第十八話 鬼畜な所行
事情がわからない私は、侍女らに、帰還兵からそれとなく何があったのか探って来て欲しいと頼んでみた。
彼女らは炊事の際、井戸に水を飲みにくる兵士らと出くわす機会が少なくないからだ。
しかし、他愛のない話をしている間は談笑していた兵士らが、ひとたび男鹿のことに話が及ぶと、とたんに表情をこわばらせ、逃げるようにそそくさと去って行くというのだ。
「いったい何があったというのでしょうか。誰も何も語ろうとはしないのです」
紅玉はそう言ってぺたんと床に座り込み、大きくため息をついた。
彼女もここ数日、兵らの後を追って奮闘してくれたのだが、結局真実を聞き出せずにいたのだ。
「お爺さまにお伺いする他なさそうね」
私は祖父のもとへ遣いを送り、私の部屋まで来て欲しいとの旨を伝えた。
そして、その数日後、祖父は少し疲れた表情をして、私のもとへやってきた。
「
そう言って、祖父は顎髭を握りしめ、うつむきがちに眉をしかめて見せた。
しかし、新城で戦ってこられた
そのよしみで、今回の新城での様子を聞き出すことができたのだろう。
仲恭様は、陛下の父帝であられる明帝様の時代、農地の管理を任されておられた有能な武人だ。
だが、明帝様に異を唱えられたことで、
それでもその才腕と見識をかわれ、今だに戦の際には軍師としてたびたび呼ばれておられるのだ。
男鹿が新城に到着したその時、まさに砦の外壁の一部が呉によって破壊され、城内には諦め混じりの緊張感が走っていたという。
そんな中、疫病の治療をするため派遣されてきた男鹿は、丁重に迎えられ、仲恭様のお部屋へ通された。
目の前に現れた細身の青年を見て、仲恭様は、「戦力にはならんな」と思われたそうだ。
だがそこで、公休様から彼について聞かされていたことを思い出し、おもむろに問いかけられたという。
「お前のことは、諸葛誕から聞いている。なかなかの策士だそうではないか。お前なら、この危機をどう切り抜ける?」
いきなりの問いかけに、しばらく考えを巡らせた男鹿は、臆することなく、逆に仲恭様に問い返した。
「崩れた城壁を修復するには、何日を要しますか?」
「……? そうだな。七日もあればなんとかなるであろう」
「妙なことを聞く」と、仲恭様は首を傾げてそう答えられたという。
「だが、呉からの攻撃を妨げることで手一杯で、とても修復などできる状況ではないぞ」
仲恭様は少し落胆したように苦笑いされ、ため息混じりにそうおっしゃった。
所詮、世間知らずの的外れな戯れ言だと思われたのだろう。
「それなら、このような策はいかがでしょう」
興味がなさそうに顎を掻く仲恭様を気にも留めず、男鹿は己の考えを語りはじめた。
最初は頬杖をつき、薄目を開けて適当に相づちを打っておられた仲恭様だったが、彼の話が進むにつれ、徐々に身を乗り出し、目を剥き出すようにして聞き入っていかれたという。
「面白い。だが、果たしてそううまくいくかな」
説明が終わる頃には、腕を組み大きく何度も頷いておられた仲恭様は、ふと青年に探るような視線を投げ掛けてそう訊ねられた。
「長期間に渡る戦いで、諸葛恪も限界を感じているはず。おそらく、この話に乗ってくるでしょう」
迷い無くきっぱりと言い切った男鹿に、少し驚いた表情を見せておられた仲恭様は、ふっと笑みを浮かべ、そばにいた兵に命じられた。
「
それから間もなく、呉の
使者は新城の
そこにはこう書かれていたという。
「魏の軍令では、百日間城を守れば、例えその後投降したとしても咎められることはない。あと十日でその百日となる。その日がくれば投降する
普段の諸葛恪であれば、「時間の無駄だ」と一蹴したかもしれない。
しかし、九十日にも及ぶ長い戦いで兵は疲弊しきっており、周囲の反対を押し切ってこの戦に臨んできた彼には、もう後がなかった。
そんな中で届いた魏からの申し入れは、まさに渡りに船と受け止められたのだ。
「ただじっと十日待つだけで、不戦勝できる」
そう思い、ほくそ笑んだ諸葛恪は、魏の申し入れを受け入れ、それ以後十日間、攻撃を仕掛けないとの誓いの書状を魏軍に返したという。
呉からの攻撃がぴたりとやんだ新城の中では、密かに城壁の修復作業が始められた。
敵に気付かれぬよう、息を殺すように作業は進められ、同時に城壁の内側には投石車(てこの原理を用いた投石装置に車が付いたもの)が呉軍に向けて並べられた。
その頃、男鹿は疫病にかかった兵たちの症状から、それが血液を介して感染する病であることを突き止めていた。
傷口からの流入はもちろん、乾いた血が粉塵と化したものや、血の混じった砂を体内に吸い込むことでも感染することに気付いた彼は、城内に残った血痕や砂を徹底的に洗浄することを兵らに命じた。
そして自らは、口と鼻を布で覆い、革の手袋をつけて患者の治療にあたった。
この病は、感染力は強いが、症状は比較的軽く、体力が回復すれば自然に治癒する者も少なくなかった。
彼の手当によって治癒した者たちは、深く感謝し、彼を慕い治療を手伝う者もいたらしい。
だが、長期間の戦いで体力を著しく消耗し、合併症を起こした者や、処置が間に合わなかった者の中には、治療の甲斐もなく、命を落とす者もあった。
その場合、病原となるため遺体は地中深くに埋められた。
こうして、約束の十日後を迎える頃には、城壁はすっかりもとの状態に戻り、多くの感染者が治癒していたのだ。
百日目の夜明け前、諸葛恪は馬上で、新城の城門が開くのを、今か今かと待ち構えていた。
その扉が開き、敵の武将が投降してくる瞬間をしっかりと見届けようと、まだ暗い内から目を凝らしているのだが、敵は一向に動く気配がない。
やがて白々と夜が明け始め、彼の背後に居並ぶ武将や兵たちも、少しずつ不安を覚え始めていた。
「妙に静か過ぎないか?」
そんな疑問がよぎった時にはもう遅かった。
朝日が昇るのに伴って、無数の
それらはいずれも、まっすぐ呉軍のいる方角に向けられていた。
「ひけー!!」
敵が投降してくると信じ込み、城に近付き過ぎていた呉軍は、慌ててその場を立ち去ろうとしたため、兵や馬が入乱れて騒然となった。
そんな彼らの背後から、雨のように矢が浴びせられた。
「おのれ、はかったな!」
逃げ惑う兵らの波に紛れ、馬上で舌打ちした諸葛恪は、忌々し気に敵の城を見上げた。
その瞬間、彼の額に一本の矢が突き刺さった。
「とうとう始まったな」
一斉に沸き起こった怒号や矢の放たれる音を耳にして、男鹿は戦闘が始まったことを悟った。
だがその後も、彼は手を休めること無く、淡々と兵らの治療を続けていた。
感染が広がらぬよう、城内の端に建てられた祖末な小屋に集められた病人たちは、
床を覆い尽くすように横たわる病人たちの隙間を歩き、彼はひとりひとりの病状を確認し、必要な処置を施していた。
苦しそうに息をする者があると、手袋を外して手を握り、励ますこともあったという。
突然、扉が大きく開け放たれ、鎧兜に身を包み、鼻と口を布で塞いだ兵らが、小屋の中にどかどかと入ってきた。
一瞬、敵がここまで侵入してきたのかと、誰もが顔を強ばらせたが、身につけた鎧から味方の兵だとわかり、皆安堵のため息をついた。
「何事だ?」
強い口調で問いかける男鹿に、兵らの
「重篤な者を出せ」
男鹿がその問いに答えず、黙って男を睨みつけていると、兵のひとりが、治療の手伝いをしていた男に剣先を向けた。
「ひいい!」
「重篤な者はどこにいる!」
剣先を眉間に突きつけられ、男はその場に腰を抜かしたように座り込み、震える手で小屋の奥の一角を指差した。
それを確認すると、兵らはそこに寝かされた病人のそばへ近付き、やせ細った体を肩に担ぎ上げ、出口へと向かって行った。
「何をするつもりだ!」
そう言って兵の長の肩に掴み掛かった男鹿の後頭部を、別の兵が殴りつけた。
頭を抱えてその場に倒れた彼の霞む目の前を、病人を抱えた兵らの靴が行き交って行った。
しばらく気を失っていた男鹿が、意識を取り戻した時、病人たちや、治療を手伝っていた者たちが彼を心配そうに覗き込んでいた。
「奴らはどこに?」
頭を抱えながら上半身を起こし、そう訊ねる彼に、その場にいる者たちは一斉に涙を流し、肩を震わせ始めた。
「なんてことだ……」
兵たちの計画を聞いた男鹿はこめかみの髪を掻きむしり、突然立ち上がると、全速力で小屋を飛び出して行った。
男鹿が呉軍を見下ろす城壁の頂に駆けつけると、居並ぶ投石車のそばに、膝を折り曲げ、身を丸めた状態で縄でしばられた病人たちが転がっていた。
そして兵士らは、本来であれば岩を入れるはずの投石車の網に、あろうことか病人を入れ、敵地へ投げ込んでいたのだ。
高い城壁の上から敵の兵の足元へ落下した病人の体は、地面に叩き付けられ、赤い血を撒き散らした。
「やめろー!!」
男鹿は、今にも投げ飛ばされそうな病人の体を掴み、網から引きずり降ろそうとした。
そんな彼の動きを止めようと、数名の兵らが一斉に飛びかかってきた。
味方の兵に剣を突き立てる訳にもいかず、素手で払いのけようと立ち回る彼の体に、無数の拳や
それは、新城の守将子産様の命によるものだった。
男鹿の策により、体制を立て直す時間は稼げたが、奇襲を仕掛けるだけでは手ぬるいと感じた彼は、呉軍の中にも疫病を流行らせることを画策した。
血液によって感染する病であると知った彼は、助かる見込みの無い病人を投げ込み、敵にその血を浴びせることを思いついたのだ。
「やめろ! 自分たちが何をしているのかわかっているのか?! 一緒に戦ってきた仲間じゃないか!」
なおも病人を降ろそうと投石車に近付く男鹿を、兵らが折り重なるように抑え込んだ。
そんな彼の目の前で、ひとり、またひとりと、生きた人間が宙に放たれて行く。
「やめろー!!」
血だらけになった頬に涙を流し、兵らの下敷きになりながらも、男鹿はいつまでもそう叫び続けていた。
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