第三十一話 形見

 翌朝、いつものように私は朝の検診のため、皇后様のお部屋を訪れた。

 天幕に囲まれたしとねに腰掛け、赤くなった瞳で遠くをぼんやりと見つめておられた皇后様は、私の顔を見るなり泣き崩れられた。


「ごめんなさい。ごめんなさい。あなたを危険な目に遭わせてしまって……」


 額を布団に擦り付け、頭を振りながら泣き続ける皇后様の肩を、私は抱えるようにして持ち上げた。

 身を起こし、濡れた瞳で私の顔を見つめられた皇后様だったが、しばらくすると、たまりかねたように胸に飛び込んでこられた。


「狗奴国王様も、私たちの身を案じて説得に来てくださったのに、あんなことに……」


 ご自分を責めながら泣き続ける皇后様に、私は小さく首を振ることしかできなかった。

 あのあと私は紅玉こうぎょくに、誰も通すなと言っていた個室になぜ男鹿おがを入れたのかと問い質した。


「狗奴国王様なら、皇后様の計画を止めていただけるのではと思って……」


 そう言って顔を覆って泣きじゃくる紅玉に、私はそれ以上何も言えなかった。

 私も一度はそう思い、彼に知恵を借りようかと思ったのだ。

 けれど結局、彼にもあの方々の計画を阻止することはできなかった。


「まさか、父があのようなことを考えているなんて……」


 皇后様は私の背の衣を握りしめながら、震える声でおっしゃった。


『我々はあの方が廃位されようと、そのようなことはどうでもよいのだ』


 あの時、太初たいしょ夏侯玄かこうげん)様が口にされた言葉が、私の頭の中で繰り返し響いた。

 陛下のお立場をお護りするためかと思われていた子元しげん(司馬師)様を失脚させるための計画は、実はそうではなかったのだ。


『司馬師を倒せば、曹家の血を引くしかるべき方に皇位に就いていただくまでだ』


 代々曹家に仕えてこられたあの方々にとって、先帝の養子である陛下はもともと異端児であったのだ。

 そのため、子元様を失脚させ、ご自分たちが権力を握れば、陛下を廃位し、曹家の血を引く方を新たに皇帝の座に据えるおつもりだったのだ。

 そのことを聞かされていなかった皇后様は、陛下のためを思って、これまで父である敬仲けいちゅう様の計画に協力してこられた。

 しかし、例えその計画が達成されたとしても、陛下が廃位に追い込まれると知って、小さな胸の内を激しく乱しておられるのだ。


花蓮ファーレンさん、私、どうすればいいの?」


 子元様と敬仲様、いずれが頂点に立たれようと、陛下が廃位されることは変わりない。

 その事実を知った今、泣きながら何度も問われる皇后様に、私も返す言葉は見つからず、ただ小さな背中を抱きしめることしかできなかった。


 その時、戸口の方からどかどかと室内に入ってくる足音が聞こえて来た。

 天幕をかき分け、そこに現れたのは敬仲様だった。


「お父様……?」


 敬仲様は、皇后様に寄り添う私の顔を一瞥して、舌を鳴らされた。


「今すぐ人払いをしろ」


 面倒そうにおっしゃった敬仲様の言葉に、戸惑いながら私が頷いて天幕の外へ出ると、素早く幕が閉じられた。


「すみませんが、みなさん外してください」


 私が女官の一人にそう伝えると、彼女は不安気な表情を浮かべつつも、室内にいた女官や侍女たちを部屋の外へ出した。

 室内に誰もいなくなったことを確認し、私も外へ出ようとした時、悲鳴にも似た皇后様の声が背後から響いた。


「いや! そんなことできませぬ!」


 尋常ではないご様子に、私は天幕の外側に身を寄せて小声で問いかけた。


「皇后様? どうされました?」


 すると次の瞬間、天幕を払うように開けて、皇后様が飛び出して来られた。

 そのまま私の背中にまわり、衣を掴む皇后様の手は激しく震え、その口元からは嗚咽が漏れておられた。


「お前、まだいたのか」


 天幕から出てこられた敬仲様はそう言って、私の顔を忌々し気に睨みつけられた。

 私は皇后様を背中で庇い、敬仲様の正面に立った。

 唇を噛み締め、意識して強気な表情を浮かべる私を、敬仲様は思い直したように、改めて見下ろされた。


香蘭こうらんができぬなら、お前でもよい」


「……?」


「陛下のお部屋から、着物の袖を持って来い」


 敬仲様の言葉を耳にして、私はあまりのことに息を詰まらせた。

 この言葉から、皆まで言わずとも何をされようとしているのかが想像できたのだ。

 おそらくこの方は陛下の着物の袖を手に入れ、そこに密詔みっしょうを記そうとされているのだろう。

 密詔とは皇帝が密かに下される勅命だ。

 皇帝の印である龍の刺繍の施された袖に血で記されたそれは、そこに書かれた内容が、陛下のめいであるという何よりの証拠となる。


「そのようなもの、何に使うおつもりですか」


 その答えは既に明白であったが、思い過ごしであって欲しいとの最後の望みをかけ、私は震える声で訊ねた。

 すると敬仲様は、目を逸らし、少し言いにくそうに小声でおっしゃった。


「もしもの時は、責任をあのお方に負っていただくのだ」


「いやー!!」


 私の背中で皇后様が叫び声をあげて、その場に泣き崩れられた。


「……なんてことを……」


 身を屈め、皇后様の背中を抱きながら、私は顔だけを敬仲様の方へ向けた。

 この方々は、今回の計画がもし失敗に終わった場合、皇帝の命に従ってのこととして、自分たちの罪を少しでも軽くしようとお考えなのだ。


「いずれにせよ廃位されるお方なのだ。構わんだろ……う……」


 敬仲様の言葉尻が途切れ気味になり、私の背後に向けられていたお顔が一瞬で膠着した。

 異変を感じ私が背後に視線を向けると、そこには陛下が立っておられた。


「陛……下……」


 言葉を失う私の腕の中で、皇后様はもう声さえ出ない状態で、激しい呼吸音だけを発し、陛下のお顔を見上げておられた。


「辛い想いをさせてすまない。香蘭」


 哀し気な表情を浮かべて陛下は小さくそうつぶやかれると、右手を左の袖の中へ入れられた。

 次の瞬間、布が裂ける音がして、引き出された右手には、内着の袖が握られていた。

 薄い白い絹地には、金糸で龍の刺繍が施されている。


張緝ちょうしゅう


 陛下に声を掛けられ、敬仲様はびくりと全身を震えさせられた。


「そなたらをそこまで思い詰めさせたのも、ちんの不甲斐なさゆえだ。これを好きに使えば良い」


 陛下はそうおっしゃって、内着の袖を敬仲様の方へと差し出された。

 敬仲様は両目を見開き、陛下のお顔を見つめ続けておられた。

 その唇は色を失い、がたがたと震えていた。

 私は、白い布を見つめ、小さく首を振りながら、ただ涙を流すことしかできなかった。


 けれど、次の瞬間、陛下の手からその布が消えた。

 同時に、私の腕の中で震えておられた小さな体も消えていた。


「香蘭」


 陛下が声を掛けられた方へ目を向けると、両手の拳を胸元に強く押し当て、うずくまる皇后様のお姿があった。

 そして、その胸に押し付けられた拳には、陛下の内着の袖が握りしめられていた。


「香蘭、それを張緝に渡すんだ」


 陛下は皇后様のそばへ跪き、諭すように優しくそうおっしゃって、正面から肩に触れられた。

 でも、皇后様は袖を抱きしめ、俯いたまま、いやいやをするように何度も首を左右に振られた。

 しばらくそのままの姿勢で、陛下は皇后様の様子をご覧になっていた。


 ふと、嗚咽を漏らしながら首を振り続ける皇后様の体を、陛下が抱き寄せられた。

 陛下の肩越しに、驚いたように涙に濡れた両目を見開く皇后様のお顔が見えた。


「頼む。香蘭。長年曹家のために尽くしてきてくれたこの者たちに、朕はこれくらいのことしかしてやれぬのだ」


「陛下……」


 皇后様の瞼が閉じ、押し出されるように涙が溢れ出した。

 それから皇后様は大きな声をあげて泣き始められた。

 そんな皇后様の髪を、陛下は抱きしめたまま優しく撫でておられた。



 やがて、皇后様の固く閉じられていた両手がゆっくりと開き、陛下の背中にまわされた。

 それと同時に、その手から白い布が床へと滑り落ちた。

 力一杯しがみついて泣かれる皇后様を、陛下も大切な者を守るように強く抱きしめておられた。

 そんなおふたりの様子を、呆然と見つめておられた敬仲様は、はっと我に返ると袖を拾い上げ、それをじっと見つめられた。

 そして、再び陛下の方へ向き直られると、布を握った左手の拳を右手で包み、深く礼をして戸口から出て行かれた。



 堅く抱き合うお二人を残し、私はそっとお部屋から外廊へ出た。

 そうして、外廊の柵に寄りかかるように座り込み、柵に肩と額を押し当てて泣いた。

 このあと、敬仲様はあの袖に血で文字を書き、密詔とされるのだろう。

 それが子元様や皇太后様の目に触れることになった時のことを想像すると、恐ろし過ぎて目の前が真っ暗になった。




「花蓮」


 その後、私は気を失ってしまっていたようだ。

 優しく自分の名を呼ぶ声に目を開けると、目の前に膝をつかれた陛下のお姿があった。

 外廊の柵に寄りかかるように倒れていた私に目線を合わせ、陛下は心配そうな表情を浮かべておられた。


「陛下……」


 意識を取り戻した私に安心されたのか、陛下はふっとため息をつかれた。


「香蘭が気を失うように眠ってしまったんだ。悪いがしばらくそばに付いててやってくれ」


 私は黒く大きな瞳を見つめ、ゆっくりと頷いた。

 すると、陛下は寂し気な笑みを浮かべて立ち上がり、背を向けて歩き始められた。

 思考することを拒否し、頭の中が真っ白になっている私は、ただ呆然とその背中を見つめていた。


 一度はそのまま立ち去られるのかと思われた陛下の足が、ぴたりと止まった。

 次の瞬間、布を引き裂く鋭い音が響き、私はびくりと肩を震わせた。

 そして、驚く私の方へ引き返して来られた陛下の手には、ちぎられた右側の内着の袖が握られていた。


「花蓮」


 そう言って正面に再び腰をおろし、陛下は私の手のひらを開いて袖を握らされた。


「……?」


 私は、袖を渡された理由がわからず、陛下のお顔と龍の刺繍の施された袖を何度も交互に見比べた。


「あの密詔が表に出れば、母上も司馬師も朕を許さないであろう」


 寂し気に微笑みながらそうおっしゃる陛下に、私の心の臓は激しく胸板を叩き始めた。


(これ以上は聞きたくない)


 私は激しく首を振り、袖を陛下の胸元へ押し返した。

 同時に、熱い涙が頬を幾筋も流れ落ちた。

 けれど陛下は、押し返そうとする私の手のひらに強引に袖をねじ込み、それにご自分の手を被せて力を込められた。


「もしもの時の朕の形見として、これを持っていてくれ」


(そんなの嫌だ!)


 陛下は、激しく首を振る私の手を布ごと強く握り、ご自分の額に当てられた。


「頼む。そなたに持っていて欲しいんだ……」


「い……や……」


 うなだれるように頭を下げる陛下を前に、私は首を大きく振り、声をあげて泣くことしかできなかった。

 俯く陛下の目元からも涙がこぼれ落ち、外廊の床に幾つもの丸い染みを作った。

 私たちはそのままの姿勢で、いつまでも泣き続けた。


 やがて、俯いたまま決意を込めたように何度か頷かれた陛下は、すっくと立ち上がり私に背を向けられた。

 そして、黒い長衣を纏った背中は、今度は二度と立ち止まることなく外廊の角を曲がり消えていった。

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