第七話 告白 其の二
庭園で
この数時間の出来事を思い返すと、様々な想いが渦巻き、私はしばしの間呆然と天井を見つめ続けていた。
ふと、傷を負った侍女の容態が気になり、立ち上がりかけた私の前に、役人の衣装を身に着けた一人の老人が現れた。
「どちら様ですか?」
首を傾げる私に、老人は胸まである白髪混じりのあご髭をなで、微笑みながら近付いて来た。
「久しぶりじゃのう、
「……お爺様……?」
まなざしが父に似たその老人は、
「なぜ、このようなところにお爺様が……」
役人である祖父にとって、
できれば距離を置きたい存在であろうに、わざわざ出向いて来るなんて……と、私は不思議に思い、問いかけた。
「私の身の上はご存知なのでしょう?」
「どのような身分であれ、人を愛する気持ちは尊いものじゃよ」
祖父は優しい微笑みを浮かべながら、私に向かい合うように腰を降ろした。
その表情と言葉に、私は驚き、目を見開いた。
「お爺様がそのようなことをおっしゃるとは、思いませんでした……」
最後に祖父に会った時、私はまだ幼く、姿形はうろ覚えだった。
でも、役人であり、学者である祖父には、切れ者で融通の利かない堅物という印象を持っていた。
役人家業を嫌い、学者に徹した父も、そんな祖父を尊敬する反面、恐れていたように思われた。
だが今、目の前で穏やかに微笑む老人は、私の中で思い描いていた祖父像とはまるで別人だった。
「わしも
そう言って祖父は、今度は声をあげて笑った。
「特にあやつ、男鹿に会ってからは、世の中を見る目が変わった」
祖父の口から、男鹿の名が出て、私は一気に胸が詰まり、眉間に皺を寄せた。
「あの人は嘘つきです。倭国では、神の言葉を偽っていたのでしょう? さっきだって……」
口を尖らせて、床に目を向けた私に、祖父は一瞬押黙ったが、ひとときしてふっとため息をついた。
「あの者は確かに時折嘘をつく。じゃが、あの者が偽りを口にするのは、誰かを守りたい時じゃ」
「……」
思わず顔をあげた私を、祖父の細い目が待ち構えていた。
その時、その目から笑みは消えていた。
「あの者が
祖父の問いかけに、私は黙って頷いた。
「邪馬台国の女王である巫女に、神の声が聞こえなかった事も……?」
私が再び頷くと、祖父は大きく息を吐き出し、肩をすぼめた。
「己が可愛ければ、まずそこで
「……」
「相変わらず不器用な奴じゃ」
そう言って祖父は、眉を八の字に下げて微笑んだ。
「邪馬台国の
それから祖父は、静かに語りはじめた。
邪馬台国の女王卑弥呼様の死後、継承順第一位であった皇子
その時、彼の姪である壹与様は、女王となって国を守ることを決意されたのだという。
優れた巫女であった彼女は、それまでも神託を授かり、実質的に国政を担っていたため、当初は大きな不安は感じておられなかったようだ。
だが、当時彼女は月読様に恋をされていた。
無自覚の間は良かったが、その想いに気付かれた時、彼女には神託が聞こえなくなってしまった。
巫女とは、身も心も神に捧げなくては、霊力を失い、神の声が聞こえなくなるものらしいのだ。
その頃の倭国では、神託が社会構造の中心にあり、その全責任は巫女に集中していた。
祖父に言わせると、当時の倭人にとって神託に頼らずに生きるということは、目を塞いで切り立った崖の上を歩くような、計り知れないほどの恐怖であったという。
しかも邪馬台国は、三十もの連合国を束ねる倭国最大の国だ。
霊力を失ったわずか十三歳の少女の肩に、大きすぎる責任がのしかかり、彼女の精神は崩壊しかかっていたらしい。
「そこで、わしは皇族の下働きをしていた男鹿に目を付けたのじゃ。あの者が、幼い頃から密かに壹与様を慕っている事を、人伝えに聞いておったからのう」
祖父は眉を寄せて、唇を噛み締め、一旦言葉を呑み込んだ。
「国と女王を守るには、神託に変わって、魏の学問を政に取り入れるしかない。しかし、倭人に人の声は届かぬ。彼らにとっては、神の言葉だけが絶対であったのじゃ。だから、わしはあの者に言った。おぬしが審神者となり、神託であるとして民に助言し、この国を導けと」
思わず私は、両手で口を塞ぎ、
「それをあの者は受け入れた。倭人にとって、神の言葉を
私は肘掛けに顔を埋め、堪えきれず声をあげて泣いた。
そんな私を、祖父は黙って見守ってくれていた。
「……そして、いつしか彼女も、彼を愛するようになったのですね」
しばらくして、ようやく言葉を口に出せるようになった私は、祖父に問いかけた。
祖父は大きく頷き、少し遠くを見るように視線を移した。
「壹与様のお気持ちに
『ある人と同じ位置に立ちたい』
あの言葉の真意は、これだったんだ。
私は居ても立ってもいられなくなり、部屋を飛び出すと、男鹿の寝所に向かって駆け出した。
新緑の眩しい庭園の中の外廊を駆け抜け、奥まった場所にある部屋へ飛び込むと、いつものように彼は背を向けて書に読みふけっていた。
気配を感じ振り返った彼は、立ち尽くしたまま、激しく息をつく私の顔を少し驚いた表情で見上げた。
「……張政は……私の祖父なの……」
息を切らしながら絞り出すように言う私に、彼はふっとため息をついた。
「知っています。でも、それを聞いたときは驚きました。あなたが張政様の孫娘だったなんて。どおりで賢いはずだ」
そう言って男鹿は、出会った頃と変わらない人懐っこい笑顔を浮かべた。
その顔に、私は今まで陛下には感じたことのない、胸を締め付けられるような感情を抱いた。
「祖父に聞いたわ。壹与様のこと。……あなたのこと……」
再び真顔に戻った彼は、少し寂し気に目を伏せた。
「ごめんなさい。私、あなたにひどいことを言ってしまったわ」
私の涙声に気が付いた彼は顔をあげ、せつな気に微笑んだ。
「あやまることはない。私が神の言葉を偽っていたことは事実ですから」
彼の言葉を聞いて、咄嗟に私は自分でも思いも寄らない行動に出ていた。
机に背を向けて座る男鹿の胸に飛び込むと、両手でその背中を強く抱きしめたのだ。
勢いで仰向けに倒れた男鹿の肩が机に当たり、積まれていた巻物が、床に落ちて四方に転がった。
「……花蓮?」
男鹿は上半身を起こしながら、戸惑いの声をあげた。
その声を遮るように、私は彼の口を唇で塞いだ。
「よせ!」
男鹿は顔を背けて唇を離し、そう叫んだ。
我に返った私は床に手をつき、息の乱れる彼の横顔を、呆然と見つめた。
「今、初めてわかったの。愛するって気持ちが……」
言いながら私は、自分の頬を流れる涙のとめどなさに驚いていた。
「ずっと、陛下のことを愛していると思っていた。でも、こんな感情を、今まで誰にも感じたことはなかった……」
初めて言葉を交わした時から、心の底では予感していた。
彼が愛する人への想いを語った時、共に書を読んで過ごした日々、その時々、私は例えようのないせつなさを感じていた。
だから、陛下に殴られる男鹿を守りたいと思ったし、彼の偽りの過去を知った時、激しく動揺したのだ。
再び陛下と会うようになって、男鹿への想いは錯覚だったのだと自分を
でも、皇太后様のお部屋へ現れた彼の姿を見た時、確かに私の心は震えたのだ。
絶望的な状況の中、その震えを起こさせた感情は喜びだった。
そして、祖父から真実を聞き、彼の女王へ対する絶対的な愛情の深さを知った上でも、溢れる感情を抑えることはできなかった。
「私、あなたを愛してる。あなたの心が、決して私のものにならないことはわかってる。でも好きなの!」
うなだれて泣きながら、私は彼が困惑していることを感じとっていた。
伏し目がちに彼の手元を見ると、握られた拳が小さく震えていた。
「気持ちはありがたいと思います」
随分時間が経って、彼は絞り出すように言った。
「でも、私はあなたの気持ちに応えられない」
そう言って、彼は立ち上がり、部屋から出て行った。
残された私は、散らばる巻物に囲まれ、突っ伏して泣いた。
「……わかってる……」
私は、自分自身に言い聞かせるように、何度もそうつぶやいた。
今はただ、微かに墨の匂いが漂うこの部屋で、気が済むまで泣き続けていたかった。
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