第四話 疑惑〜其の一〜
ある夜、私が
「何をされているのですか?」
背後から問いかけた私の声に、一瞬驚いた表情で彼は振り返った。
「星の位置から地上の地点を読みたいのですが、なかなか正確に測るのが難しくて……」
そう言いながら男鹿は、再び星空に伸ばした指先を、片目を閉じて見つめた。
「それができれば、海原のただ中を航行できるようになり、航海日数を短縮できるのですが……」
現状の航海は、位置情報を得る手段が限られているため、沿岸を目で確認しながらすすめられていた。
海原で位置を見失えば、遭難に直結する危険があるからだ。
そのため、目的地が直線方向に進めば近いとわかっていても、遠回りして陸をなぞるように航行していた。
彼はそれを解消するために、星の位置から現在位置を知る方法を模索していたのだ。
魏の学者の中でもその理屈は解明されていたが、現在の技術では、時と地点の座標を正確に読むことが難しく、まだ実用化するほどの精度は得られていなかった。
「そういえば、呉との戦いで、
私の言葉に、彼は再び目を丸くして振り返った。
「驚いたな。蝕をご存知なのですか。それとも魏では、すでに誰もが知るような現象なのでしょうか」
祖父
しかも、武力で戦うのではなく、自然現象への恐怖心を煽ることで、呉の兵を骨抜きにした戦法であったと、当時魏の知識人の間でもちょっとした話題になったのだ。
だが、蝕がどのような現象なのか詳しく知る者は、この国でもまだ殆どいなかった。
「私の祖父も父も学者でしたので、たまたま幼い頃から耳にしていただけのことです」
私は、思わず祖父の名を伏せてしまった。
彼が祖父と親しくしていたであろうことは想像できたが、祖父の名誉のため、孫が妾に身を落としているなどとは知られたくなかったのだ。
だが男鹿は、そんな私の
「すごいな。だからあなたもそんなに聡明なのですね。できれば、あなたの知識を私に伝授していただけませぬか。祖国の発展のために、役立てたいのです」
彼の意外な反応に、私は頬が熱くなるのを感じ、顔を伏せた。
この国では、女が下手に学問について口を出せば、疎ましがられることが多く、こんな尊敬を含んだまなざしを向けられたのは初めてだったのだ。
「倭国で私が師と仰いだ張政様という方も、土木学や、気象学など、多岐に渡って知識の深い素晴らしい方でした。やはり、魏の学問は倭国の遥か先をすすんでいる」
嬉しそうに祖父のことを語る男鹿の顔を見て、私は少し後ろめたい気持ちになった。
その日から私たちは、男鹿の寝所に篭もり、書物を読み合うようになった。
私は実家に使いを送り、父からあらゆる分野の学問書を持たせてもらった。
それを彼は
驚異的な早さで知識を吸収していく彼の問いに答えるため、私も必死に昔読んだ書物を読み返し、改めて学び直す日々が続いた。
「随分その男に入れあげているようね」
そんなある日、宮廷の庭に腰を降ろし、薬草の名を確認し合う私と男鹿に、皇太后様のおそば付きの女官達が声を掛けてきた。
「噂どおり変わった姿をしている。
男鹿の全身を品定めするように見つめ、女官達は声をあげて笑った。
「まあ、妾のあなたにはお似合いね」
「あら、聞こえたら悪いわよ」
彼女らは、白一色の丈の短い祖末な上着を身につけた男鹿を指差して、再びけらけらと笑った。
「大丈夫よ。言葉が通じないんだから」
そう言って、女官達は乾いた笑い声を上げながら、私たちから遠ざかって行った。
私は、一度はほっと息をついたが、にわかに悔しさが込み上げてきて拳を固めた。
ただ、男鹿に彼女らの言葉が理解できなくて良かったと思った。
「私がこのような姿をしていることで、あなたまで中傷を受けるのですね」
しばらく黙って、うつむく私を見おろしていた男鹿が、小さくつぶやいた。
私は思わず彼の顔を見上げ、息を呑んだ。
「……あなた、言葉……」
「最近、何となく聞き取れるようになってきました」
驚く私に、男鹿は照れくさそうに笑った。
彼がこの地に来て、まだ半月ほどだ。
この間に魏の言葉をある程度聞き取れるようになったなんて、にわかには信じられなかった。
呆気にとられる私に、彼は苦笑しながら言った。
「
魏の衣装を纏った男鹿が宮廷内を歩くと、女達が皆振り返った。
長身に
耳元で結っていた髪も、横髪を頭頂部でまとめたことで、美しい輪郭が際立ち、すれ違う女達の視線を奪った。
それと同時に、女達の私を見る目は中傷から妬みに変わったが、陛下の妾をしていた頃から、そんなことは馴れっこだった。
だからとりあえず、彼が見た目のことで馬鹿にされなくなったことで、私は良しとすることにした。
見た目が変わっても、彼の勉強熱心さに変わりはなかった。
私は相変わらず、彼の寝所に籠もり、昼夜書を読み合う日々を続けていた。
素直に、祖国のためにあらゆる学問を習得したいという彼の力になりたかったのだ。
その後、彼の語学力は飛躍的に上達し、ひと月も経てば、私たちの間で交わす会話も、ほぼ魏の言葉で成り立つほどになっていた。
そうして一日の大半を共に過ごしても、彼が私に触れてくることは、その後もいっさいなかった。
けれど彼の部屋に足しげく通う私を、陛下からあれほど深い
陛下が皇后様のお墓参りから、とっくにお戻りになられていることも知っていたが、弁解する機会さえ与えられない私は、どうすることもできなかった。
皇太后様は、今回のことについて、ご自分が仕組まれたこととは、決して陛下にはおっしゃらないだろう。
留守中突然部屋からいなくなった私を、陛下はどう思われているのだろう。
それを思うと、何か恐ろしいことが起こる気がして、私の中で、不安だけが増していった。
そしてその不安は、最悪の形で的中してしまった。
「随分、様子が変わったものだな。別人のようだ」
朱色の柱が立ち並ぶ宮廷の廊下を、並んで歩いていた私と男鹿を、背後から聞き覚えのある声が呼び止めた。
私たちは立ち止まり、同時に振り返った。
するとそこには、恐ろしい形相で彼を睨みつける陛下が立っていらした。
大きな黒い瞳が一層大きく見開かれ、きつく握られた拳は怒りに震えていた。
そのお顔を目にして、私は全身に恐怖が走るのを感じた。
「皇帝陛下。お久しぶりでございます」
男鹿はみぞおちに右手を添え、笑顔を浮かべて魏の言葉で挨拶し、深く頭を下げた。
彼は陛下と初対面の時、筆談を楽しんだことを思い出し、自分が憎しみの対象になっているなど、夢にも思っていない様子だった。
「魏の言葉も花蓮から習ったか」
陛下は奥歯をぎりぎりと鳴らせて、ますます憎悪に満ちた表情を浮かべられた。
頭を持ち上げた男鹿は、さすがに陛下のただならぬ様子に気が付いたようで、戸惑いの表情を見せた。
張りつめた空気の中、私は恐ろしさに身を縮め、生きた心地がしなかった。
突然、陛下は、後ろに控えていた兵士から
そして、肩を手で抑え前のめりに身を屈めた彼の背中に、繰り返し激しく棍が振り下ろされた。
やがて、頭や腕、足など、場所を選ばず全身を打ちのめされ、男鹿のこめかみや口からは、血が流れ出した。
「陛下! おやめください!」
私の叫び声も、陛下のお耳には入らないようだった。
そこには、両手で頭をかばい、身を丸くする男鹿を、果てなく棍で打ち続ける陛下の恐ろしいお姿があった。
「お願いです! これ以上打てば、死んでしまいます!」
泣き叫ぶ私に気が付かれた陛下は、棍を投げ捨て、今度は私の背を柱に押し付け、首を両手で締め上げられた。
「そなた、もうこの男に心まで奪われたか!」
首を絞めながら、私を凝視される陛下の目に、涙が溢れていた。
私は時折遠退く意識の中、このまま陛下の手に掛かって死ねるなら、それでもいいと思った。
でも、次の瞬間、血を流し、床に倒れた男鹿の姿が目に入り、自分を取り戻した。
(この人を王にして、愛する人のもとへ帰らせてあげなくては……!)
私は陛下の手を掴み、引き離そうと力を込めたが、男の腕力に
その時、私の首にかけられていた陛下の手の力が、ふっと軽くなった。
「落ち着いて下さい。我が君。仮にも倭国の
ふわふわとした意識の中、私が薄目を開けてみると、そこには陛下の手首を握りしめる
寝所に運ばれた男鹿は、それからしばらく気を失ったままだった。
体中いたるところに青あざができ、こめかみの皮膚ははじけ、右目の瞼は大きく腫れて垂れ下がっていた。
私は冷たい水に浸した手拭を、彼の腫れた目元に当てて、涙を流し続けていた。
「……ごめんなさい……」
うつむいて膝の上で手拭を握る私の手に、そっと痣だらけの大きな手が重なった。
顔を上げると、
そして彼は腫れた目で私を見つめ、「気にするな」と言うように、その手に力を込めた。
「あなたの想い人は、皇帝陛下ですね」
「……」
「多分、私はあのお方からあなたを奪ったのでしょう」
そう言って男鹿は、痛みに顔を歪めた。
思わず身を乗り出した私に、彼は無理に笑って見せた。
「……でも、なぜ陛下だと?」
私は、自分の想い人が誰なのか、彼に言ったことはなかった。
皇太后様と対面した時、彼はまだ私たちの会話を聞き取れなかったはずだ。
「皇太后様が女性にじきじきにお話される内容とすれば、陛下に関わることに違いないと思いました。そしてそのあと、あなたが私に王になりたい理由について訊ねてこられた。私はあの時点で、陛下以外にあの話を誰にもしていませんでした。ですからあなたは、陛下から直接お話を伺える間柄であったのだろうと思ったのです」
私は思わず両手で顔を覆い、肩を震わせた。
「ごめんなさい。あなたをこんな目に合わせて……」
男鹿は涙を流す私から、視線を天井に移し、遠くを見つめるような目をした。
「私も、愛する人を奪われかけたことがあります。ですから陛下のお気持ちはよくわかります。私もその時、相手の男を心の底から殺したいと思いましたから」
当時の気持ちがよみがえったのか、彼は眉を寄せて唇を噛み締めた。
同時に彼は、右手で左の胸元の衣を強く握りしめていた。
「……その傷……」
私は先ほど手当をした時目にした、彼の胸の傷を思い出した。
左の鎖骨の少し下のあたりに、比較的新しい、矢が刺さったような傷があったのだ。
私の問いかけに、彼は無意識に手を運んでいたらしく、自分の胸元を一瞬見下ろし「ああ」と小さくつぶやいた。
そして、改めて愛し気に胸元に手を添え、静かに目を閉じた。
「この傷を負った時、あの方は私を身を呈して守ってくださった。私は、あの時のあの方のお気持ちに、一生をかけて報いたいのです」
なんて深い愛なんだろう。
そう思って私は、ふと我が身を振り返った。
私は、はたしてこれほど深く陛下を愛しているのだろうか。
そして陛下は、本当に私を愛して下さっているのだろうか。
男鹿の話を聞いているうちに、私は何を信じればいいのかわからなくなっていた。
「でも、あのご様子では、とても王になることを認めて頂けそうにありませんね」
自問自答を繰り返す私の膝元で、男鹿は天井を見上げ、深いため息をついた。
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