第九話 覚悟 其の一

 あっという間に夏が過ぎ、秋が深まるにつれ、子元しげん様を中心に、朝廷内がざわめきはじめた。

 呉の皇帝に、わずか十歳の孫亮そんりょうが即位したことで、敵の内政が晩弱な今こそ、攻撃する好機との声が高まりつつあったのだ。

 そのような空気の中、ちょう皇后様の父である敬仲けいちゅう張緝ちょうしゅう)様は、兵の準備が不十分であるとして、年内の攻撃に反対されていた。

 しかし、普段冷静な子元様が、今回はいつになく事を急いでおられる様子で、早々の出兵を主張され、両者の意見は、どこまでいってもまとまりそうになかった。




「そなたはどう思う?」


 しとねの中で、重いため息をつきながら、陛下は私に意見を求められた。

 陛下はここ数日、敬仲様と子元様の両人から、呉の要所である東興とうこうへの侵攻へ対する決断を迫られ、頭を抱える日々を送っておられたのだ。


「東興の砦は長江ちょうこうの水路に高くそびえ立つと聞きます。呉の兵は水上の戦いに慣れておりますが、我が軍は不慣れです。敬仲様のおっしゃられるとおり、もう少し準備に時間をかけられた方がよろしいのでは……」


 私がそう答えると、陛下は再び大きなため息をつかれた。


ちんもそう思う。だが時が経てば、それだけ呉に猶予を与えることにもなるという、司馬師しばし(子元)の言い分もわからなくはないんだ。兵の数だけで言えば、こちらの方が圧倒的に勝っていることだしな」


「……確かに……」


 陛下の言葉に私は自信を失い、口ごもってしまった。

 今回の侵攻に、どれほどの兵が派遣されるのかはまだわからないが、おそらく数十万の兵が敵地で戦うことになるのだろう。

 陛下の判断によっては、犠牲者の数が大きく変動し、死者が数万人か、それ以上にのぼることも考えられる。

 以前ならこのような時は、仲達ちゅうたつ司馬懿しばい)様が適切な助言をして下さった。

 しかし今の陛下には、頼りになる方もなく、重大な決断をおひとりでくださらなくてはならないのだ。

 それが、どれほどの覚悟が必要なことなのか、私にはおもんばかることしかできなかった。


「戦が始まれば、諸外国への行き来もままならなくなりますね」


 思わず口から出た言葉を閉じ込めるように、私は慌てて口元を手でおさえた。

 そして、陛下がこんなに苦しんでおられる時に、なんてことを口にしているのだと自分を責めた。

 でも、勘のよい陛下は、私の言葉に隠された意図に既に気付いていらした。


「戦が始まる前に、あの男を倭国わこくに帰せと言うのか?」


「……」


 心を読まれ、私はきつく目を閉じ、身を縮めた。

 戦が始まると、混乱に乗じて各地の治安が悪化し、倭国へ渡る事もままならなくなる恐れがある。

 その前に、男鹿おがを帰国させてやりたいとの思いが、つい口から出てしまったのだ。

 しかし、重大な決断を迫られ、苦しんでおられる陛下の前で、そんなことを口にすることは、あまりに無神経だったと、私は自分の軽率さを恥じた。


「そなたは、あの男を愛しているのだろう。ここに少しでも長く、留まっていて欲しいとは思わぬのか?」


 予想に反して、陛下は私に、いたわるようなまなざしを向けて、そう訊ねてこられた。

 その優しさに、私は思わず甘え、留めようとしていた言葉を、涙とともに吐き出した。


「あの人が愛する人は、邪馬台国の女王です。彼女と同じ人生を歩めるように、彼は王になろうとしているのです。どうか王になることをお認めになって、帰国させてやって下さい」


 陛下からすれば、海の向こうの小さな島国の一国の王に誰がなろうと、大きな問題ではないはず。

 でも、陛下のひと言で、男鹿は王として認められ、女王である壹与いよ様と同じ位置に立てるのだ。

 私は陛下の顔を見上げ、重ねて懇願した。


「あの人は、女王にここへ渡る本当の理由も告げてきていないのです。彼女が他の人のものになってしまうその前に、どうかお願いします」


 陛下の胸に額を寄せて、私はうなだれた。

 このような場で、他の男の話をしている自分を、最低な女だと思った。

 でもめかけの私には、このような場でしか、陛下にお願いする機会がないことも事実だった。


「将来への約束も、誓いもなく、愛する者を置いてきたというのか」


 しばらくして、陛下はぼそりとおっしゃった。

 その言葉に陛下の顔を見上げた私は、ぞくりとして息を呑んだ。

 その顔は先ほどまでとはうってかわり、氷のように固く、冷ややかだったのだ。


「……気に入らんな」


 陛下は、無表情に天井を見つめながら、小さな声でそうつぶやかれた。





 宮廷の庭の樹木が色づきはじめた頃、紅玉こうぎょくが青い顔をして私の部屋へ飛び込んで来た。


「奥様! 男鹿様が……! 男鹿様が……!」


 ただならぬ彼女の様子に、書を書いていた私は、思わず筆を置いて立ち上がった。


「紅玉、落ち着いて。男鹿がどうかしたの?」


 私は紅玉の肩を掴み、彼女の目を強く見つめた。

 そんな私を見つめ返す少女の瞳は、涙が溢れ、その口元はがたがたと震えていた。


公休こうきゅう様が、男鹿様を兵達の訓練場へ連れて行かれたのです」


「なんですって」


 公休(諸葛誕しょかつたん)様とは、司馬家の遠縁にあたる武将だ。

 今回の東興への侵攻を、子元様に提案されたおひとりで、詔勅しょうちょくがくだされれば、真っ先に出陣されることになっている。

 戦に備え、公休様の兵達が、宮廷内で鍛練に励んでいることは聞いていたが、そこに男鹿を連れ出したと聞いて、私は血の気を失った。

 学問好きで物腰の柔らかい彼に、武芸など無縁に思われた。

 そんな、どうみても武術向きでない者に、兵達の相手をさせることは、これまでもままにあった。

 しかしそれは、その者が恐怖で逃げ惑ったり、散々に痛めつけられる様子を見て、楽しむためなのだ。

 おそらく以前、男鹿に苦汁を飲まされた子元様が、彼に報復するため、公休様に命じられたのだろう。

 居ても立ってもいられず、私は紅玉と共に、訓練場を目指して駆け出した。





 私たちが訓練場へ着くと、すでに広場を取り囲むように、人だかりが幾重にもできていた。

 その外側でおろおろと様子を伺う私の肩を、何者かが軽く叩いた。

 振り返ると、祖父の張政ちょうせいが、笑みを浮かべて立っていた。


「お前も余興を楽しみに来たか」


「笑い事ではありませぬ!」


 私が思わず声を荒げると、祖父は一瞬、驚いた顔をして押黙った。

 やがて祖父は、私の腕をつかむと、「道を開けろ」と言いながら、人混みの中を突き進んで行った。

 私はもう一方の手で紅玉の腕をつかみ、引きずられるように祖父の後を付いて行った。


 人混みをかき分け、最前列まで出た私の眼前に、広場の中央部に立つ男鹿の姿があった。

 髪を小さくひとつにまとめ、兵士服を着た彼は、右手に木剣ぼっけんを持ち、その場に静かに立っていた。


「徹底的にやってしまえ!」


「倭人に我々の力を思い知らせてやれ!」


 広場をとりまく男達は、拳をあげ、口々に煽るような言葉を発した。

 そんな喧騒などまるで聞こえていないかのように、男鹿は目を閉じて静かにたたずんでいた。


「張政殿ももうろくされたか。あのような若造を、一国の王にしたいなど」


 鎧を身に着け、口ひげをたくわえた中年の男が祖父の存在に気付き、そう言って苦笑した。

 体格が良く、豪快な印象のその武将は、公休様だった。


「まあ、見ておれ」


 不敵な笑みを浮かべてそう言う祖父を見て、公休様はふんと鼻を鳴らし、広場の男鹿に視線を戻した。

 私と紅玉は、恐怖と不安に身を震わせ、抱き合って広場を見つめていた。


 突然、一人の兵士が、木剣を振り上げ、男鹿に襲い掛かった。

 私と紅玉が思わず目を閉じた瞬間、少し離れた場所で、重いものが地に落ちるような、鈍い音がした。

 静まり返った場内を不審に思い、そっと目を開けると、先ほどと変わらぬ位置に立つ男鹿と、その足元に腹を抱えてのたうつ兵士の姿があった。


「……ほう」


 何が起こったのかわからず、戸惑う私の耳に、公休様のため息混じりの声が入ってきた。

 そして次の瞬間、周りの男達が再び騒ぎ出した。


「もっと強い奴を出せ!」


「まとめてかかれ!」


 野次に応えるように、今度は十人ほどの兵士が、すすみ出てきた。

 兵達は、男鹿を円状に取り囲むと、それぞれ木剣を構えた。

 その中心で男鹿は、ゆっくりと兵達に目を配った。

 その目は、今まで見た事がないほど、鋭く光っていた。

 彼の目の放つ力に、その場にいる誰もが息を呑み、あたりに緊迫した空気が立ちこめた。

 兵達に視線を一巡りさせた男鹿は、両手で木剣を握りしめ、腰をおとして構えの姿勢をとった。


「あの構え……」


 そんな男鹿の姿を見て、公休様はあごに手を当て、首を傾げられた。


 それは一瞬の出来事だった。

 背後から迫ってきた兵士が振り下ろす木剣を、身を屈めてかわした男鹿は、そのままの姿勢で、円陣を組む兵達の内側を、風のような早さで駆け抜けた。

 同時に、その手に握られた木剣が弧を描き、兵士らの足を次々と打ち付けた。

 足元をとられた兵達は、ばたばたと転倒し、足を抱えてその場でのたうった。


 上半身を持ち上げ、体勢を整えた彼に、しばし呆気にとられて動きが止まっていた残りの兵士達が、一気に襲いかかって来た。

 次々と迫りくる攻撃を、左右に身を逸らしてかわしたり、木剣同士をぶつけ合ってはね返したりしながら、男鹿は兵達の間をすり抜けていった。

 そのあまりに早い動きに付いて行けず、兵達はその姿を見失い、おろおろと周りを見回した。

 男鹿は、そんな兵士らの背後から近付き、続けざまに彼らの腰や腹、足などを木剣で殴打した。

 そうして気が付けば、全ての兵士が彼の足元に転がり、打たれた箇所を抱えながら、痛みに身を悶えさせていた。

 そんな様子を見て、野次を飛ばしていた男達は息を呑み、しばらく言葉を失っていた。


「こうなったら、全員でかかれ! 真剣で勝負だ!」


 沈黙を破り、誰かが大声でそう呼びかけ、広場を取り囲んでいた男達は、一斉に腰の刀に手をかけた。


「もう余興は終わりだ!」


 その時、公休様の低く響く声が、息巻く男達を静止した。


「わからんか。真剣でその者に挑めば、お前達は間違いなく命を落とすぞ。この者は、あれだけの人数を相手にしても、相手が軽傷で済むよう、手加減するだけの余裕があるのだぞ」


 公休様の言葉に、男達は悔しそうに唇を噛み締め、刀から手を離した。

 それを見届けると、公休様は、今度は男鹿の方へ向き直り、彼を手で招いた。

 それを見て、男鹿はゆっくりと私たちの方へ近付いて来た。

 彼が近付くたびに私の心臓は、激しく胸を打った。

 そしてそれは、抱き合う紅玉の体からも感じられた。


 公休様のそばで立ち止まった男鹿は、静かに肩で息をしていた。

 汗が滲んだ額には、髪が貼り付き、その下の目は、鋭さを保ったまま、公休様を睨むように見つめていた。


「お前のあの構え、見覚えがある。昔、倭国から来ていた、牛利ぎゅうりという男と同じ構えだ」


 公休様がそう言うと、男鹿は目を見開き、ほっと息をついた。


「私は牛利に育てられ、剣術も彼から教わりました」


「なんと! お前は牛利の息子か? どおりで!」


「……いえ、息子では……」


 否定する彼の言葉を耳に入れようともせず、公休様はひとり納得したように、何度も首を上下に振った。

 聞く耳を持たない公休様の思い込みぶりに、男鹿は否定するのを諦め、表情を少し緩めてため息をついた。


「わしは昔、牛利と何度も修羅場をくぐり抜けたのだ。そうかそうか、お前は百人斬りの牛利の息子だったのか。それでは、そのへんの雑魚が束になってかかっても、敵うはずがない」


 公休様はそう言って、豪快に笑いながら、男鹿の肩に腕を回した。

 戸惑い、目を泳がせる男鹿の目が、私の目と合った。

 その瞬間、彼は困ったような表情を浮かべて苦笑した。

 その顔はすでに、いつも見慣れた穏やかなものに戻っていた。

 私がその顔にほっと息をついた時、突然場内がざわめきだした。

 振り返ると、背後を取り囲んでいた男達の波がふたてに分かれて道が作られ、その間を近付いて来る人影が見えた。


「……陛下」


 近付いてくる人影が皇帝であると気が付いた男達は、次々と胸の前で手を重ね、頭を下げた。

 陛下はすれ違いざま、驚く私の顔に一瞬目をとめ、男鹿の正面で立ち止まると、その顔を睨みつけられた。


「お前と一度話がしたい。後ほど宮殿の謁見えっけん部屋へ来い」


 男鹿は緊張した面持ちで陛下の顔を見つめ、少し間を置いてみぞおちに手を添え、深く頭を下げた。


花蓮ファーレン、そなたもだ」


 立ち去りかけた陛下は、一旦立ち止まり、振り返って私にそう言われた。

 戸惑いながら私が小さく頷くと、陛下は再び長衣をひるがえし、人波の間を去って行かれた。

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