第十九話 皇帝の衷情(ちゅうじょう)

 祖父の話が終わると、私の傍らに座っていた紅玉こうぎょくが、口元を抑えて、身を屈めた。

 あまりに惨い情景を想像し、感受性の豊かな少女は気分が悪くなったのだろう。

 私は彼女の背をさすりながら、祖父の顔を見上げた。


「……だから男鹿おがは……」


「うむ。味方の妨害を働いたのじゃ。その場で斬り捨てられてもおかしくない状況じゃが、あの者によって命を救われた者も多くいたからのう。張特ちょうとくも兵らの反感を恐れ、思いとどまったらしい」


「……」


「奴の処分については、近々陛下が判断を下されるじゃろう。倭国との関係も考慮された上で」


 そう言いながら祖父は立ち上がり、ゆっくりと戸口へ向かって行った。

 私は紅玉の背に手を添えたまま、唇を噛み締めて去って行く祖父の後ろ姿を見送った。





 それから数日後、祖父の言っていたとおり、陛下の御前で、男鹿の処分について討議される場がもたれた。

 

「ひとまず、奴の処分は保留となった」


 討議終了後、私たちのもとを訪れた祖父は、そう言って安堵のため息をついた。

 それでも心配そうに眉を寄せる私と紅玉の様子に、祖父は再び大きなため息をつき、その時の状況を語り始めた。




 役人として立ち会った祖父の前を、上半身を何重にも縄でしばられた男鹿が、ゆっくりと通り過ぎて行った。

 広い謁見部屋の左右には、大臣や諸将たちが整然と居並び、その誰もが異国の罪人を厳しい視線で見送ったという。

 帰還した時と同様、汚れた粗末な衣を身につけ、髪の乱れた男鹿は、それでも、力のある瞳で前方を見据えていたらしい。

 そして、彼の視線のその先には、一段高い位置に置かれた玉座にお掛けになる陛下のお姿があった。

 やがて、陛下の御前で立ち止まった男鹿は、役人に促され、その場に跪き、頭を下げて石造りの床を見つめた。


 まずは、今回の件について調査を担当した役人が、事の顛末を淡々と語った。

 男鹿が、疫病の感染もとを探り出し、兵らの治療に貢献したこと。

 彼の策により、破壊された城壁を修復する時間を稼ぐことができ、絶望的であった今回の戦を勝利に導いたこと。

 子産しさん張特ちょうとく)様のお考えに背き、味方の攻撃を妨害したこと。


 役人の口上が終わると、子産様にかわって出席された仲恭ちゅうきょう毋丘倹かきゅうけん)様に、陛下は意見を求められた。


「この者の行動は許される事ではありませぬ。しかしながら、この者がいたからこそ、戦況が好転したことも事実。どうか寛容なご判断を」


「だが、あのような行為を黙認すれば軍制が乱れる原因となる。ここは厳しく処分するべきでは?」


 仲恭様のお言葉に、間髪入れずに子元しげん司馬師しばし)様が強い口調で反論され、大臣や諸将たちは一斉にうなり声を上げて頷いた。

 そのようなやりとりの中、陛下は肘掛けについた手で顎を摩り、男鹿の目を凝視されていた。


「お前、なぜにあのような行動をした? 処罰を受けるとは思わなかったのか」


 突然、室内に張りのある声が響き渡り、陛下の足元で机を前にして座った書記官がそのお言葉を素早く書きとめた。

 陛下の問いかけに、男鹿は視線を逸らす事無く、まっすぐ正面を見据えて唇を噛み締めた。


「戦なのですから、兵士同士が殺し合う事は仕方のないことだと思っています。しかしながら、病に侵され無抵抗な仲間を戦いの道具にして命を奪うなど、どうしても許せませんでした」


 彼の言葉に、その場に居合わせていた者たちは、皆、眉をひそめて視線を床に落とした。


「あのようなことをしなくても、十分に勝算はあった。国に尽くしたことをねぎらい、安らかな最後を見届けてやることが、共に戦った者としての礼儀でしょう」


 責めるような強い口調で語る彼に、皆一層目を伏せ、表情に苦汁の色を滲ませた。

 皆、彼の言わんとする事はわかっていたのだ。

 戦場でのこととはいえ、想像を絶する惨たらしさゆえに、帰還兵たちも真実を語る事をはばかられたのだ。

 これが戦だと己に言い聞かせつつ、罪の意識を捨てきれない者たちは、男鹿の姿をまっすぐ見つめることができなかったのだろう。


 そんな中、ただお一人、陛下だけが、彼の目をまばたきもせず、壇上からじっと見降ろしておられた。

 そうして、少し距離を置いて向かい合った二人の男は、しばらく睨み合うように互いを見つめていた。

 周りの者たちは、そんな二人の様子を息を呑んで見守った。


「甘いんだよ。お前は」


 沈黙を破って、陛下が吐き捨てるようにそうおっしゃった。

 瞬間、眉を寄せた男鹿は、一層力を込めた目で陛下を見据えた。


「敵に余力を残せば、さらに戦が長引き、新たな犠牲が生まれる。それに、今回命を落とした者たちは、いずれにせよ助かる見込みがなかったのであろう? 兵糧ひょうろうも乏しい中、そのような者たちまで養う余裕はない。兵の命を預かる者として、張特の判断は正しい」


 淡々とおっしゃる陛下のお言葉に、男鹿は目を赤くして、血が出る程に唇をきつく噛み締めた。


「事実、その後敵地でも疫病が流行り、諸葛恪しょかつかく新城しんじょうからの撤退を余儀なくされた。敵にとっても後のない戦いであったのだ。諸葛恪自身が深手を負ったとはいえ、張特の作戦がなければ、尚も踏みとどまった可能性がある」


 ここで初めて男鹿は、こうべを垂れ、床に視線を落としたという。

 それを見て陛下は、視線を室内に巡らせ、一層声を張り上げておっしゃった。


「新城の守将しゅしょう張特には、その功績を認め、雑号将軍ざつごうしょうぐんの地位を与える」


 陛下のお言葉に、男鹿を除く室内の者たちは、一斉に安堵のため息をつき、頭を下げた。

 それから陛下は、うなだれる男鹿をしゃくで指し、続けておっしゃった。


「今この者を処分すれば、兵たちの反感を買う可能性がある。今しばらくは牢へ。この者の処分は状況が落ち着くのを待って改めて下す」


「解散!」


 陛下のお言葉が終わるのを待って子元様がそうおっしゃると、閉じられていた鉄の扉が開き、暗かった室内に一気に陽の光が差し込んだ。

 玉座から立ち上がり、脇にある戸口から陛下が出て行かれると、室内にいた者たちは小声で言葉を交わしながら出口へと向かって行った。

 それに少し遅れて、役人に促された男鹿も、ゆっくりと立ち上がった。

 彼のそばへ近づいた祖父は、力を無くした横顔を厳しい表情で見つめた。


「馬鹿者が」


 同情を込めて祖父がそう言うと、彼は一層悔しそうに唇を噛み締めた。

 その瞳は赤く染まり、悔し涙が滲んでいたという。

 そうして、役人に縄で引かれ、謁見部屋を出て行く男鹿を見送る祖父の背後から、声を掛ける者があった。


「陛下が?」


 声を掛けてきた男の話を聞き、祖父は少し驚いたように目を見開いた。

 そして祖父は慌てて既に戸口付近まで進んでいた男鹿と、彼を取り囲むように歩く役人や兵士の一行を呼び止めた。





 謁見部屋から祖父は、男鹿と彼を引き連れる役人や数人の兵と共に、人気の少ない外廊を歩いていた。

 通常、地下牢へ行くには遠回りとなるこの道を、通るよう指示されたのは、誰でもない陛下であったのだ。


「待て」


 その途中にある小さな池に差し掛かったところで、祖父は前を歩く一行を呼び止めた。

 その声に立ち止まった男鹿が祖父の視線の先に目を向けると、遠巻きに侍従を従えた陛下が、背を向けて立っておられるのが見えた。

 ところどころ雪が積もった池の端で、陛下は鯉に餌を与えておられたという。

 祖父は役人から縄を預かると、陛下のいらっしゃる側の柵まで男鹿の背を押して行った。


「お前には、本音と建前というものを学ばせる必要があるな」


 鯉に餌を撒きながら、陛下は背を向けたままおっしゃった。

 土手を下った場所にある池から見れば、外廊は橋のように見える。

男鹿は不思議そうな表情を浮かべて陛下の後ろ姿を見下ろしていた。


「あの場合、張特の判断は最善であった」


 再び同じ言葉を耳にした男鹿は、少し口を尖らせて陛下から視線を外そうとした。

 そんな彼を縛る縄を軽く締め上げ、祖父は再び、陛下の方を向くように促した。


「皇帝の言葉は絶対だ。私情を挟んで判断を誤っては、統制ははかれぬ」


 相変わらず面白くなさそうな表情を浮かべ、男鹿は少し軽蔑を含んだような目を陛下に向けていた。


「だが、今はちんの言葉を書きとめる書記官はいない。ここで朕が語ったことは記録には残らぬ」


 そう言って、餌をすべて池に撒き、手を軽くはたかれた陛下は、向き直り、男鹿を見上げられた。

 陛下の背後では、無数の鯉が餌を求めてばしゃばしゃと水音を立て、いくつもの丸い口が浮き沈みした。

 外廊に立つ男鹿の足元まで近付かれた陛下は、はっきりとした口調でこうおっしゃった。


「朕の兵の命を救おうとしてくれたこと。心より感謝する」


 その瞬間、男鹿の瞳が見開き、陛下のお顔を凝視した。

 呆然と立ち尽くす彼から、祖父に視線を移し、陛下は顎を進行方向に向かって軽く振られた。


「さあ、行くぞ」


 陛下の意図を読み、頷いて見せた祖父は、男鹿の背を軽く叩き、再び歩き始めるよう促した。

 祖父に背を押された彼は、前進しながらも何度も振り返り、陛下の姿をいつまでも見つめ続けていたという。






「朕の顔に何かついているか?」


 その夜、久しぶりに部屋にいらした陛下は、怪訝顔で私を見つめられた。


「……いえ」


 私は、知らぬ間に陛下のお顔に見とれていた自分に気付き、慌てて視線を外した。

 幼い頃から見慣れてきたはずのお顔なのに、昼間祖父からの話を聞いたあとお見かけすると、なぜか、まるで初めて出会った人のように感じられたのだ。

 顔を背け、熱くなった頬を抑える私に、陛下も少し戸惑っておられるご様子だった。


「陛下はやはり皇帝なのですね」


 思わず口から出た稚拙な言葉に恥ずかしくなって、一層熱くなった頬を見られぬよう、私は顔を伏せた。


「何を言ってる」


 吹き出しながらそうおっしゃった陛下は、背中から優しく抱きしめてくださった。

 そして私の髪に顔を埋めて大きく息を吸い込み、ゆっくりとそれを吐き出された。


「いっそ、すべてを捨て去りたいと思う時もある」


 そのお言葉に体を翻し、今度は私が陛下を強く抱きしめた。

 ずっとおそばにいながら、私はこの方の何を見てきていたのだろう。

 否応無しに与えられた皇帝という立場を、運命として受け入れ、この方はそれらしくあろうとずっと努力されてこられたのだ。

 本音を押し殺し、お立場上、意に反する判断も、これまで下されてこられたに違いない。

 時には非情と思われるような判断であっても、国のため、民のため、心を鬼にして。

 そして、その蔭で人知れず涙を流してこられたのだろう。

 そう思うと、目の前のこの方が愛しくてたまらなくなり、私は背中にまわした腕に一層力を込めた。


花蓮ファーレン


 ふいに、胸元で陛下が優しく私の名を呼ばれた。


「もう少し、朕のそばにいてくれ……」


 自分の頬を濡らす涙の理由もわからず、私はただ何度も頷いて陛下の髪に頬を寄せた。

 この時の陛下のお言葉の意味にも気が付かぬまま……。 

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