第二十三話 巡る想い

「あなた、あの男の国へ共に行くの?」


 怒りをたたえた表情のまま、不意に皇后様は私に尋ねられた。


「陛下がおっしゃっていたの。あなたの身は、あの男に委ねたと」


「陛下が……」


 皇后様のお言葉に、私は胸にぐさりと突き刺さるような痛みを感じた。

 やはり、陛下は私を男鹿おがに託すおつもりなのだと思うと、寂しさと哀しみが胸を覆った。

 皇后様の丸みを帯びた澄んだ瞳に、心まで覗かれそうで、思わず私はうつむいて視線を逸らした。


「陛下を置いて行かないでよ」


 しばらくして皇后様は、思いがけない言葉を口にされた。

 驚いた私が顔を上げると、唇を噛み締め、きつく目を伏せられた皇后様のお姿があった。

 そして、膝の上で握られた小さな拳には、玉のような涙がぽたぽたと落ちていた。


「悔しいけど、陛下はあなただけを愛していらっしゃるのだから……」


 震える声でそうおっしゃって、皇后様は次々と溢れ出す涙を袖口で拭われた。


「あなたは気を失っていて知らないだろうけれど、あの時、嫌というほどわかったわ」


「……」


 茶会の席で倒れた私のもとへ陛下が駆け寄り、毒を吐かせて下さったことまでは記憶にある。

 薄れゆく意識の中で、私の体を抱き上げ、背を摩りながら必死に名を呼んでくださった声は、今でも耳に残っている。


「あなたが倒れて、すぐに宮廷付きの医師が呼ばれたけど、毒の種類がわからなくて手を施せないと言われて……。だから、陛下は張政ちょうせいを呼ばれたの。でも、皇太后に出張を命じられ、あの者が洛陽ここにいないと知って、ひどく落胆されていたわ」


 皇后様は、膝に置いた拳を震わせ、あの日あった出来事を語ってくださった。






「そうだ。あの者なら……」


 ふと、うなだれていた顔を上げ、陛下は宙を見つめてそうつぶやかれたという。


「地下牢からあの者を出せ。あの者、男鹿なら救えるかもしれぬ」


 陛下は、背後に控える側近の方へ振り返り、強い口調で命じられた。

 しかし側近は、戸惑いの表情を浮かべ、皇太后様と子元しげん様の顔を伺うように見た。

 無理もない。

 罪人である男鹿を、審議も通さずに牢から出すなど、いくら皇帝の指示とはいえ、躊躇して当然だ。

 立ち尽くしたまま、あわあわと口を動かす側近に、陛下はいまいまし気に歯ぎしりをされた。


「もうよい。ちんが行く」


 陛下は私を床に寝かせると、血の気のなくなった頬に触れ、力強く呼びかけられた。


「待ってろ。花蓮ファーレン。必ず助ける」


 そう言ってすっくと立たれた陛下は、棒立ちする側近を押しのけ、皇太后様のお部屋を飛び出して行かれた。

 長衣をひるがえし、急速に小さくなっていく後姿を、侍従たちが慌てて追いかけた。

 皇后様は呆然と、そんな彼らを見送られていたという。


「このような穢れた娘に随分ご執心なことよ。こんなに可愛らしい皇后様がいらっしゃるというに」


 しばらくして皇太后様が、横たわる私を扇子で指しながらそうおっしゃった。


「この女、皇后の座を得るために、あなた様を亡き者にしようとして、誤って毒を飲んだやもしれませぬなあ」


 くくくと怪し気な笑みを浮かべ、皇太后様は子元様に目配せをして、共にお部屋を出て行かれた。

 そんな皇太后様のお言葉に惑わされた皇后様は、ゆっくりとご自分の帯締めをほどき、泣きながら気を失ったままの私の首にそれを巻き付けられた。

 部屋の中には数人の侍女たちがいたが、取り憑かれたような表情の皇后様に何も言えず、ただそのご様子を見守っていたらしい。


「お待ちください!」


 紐に力を込めようとした瞬間、少女の白い手がそれを遮るように割って入ってきた。


「奥様は皇后様のお腹の御子を守ろうとされたのです!」


 部屋の外に控えていた紅玉こうぎょくが、ただならぬ皇后様のご様子に異変を感じ、血相を変えて飛び込んで来たのだった。







「その時、初めて真実を知ったのよ。あなたが自ら薬を口にしたのだと。だから紅玉を責めないで。彼女が止めてくれなかったら、私はあなたを殺していた」


 皇后様はそう言って、戸口のそばに座る紅玉の方へ潤んだ瞳を向けられた。

 私も若い侍女の顔を見つめ、口元を手で覆って涙をこぼした。

 そんな私たちの視線を受けて、紅玉は大きく首を左右に振ってうなだれ、肩をすぼめた。

 本当に私は、いつもこの子に助けられてばかりだ。

 どれだけ感謝の言葉を並べても足りないほどに。


「その後、陛下の後を追って行った侍従から話を聞いたわ。陛下が膝を泥に汚しながら、あなたを救って欲しいと牢の中のあの男に懇願されたと」



『地下牢の私のもとへ自らおいでになり、地に膝を付いて、彼女の命を救って欲しいと訴えられたあなた様の想いは、伝えないままでよろしいのですか?』



 あの時、男鹿が言った言葉には、このようないきさつがあったのだ。

 罪人の前に跪く皇帝の姿を目にして、追って行った侍従たちもさぞかし驚いたことだろう。

 そこまでして、私の命を救おうとして下さったのだと思うと、一層陛下へ対する愛しさが増した。


「そんな陛下を置いて、あなたはあの男の国へ行くの?」


 いきなり立ち上がった皇后様は、私の肩を両手で掴み、強く前後に揺さぶられた。

 黒く丸い瞳が涙で潤んでいた。


「私は……ここに残ります。でも、あの日以来陛下はお越しになってくださらなくて……。想いをお伝えする機会もないのです……」


 顔を両手で覆って私はその場に泣き崩れた。

 本当に愛して下さっているのなら、なぜ陛下は私を男鹿に委ねようとされるのだろう。

 私がそれを望んでいると思っておられるから?

 確かに、そう思われたとしても仕方のないようなことを、私は散々してきた。

 これまで数えきれない程傷つけてきておいて、今更虫が良すぎるのかもしれない。

 でも、許されるならもう一度お会いしてお伝えしたい。


「あなた様のおそばにおいて下さい」


 ……と。





 陛下がお越しになられないまま、さらに半月ほどが過ぎ、梅の花がほころび始めた頃、祖父|張政が出張先から戻って来た。


「馬鹿者が」


 私の顔を見て開口一番そう言い、祖父は大きなため息をついた。

 朝廷内に広い人脈を持つ祖父は、留守中私の身に起こったことも、既に承知なのだろう。

 正面にゆっくりと腰をおろした祖父は、眉間に深い皺を寄せ、私を睨むように見つめた。


「だが、命を落とすことがなくてよかった」


 次の瞬間、そう言って細められた瞳は、微かに潤んでいた。

 私は老いた祖父に心労をかけた申し訳なさに深く頭を下げた。


「……で、お前は倭国へ渡るのか?」


 低くした私の頭上に、抑え気味の祖父の声が降ってきた。

 陛下が男鹿に私の身を委ねようとなさっていることも、祖父は知ってるようだった。

 祖父の問いかけに、私は大きく首を横に振り、膝の衣を握りしめた。


「私はこれからも、陛下のおそばにいたいと思っています」


「……」


「でも、陛下のお気持ちは決まっていらっしゃるようで……」


 そう言って顔を覆う私の肩に、祖父は優しく手を添えてくれた。

 その手のあたたかさに甘えて、私はそのまましばらく泣き続けた。


 少し私が落ち着きを取り戻した頃、肩に置かれた手に力が入るのを感じ、私は涙に濡れた顔をあげ、祖父を見上げた。


「花蓮、心して聞け」


 そこにあった祖父の表情は、固く、緊張感に満ちていた。


「皇太后様は子元様と結託して、近いうちに陛下を廃位に追い込むおつもりじゃ」





 考えたことがない訳ではなかった。

 陛下が皇帝の座から追われる日が来ることを。


 幼い頃から常に、陛下の足元は心許ないものだった。

 先帝の養子である陛下にとっては、親戚であるはずの曹家の人々でさえ、心を許せる味方ではなかった。

 それどころか、あの家の人々は、幼い陛下を利用して国財を私物化し、財政を圧迫し続けたのだ。

 贅を極めた自分たちの屋敷を建設するため、農村から働き盛りの男たちを徴収し、そのために収穫が落ち込み、各地で餓死者が相次いだ。

 そうして民から沸き上がる反感を感じ始めた彼らは、今度は自分たちの身を護るため、こぞって兵をかこい込み、恒久的に兵を確保するため、子どもを産める年頃の女たちを、未婚、既婚に関わらず強引に兵らの妻として召し上げたのだ。

 そうして地方の農村では、飢えて力尽きた老人や、母を失って行き倒れた子どもの死体が、道端のあちこちで見られるようになった。


「このままでは民の生活を守れぬ」


 四年前、陛下はそうおっしゃって、仲達ちゅうたつ司馬懿しばい)様と共に、親戚筋である曹家を一掃されたのだ。

 確かにあの時、陛下が決断を下されていなければ、この国は、外敵によってではなく、内部から崩壊していただろう。

 そして、あの時、仲達様は、間違いなく陛下の味方だった。

 仲達様がご健在だったあの頃、陛下のお心も一番落ち着いておられたと思う。


 けれど、その仲達様が亡くなり、王家に不義理な子元様に代が代わったことで、状況は一変した。

 野心家であられる子元様は、当初からこの国の頂点に立とうと目論んでおられた。

 しばらく、子元様と皇后様のお父上であられる敬仲けいちゅう張緝おちょうしゅう)様との攻防の様子を伺っておられた皇太后様も、ここにきて身の置き場所を子元様に定められたことが明白になった。


「今回わしが学問を説くように命じられた彦士げんし曹髦そうぼう)様には、皇太后様より密かに次期皇帝にとの打診があったらしい」


 祖父の言葉に私は愕然とした。

 皇太后様は、既に陛下を失脚させた後を継がせる方への根回しまでされているのだ。

 彦士様はまだ十三、四歳の少年のはず。

 おそらく皇太后様は、成人されて扱いづらくなった陛下に変わって、幼帝を据えることで、再びこの国を思うがままに動かそうとお考えなのだろう。


「主人を失った妾は、新たな主人に買い上げられる。陛下はそうなる前に、お前を信用のできる男に委ねようとお考えなのじゃろう」


 その瞬間、私はその場に泣き崩れた。

 皇帝を廃位するともなれば、子元様はそれなりの罪を陛下に科せられるはずだ。

 たとえそれが濡れ衣であったとしても……。

 罪人として都を追われることになれば、妻ならまだしも、妾を伴うことなど、とても許されないだろう。

 そうして残された私の身を、案じて下さっておられたなんて。


「陛下は前々から廃位される日が近いことを、肌で感じておられたのかもしれぬ。場合に寄っては、もともとお前を託すために男鹿を呼び寄せられたのかもしれぬ」



『もう少し、朕のそばにいてくれ……』



 いつか陛下が私の胸元でおっしゃった言葉が、鮮やかに甦って来た。


『もう少し……』


 いずれは私を男鹿に託すおつもりで、あの言葉を口にされたのかと思うと、せつなさで胸が張り裂けそうだった。

 だから陛下は、男鹿に惹かれていく私を咎めようともなさらなかったのだろうか?

 愛する人に委ねることができれば、私が幸せになれるとお思いになられたから?


 でも、もう無理だ。

 私は自分の本当の気持ちに気が付いてしまったから。


「陛下のおそばにいたい……。あと少しの間だとしても……」 


 そう言って泣きじゃくる私を、祖父は黙って見守り続けていた。

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