第三十三話 悪夢

「司馬師よ。この女のことはわらわにまかせよ」


 向けられたやいばを前にして硬直する私の背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。

 兵らに両腕を取り押さえられたまま首をひねり、目をやると、そこには皇太后様が立っていらっしゃった。

 震える私の顔を見下ろし、皇太后様は真っ赤な唇を引き上げて微笑んでおられた。


「喜べ。陛下とそなたの長年の望みを叶えてやろう」


「望み……?」


 くくくと笑い声を抑えてそうおっしゃいながら、皇太后様は私の正面に立たれた。

 そして、皇太后様の手が私の腰のあたりへ伸びたと思った瞬間、しゅるりと短い音がして、帯が解かれ、医官の着物の襟元がはだけた。


「これから皇后になられる方に、このような着物は似合いませぬ」


 兵士に口を塞がれ、叫び声も出せない私に向かってそう言い、皇太后様は今度は内着の腰紐に手をかけられた。


「母上! 何を!」


 お部屋の奥で陛下が身を乗り出しながら叫ばれた。

 その声を気に止める様子もなく、皇太后様は腰紐を一気に引き抜き、私の内着の襟を両手で強く掴まれた。

 そしてそのままその手が左右に開かれ、着物が肩から滑り落ちると、私の正面の裸身があらわとなった。


「やめろ! 見るな!」


 羽交い締めにされながら、陛下は室内の兵らに向かって何度もそう叫んでいらっしゃった。


「皆の者、よく見るがいい。これが皇帝が愛した女の体じゃ」


 皇太后様は、私の体を閉じた扇でなぞりながら、けらけらと笑い声をあげてそうおっしゃった。

 自由を奪われている私は、室内にいる無数の男たちの視線に肌を晒されても、顔を伏せて泣くしかなかった。

 視線の端で、男鹿おがが兵らの手を振り払おうとする姿が見えたけれど、直後、さらに数人の兵が折り重なるようにして彼を床に抑え付けた。

 そんな男鹿の姿を冷ややかな視線で見下ろし、皇太后様は再びくくくと笑われた。


「狗奴国王、あなたも懐かしいでしょう。一度はあなたの妾であった女の体です」


 男鹿は床に右頬を押し付けられる形で、皇太后様のお顔を憎悪の表情を浮かべて睨みつけていた。


「衣装を換える前に、体を綺麗にしなくては。このままでは薬草臭くてかなわぬ」


 そう言って皇太后様は、戸口に向かって手を叩かれた。

 すると、数人の作業着を身に着けた男たちが進み出てきて、皇太后様の前に跪いた。


「この女の体を綺麗に拭いておやり。全身くまなく。中までな」


「やめろ! 花蓮ファーレンに触れるな!」


 皇太后様の言葉に、陛下は首を激しく左右に振り、大声で叫ばれた。

 皇太后様はそんな陛下に近付き、正面で腰をおろされると、扇でその顎を持ち上げられた。


「ご心配なく。あの者たちは宦官かんがん(去勢された役人)です。この女の貞操は守られます」


ちんを追放するなり、殺すなりすればいいではないですか。なぜ、周りの者たちをこのような目に……」


 陛下の問いかけに、急に厳しい表情を浮かべられた皇太后様は、振り返って扇で私を指された。


「妾でありながら、教養を鼻にかけ、いつもすました顔をしているこの女が、わらわは昔から気に入らぬのです」


「……」


「穢れた身でありながら、あなた様の愛情を一身に受け、守られていることも気に入らぬ。わらわがこの地位を得るまでに、どれほど悲惨な思いをしてきたか、この女にも味あわせてやりたいのです」


 歯ぎしりしながら皇太后様はそうおっしゃると、その場に立ち上がり、作業服の男たちに手にした扇を振られた。

 それと同時に、私の体は男たちに担ぎ上げられた。


「花蓮!!」


 お部屋から連れ出される私の背後で、陛下の叫ぶような声が何度も聞こえ、やがて遠退いていった。




 その後、別室へ連れて行かれた私は、厚い天幕に囲まれた寝台に寝かされ、男たちに手足の自由を奪われた。

 それから男たちは、無言で私の体を清め始めた。

 清めると言っても、彼らは私の耳を、胸を、腿を執拗に指でなぞり、なめ回しては、湿らせたさらしで拭いていくのだ。

 おそらくそうやって私をはずかしめるように、皇太后様に命じられているのだろう。

 その行為は、口の中や下腹部の奥にまで及んだが、抵抗できない私は、ただただ声を押し殺して涙を流し、屈辱に耐え続けるしかなかった。


 そうして、現実を忘れるようにわざと遠退かせた意識の中で、私は先ほど皇太后様がおっしゃった言葉を、ぼんやりと思いだしていた。


『これから皇后になられる方に、このような着物は似合いませぬ』


 皇后?

 私が?

 あの方達は、いったい何をなさろうとしているの?


「……!」


 ふと、恐ろしい予想に至った私は、思わず身を起こそうとして男たちにねじ伏せられた。


「おい、お前たち、もう出ろ」


 その時、天幕を少し捲り、役人らしき男が声を掛けてきた。

 すると、宦官達は、私の体から身を離し、黙ったまま天幕の外へと出て行った。

 彼らが去って行くと、入れ替わりに荷物を抱えた女官が数人入ってきて、寝台を取り囲んだ。

 男たちの手から解放された私は、寝台の上に座り、身を丸くして裸の体を可能な限り両手で覆った。


「皇后様。お召し物を」


 そう言った女官の手元を見ると、深紅の着物が広げて持たれていた。


「皇后……様?」


 問い返す私の肩に、女官は無表情のまま絹の内着を羽織らせた。




 身支度を整えられた私は、女官達に囲まれるようにして、謁見の間へ向かっていた。

 私が今身につけている深紅の上掛けと、顔を覆い隠すように被せられた透かし織りの赤い布は、天子へ嫁ぐ花嫁としてのものだ。

 そんな幸せの象徴であるはずの着物を、私は絶望感にひしがれながら身に纏い、重い足取りで歩いて行った。

 

 玉座の脇にある戸口の外側まで来ると、そこにいた兵士によって、無理矢理その場に座らされた。

 そこで私は、後ろ手に縄で縛られ、口も塞がれて、再び自由を奪われた。

 肩を兵士に掴まれながら、戸口から中の玉座を見上げると、そこには陛下が座っておられた。


「……!!」


 薄絹越しに陛下のお姿を見た私は、思わず息を呑んだ。

 陛下の手首は背中にまわされ、縄できつく縛られていたのだ。

 そして、その上で体は黄金の椅子に縛り付けられていた。

 陛下の前には卓が置かれているため、正面から見ている大臣や役人達にその様子はうかがい知れないだろう。


 ふと、私の視線に気が付かれたのか、陛下がこちらにお顔を向けられた。

 その口の中には布のようなものが押し込まれ、声が発せられないようにされているようだった。


 次の瞬間、室内に銅鑼どらの音が響き渡った。


「これより、謀反をはたらいた者たちへの罰を審議する」


 玉座を背に立たれた子元しげん様が、声を張り上げられた。


「その者達を前へ!」


 子元様が正面の戸口に向かってそう言うと、白装束を身に纏った男達が三人、兵らに縄で繋がれて入ってきた。

 ほどけた髪が乱れて顔を覆い隠し、足元は裸足のままという異様な姿。

 様子は大きく変わっていたが、それは太初たいしょ夏侯玄かこうげん)様と安国あんこく李豊りほう)様、そして敬仲けいちゅう張緝ちょうしゅう)様だった。

 部屋の中央部まで連れて来られたお三方は、蹴り飛ばされるようにその場に座らされた。

 よく見ると彼らの顔や手足は、乱暴を受けたのか、あちこち青黒いあざが浮いていた。


「お前達が私と我が弟、司馬昭を亡きものにしようと計画していたことは事実であるか?」


 子元様の問いかけに、彼らは無言のまま、ただ睨み返した。


「そして、陛下のお部屋より袖を盗み出し、密詔みっしょうを偽造したことも間違いないか」


 その問いには、敬仲様は大きく頷かれた。

 それを目にされた陛下は、異議を唱えようと身を乗り出されたが、声を出すことさえできず、大きく首をもたげられた。

 玉座を見上げた敬仲様は、そんな陛下と目が合うとせつな気な瞳で見つめられた。


「最後に、何か言い残すことはないか?」


 お三方の正面に立たれた子元様は、一人一人の顔を見下ろしながらそうおっしゃった。


「皇帝陛下、万歳!」


 その問いに答えるように、敬仲様は大声でそうおっしゃった。

 眉を寄せられた子元様の膝元で、今度は太初様が声を上げられた。


「曹家万歳!」


 間髪入れずに、安国様も叫ぶようにおっしゃった。


「逆賊司馬師め! 地獄に堕ちろ!」


 それからお三方は口々に、子元様と司馬家をののしり始めた。

 彼らの思いがけない反応に、最初は少し驚いた表情を見せていた子元様だったが、やがて背後の兵らに吐き捨てるようにおっしゃった。


「黙らせろ」


 頷いた兵士は、刀の柄を打ち付け、彼らの前歯を折った。

 口から血を垂れ流しながらも、彼らはののしることをやめようとせず、声を上げるたびに刀の柄が振り下ろされ、赤い血と白い歯が飛び散り、床を汚した。


「市中に連れ出し、処刑しろ。陛下も異論はございませぬな」


 子元様が冷たくそう言い放つと、陛下は必死に首を振られ、椅子ががたがたと音をたてた。

 だが、声にならない陛下の訴えに、子元様が耳を傾けられることはなかった。

 兵らは縄を引き上げるようにしてお三方を立ち上がらせ、戸口の方へ向かせると、背中を蹴りながら外へ連れ出して行った。

 おぼつかない足取りで歩きながらも、彼らは司馬家を口々にののしることをやめなかった。

 そうして、滑舌もままならなく、聞き取り辛くなったその声は、徐々に小さくなってゆき、やがて消えた。




「うう! うう!」


 陛下は、戸口の方を見つめ、唸り声を上げて涙を流しておられた。

 そんな陛下の顔を見上げ、子元様はにやりと笑われた。


「では続いて、張緝の娘である皇后の処分と参りましょうか」


 目を見開かれる陛下に背を向け、子元様は戸口のそばに立つ兵士に手を振られた。

 すると、白い着物を身につけ、両腕を兵士に抱えられながら、皇后様が室内に入っていらっしゃった。

 肩を抑え付けられ、無理矢理座らされた皇后様は、子元様の顔を睨むように見上げられた。

 先ほど連れ去られる父である敬仲様の姿も目にされたのだろう。

 その瞳は涙に濡れ、真っ赤に充血していた。


「あなたが陛下の袖を盗み出し、密詔を記したことに間違いありませぬか?」


 少女の前に仁王立ちになり、子元様は、手にした袖をひらひらと振りながら訊ねられた。


「……」


 皇后様は、血で文字の書かれた布を、しばらく無言で見つめていらっしゃった。

 その時再び、ごとごとという小さな音が聞こえた。

 音のするほうへ目を向けると、陛下は皇后様に向かって必死に首を振っておられた。


『何も知らないと言え!』


 声にならなくても、陛下がそう訴えかけられていることは、私にも伝わってきた。

 もちろんその声は、皇后様にも聞こえていらっしゃるようだった。

 だからこそ、皇后様は陛下のお顔を見てせつな気に微笑み、小さく首を振られたのだ。


「間違いありませぬ。私がそれを書きました」


 陛下の思いとは真逆のことを口にして、皇后様は再び子元様の方へ顔を向けられた。

 少女の覚悟を決めた様子に、子元様は一瞬、「ほう」と感嘆の声をあげられた。


「それでは仕方ありませぬな」


 そう言って子元様が片手を上げると、白く細長い絹地を手にした兵士がふたり、戸口から現れた。


「命をもって、罪を償っていただこう」


 子元様の言葉に頷いた兵士らは、皇后様の首に布を一巻きし、その両端をそれぞれ握りしめた。


「やれ」


 子元様が小さな声でそうおっしゃると、兵士らは布を握る手に力を込め始めた。

 それとともに、皇后様のお顔が苦痛に歪み、徐々に赤くなっていった。

 そして、細い指が首に巻き付く布を苦し気に掻きむしった。


『やめて!!』


 私も塞がれた口で、必死にそう訴え、身を乗り出そうとしたが、兵士らに羽交い締めにされ、泣きながら首を振ることしかできなかった。

 陛下も同様に、椅子に縛り付けられた体で、制止を訴えられていたが、椅子がわずかに持ち上がる程度にしかならなかった。

 その間にも、どんどん皇后様の首は締め上げられ、天井を向くその大きな瞳は白目がちになりつつあった。


 ふと、皇后様の濡れた瞳が陛下のお顔を捕えたように見えた。

 それと同時に、右手が陛下の方へとゆっくりと伸びた。

 けれど次の瞬間、皇后様の全身がびくりと震え、その首と手がだらりと下がった。

 手応えがなくなったことに気付いた兵士らが、布を握る手を緩めると、小さな体はその場に崩れ落ちた。


 そして、脱ぎ捨てられた白い衣のようにも見える皇后様の体は、もう二度と動くことはなかった。

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