第八話 泥に咲く花
それからしばらく時が過ぎ、季節は夏を迎えていた。
自分の想いを告白してから、気まずさを感じた私は、相変わらず
私が陛下と書庫で会うようになった頃から、祖父
特にする事もなく、無気力に過ごす日々であったが、時折庭園越しに外廊を歩く彼の姿を見かけると、ときめきとせつなさが一気に押し寄せ、私の心を締め付けた。
そんなある日、思いがけず、男鹿の方から私の部屋を訪ねて来た。
彼も気まずさを感じているようで、私たちは向かい合って座ったものの、互いに視線を逸らし、しばらく無言の時を過ごした。
「……今朝、皇帝陛下の遣いの方がいらっしゃいました」
あいかわらず、目線を逸らしたまま、ようやく彼は用件を話しはじめた。
私は床を見つめたまま、こくりと小さく頷いた。
「あなたを再び、
その言葉に私が思わず顔を上げると、彼は言いにくそうに話を続けた。
「新しく皇后様を迎えられることを条件に、皇太后様からお許しをいただいたそうです」
「……行くわ」
私の答えが意外だったのか、彼は目を大きく見開いた。
「……よろしいのですか?」
そう言って向けられた同情するような彼の瞳に、私は激しい苛立ちを感じた。
「ずるいこと言わないで。あなたは私を愛せないくせに」
「……」
乱暴に投げつけられた私の言葉に、彼は再び視線をずらし、言葉を失った。
「陛下はあなた達のように、きれいな水の中にいらっしゃらないの。いつ足元をすくわれるとも知れない泥沼の中を、幼い頃から歩いていらっしゃるのよ。あのお方が道連れを必要とされているのなら、私は喜んで参ります」
強い口調で私がそう言うと、彼はうつむいて目をきつく閉じ、唇を噛み締めた。
そして、私に向かって一礼すると、黙って部屋を出て行った。
間もなく皇帝陛下は、皇后様を迎えられた。
新しくいらした皇后様は、役人である
敬仲様は、先帝に政治の才を認められ、その頃から皇太后様とも深いつながりのあった方だ。
だからこそ、皇太后様はその娘を妃に選ばれたのだろう。
皇太后様の計らいか、
再び陛下の妾に召された私は、宮中のもといた部屋へ戻った。
男鹿の屋敷の粗末さに馴れつつあった私は、久しぶりに目にした贅を極めた部屋の装飾にしばらく落ち着けなかった。
そんな落ち着きのなさも薄らいで来たある夜、陛下が初めて私の部屋へいらっしゃった。
「やはり、この部屋でそなたの顔を見ると落ち着く」
陛下はそう言って、両手で私の体を包み込まれた。
私もそんな陛下の背中を、ぎゅっと抱きしめた。
男鹿へ対する想いとは明らかに違ったが、陛下へ感じる想いも、間違いなく愛しさだった。
それから私たちは、感情のままに愛し合った。
「今回も、そなたを皇后にすることは叶わなかった」
「こうして再び、おそばにいられるようになれただけで、私は満足です」
衣の上からはそうは見えない逞しい胸元に顔を寄せ、私は陛下の横顔を見上げた。
陛下はそんな私の肩を抱き寄せ、泣き出しそうな表情を浮かべて話を続けられた。
「……実は、母上に、皇后を娶らねば、そなたが命を落とすと占いに出たと脅されたのだ」
「占い……」
陛下が呪術を嫌悪されている理由はここにある。
皇太后様は、呪術使いなのだ。
そしてその占い結果を利用して、言葉巧みに人々を操る能力に長けておられる。
「あの女の占いがまやかしなのはわかっている。けれど従わなければ、占いに
陛下は私の命を守るために、皇后様を迎えられることを承諾されたのだ。
私はたまらない気持ちになって、陛下にしがみついた。
『陛下にとって大切なその命を、どうか粗末にしないで下さい』
その時突然、以前|男鹿に言われた言葉が脳裏によみがえった。
同時に浮かんだ彼の面影を振り払うように、私は首を左右に振った。
そんな私の様子に、陛下は何かを感じられたようだった。
「……そなた、あの
陛下が発せられた言葉に、私は目を見開き、息を呑んだ。
「母上の部屋にあの男が現れてから、そなたの目はあやつしか追っていなかった」
私は、急に震え出した全身を抑えようと、自分自身を強く抱きしめた。
けれど、落ち着こうとすればするほど、震えは大きくなり、目から涙が溢れ出した。
すると陛下は、私の体を仰向けに床に転がすと、覆い被さり、両手をおさえて自由を奪われた。
そして、私を凝視するその目は、涙に潤んでいた。
「それでもいい。そなただけは
そう言って陛下は崩れ落ちるように、私の胸に顔を埋められた。
幼子のように泣く陛下の頭を、私は強く抱きしめた。
「私はずっと、陛下のおそばにおります」
それから私たちは、いたわり合うように、いつまでも泣きながら抱きしめ合った。
わずか八歳で皇帝に即位されてから、常に仲達様だけが陛下の味方だった。
身内同士で権力争いに明け暮れる曹家の人々は、幼い陛下を利用し、私欲を満たすことばかり考えていたが、仲達様は、先帝に恩義を感じ、真に魏の国の行く末を憂いておられた。
そのため陛下は、親戚である
そして、だからこそ二年前、仲達様に協力して、曹家を朝廷から一掃し、司馬家に実権を握らせたのだった。
でも、その仲達様が、昨年病で急死され、意志を継いで下さると信じていた長子の
皇太后様に
日に日にそれは、陛下へ対する態度にも顕著に現れ始めており、気を抜けば皇位のみならず、命さえいつ奪われるかしれない状況なのだ。
信頼していた仲達様を失い、誰一人味方のいらっしゃらない陛下は、今、たったお一人で、どこから斬りつけられるかもしれない恐怖に怯えながら、
そんな陛下から離れることなど、私には、はじめからできるはずがなかった。
男鹿に出会って、一瞬澄んだ水の中を泳ぐ、美しい魚に目を奪われかけたけれど、やはり私の居場所は、陛下のおられるこの泥沼の中なのだ。
「あの人と私では、住む世界が違い過ぎます。私のいるべき場所は、陛下のいらっしゃるここにしかありませぬ」
これは愛ではなく、依存と言うのかもしれない。
でも、間違いなく、陛下は私を必要とされているし、そんな陛下を私はお支えしたいと思っている。
同時に、私に関わることで男鹿の周りの澄んだ水を、醜く濁したくないとも思った。
あの人には、純粋に人を愛し、信じる心を持ったまま、母国に帰って欲しい。
だからきっと私は、こうして再び陛下の妾に戻れて良かったのだ。
とめどなく涙を流し続ける私の額に、陛下は口づけし、優しく抱きしめてくださった。
「……ありがとう。……
私も強く陛下の体を抱きしめた。
この時の私の心は、唯一、陛下の肌のぬくもりに救われていた。
ある朝、年若い侍女が、頬を紅潮させて、私の部屋へやってきた。
「奥様、北の池に蓮が咲きました。見に行かれませんか?」
この侍女は、先日書庫で私を庇い、子元様に斬られた娘だった。
肩から背中にかけて深い傷を負ったが、思ったより回復が早く、最近仕事にも復帰したのだ。
突然の申し出に、私が戸惑いながら頷くと、彼女は急かすように手招きした。
「あまり激しく動くと傷が開くわよ。
「早く、早く」と手を振りながら外廊を駆けて行く彼女を、私は笑いながら追った。
いつも艶やかな赤い頬をしてる彼女を、私は紅玉と呼んでいた。
「紅玉待って!」
呼び止めようとそう叫んだ瞬間、宮廷の片隅にある池の情景が、目の前に広がった。
木々に覆われたその小さな沼池には、薄紅色の蓮の花が無数に咲いていた。
うっそうと薄暗くさえあるその場所で、水面を覆う花々は汚れなく輝いて見えた。
私はしばし、その美しさに目を奪われ、その場に立ち尽くした。
しばらくして、ようやく周りを見渡す余裕を取り戻すと、少し離れた池の端で、紅玉が楽し気に誰かと話す姿があった。
私に気付いた彼女が、大きく手を振ると、その人物も振り返った。
「……男鹿……」
私に気が付いた彼は、静かに頭を下げた。
「随分回復したようですね」
池の
「傷を負った直後、あなたが薬を調合して、治療してくれたみたいね。適切な処置だったと、医者も感心していたわ」
「みんな、あなたが教えてくれたことです」
彼の言葉に、私は黙り込んだ。
そして私たちは、沈黙を保ったまま、池を見渡せる石造りの椅子に並んで座った。
「……
池に目を向け、彼は静かにそう語った。
「じゃあ、わかったでしょ。私たちはこれまで、覇権争いという泥沼の中を、足をとられないように、支え合いながら生きて来たのよ。そして、それはこれからもそうなのよ」
そう言って私は、哀しいくらいに美しく咲く花々を見つめた。
「蓮の根は、泥の中に埋もれているそうですね」
ふと、男鹿がつぶやくように言った。
「あなたもそうだ。泥の中にあったとしても、その心はあの花のように、
思わず私は、顔を伏せ、溢れる涙を彼に悟られまいとした。
「男としてはあなたに寄り添えないが、私にできることがあれば、いつでも頼ってきて下さい」
一見優しいけれど、絶望的な言葉を彼は口にした。
でも、そこがとても彼らしいと思った。
ゆっくりと立ち上がった彼は、池の向こう岸を歩く紅玉に向かって、大きく手を振った。
それを見て、少女は遠目にも赤い頬を一層赤くして、全速力でこちらに向かって駆け出した。
「また一人、泣かせそうね」
「……?」
言葉の意味が分からないのか、男鹿は軽く眉を寄せて首を傾げた。
本当にこの人は、自分の魅力に気付いていないのかしらと、私は呆れて涙混じりに笑った。
「女に期待を持たせないところが、唯一の救いだわ。でも、
私がそう言うと、彼は目を見開いて、驚きの表情を浮かべた。
「倭国を出る前、友人にも似たようなことを言われました。時には、希望を持たせてやるのも優しさだろうと」
頭を掻きながら、彼は顔を赤らめた。
「その友人の方が、女心がよくわかっているみたいね。もしかしてその人も、壹与様のことが好きだったりして……」
冗談混じりに私がそう言って笑うと、彼の手が止まり、一瞬で顔から色が消えた。
(あらあら、冗談じゃ済まなかったみたいね)
珍しく動揺した彼の顔を見て、私は苦笑した。
「男鹿様、明日の朝もこちらにいらっしゃいます?」
その時、息を切らせて駆けて来た紅玉(こうぎょく)が、輝く目で男鹿を見上げた。
その瞳は、やはり恋する少女のものだった。
「早起きできたらね」
彼はそう言って優しく微笑んだ。
それを聞いて、紅玉は飛び上がるようにして喜び、私の方へ振り返った。
「奥様、蓮が咲いている間、毎日こちらへ来ましょうよ」
一層目を輝かせる紅玉に、私は小さく左右に首を振った。
「私は遠慮しておくわ。いらぬ誤解をされては、彼に迷惑をかけるから。花が見たければ、あなただけで来ればいいわ」
私の返答に、紅玉は戸惑いの表情を浮かべた。
主人に合わせるべきか、彼に会いたいという気持ちを優先するか、一瞬悩んだのだろう。
(初めて恋する相手にしては、かなり難関よ)
私は心の中でそうつぶやき、蓮の咲き乱れる池をあとにした。
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