪に大きな花を飾り、着物にも牡丹の刺繍がされていた。まるでそこだけ、薄紅色の花が咲いたように輝いて見えた」
おそらくそれは、父に連れられて、私が初めて宮廷へ来た時のことだろう。
もう十四年も前のことだ。
幼かったので記憶は鮮明ではないけれど、確かにその時私は桃色の着物を身につけ、髪には牡丹の花を挿していた気がする。
父に手を引かれ、煌びやかな宮殿に目を奪われながら歩いていた私は、やがて窓も扉もしめ切られた真っ暗な空間へ足を踏み入れたのだ。
そして、その暗く冷たい部屋の一番奥。
怖い顔をした男たちの居並ぶその先。
一段高い位置に置かれた黄金の椅子に座り、大きな瞳で私をじっと見つめるまだ幼い少年がいた。
「その花を、踏みにじられ、無惨に散らされたくない」
そう言って陛下は、衣を握る私の手をゆっくりとほどかれた。
込み上げる
そのまま、私の腕の間をすり抜けるように、陛下の体は離れて行った。
優しい衣擦れの音と、微かな香の香りだけを残して。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます