第十六話 知らされなかった真実

 盛夏を直前に迎えた強い日差しの中、私と紅玉こうぎょくはそれぞれ胸に数本の古い巻物を抱え、宮廷内に巡らされた屋根付きの回廊を歩いていた。


 私たちの歩く先には、白髪はくはつを肩に垂らした祖父張政ちょうせいの後ろ姿が見える。

 老人とは思えぬ早い足取りで歩く祖父に遅れをとらぬよう、私たちは小走り気味に必死に後を追っていた。

 やがて、そんな祖父の背中越しの眼前に、木々に覆われた小さな池の情景が広がった。

 それは、約半年振りに訪れた北の池だった。


「あ……」


 その池の水面に浮かぶものを見て、私は小さく叫び、思わず胸に抱えていた巻物を落としそうになった。


「もう、こんな季節なのね」


 冬の日には命の息吹が感じられず、荒涼としていた池の水面には、無数の蓮の花が大振りの葉の隙間を埋めるように、誇らし気に咲いていた。

 うっそうと茂る木々に陽の光を遮られた暗い池で、薄紅色の大輪の花はあの日と変わらず、穢れ無く輝いて見えた。


 ふと、そんな池を臨むように置かれた、石造りの椅子が目に入った。

 私は無意識のうちに瞳を閉じ、そこに座って花を愛でていた線の細い後ろ姿を思い浮かべた。


「あれから一年経つんですね」


 私の隣で紅玉が、その椅子に視線を向けたまま、ぽつりと言った。

 どうやら、彼女の脳裏にも、同じ情景が映っているようだった。





 私が陛下のもとへ再び召されて以来、約一年振りに訪れた男鹿おがの屋敷は、懐かしい匂いがした。

 古い建物が放つ湿気を帯びた木の匂い。

 年代物の書物独特のかび臭さ。

 書をしたためる彼がる墨の匂い。

 そんな愛しくも懐かしい匂いに満ちた粗末な部屋の奥に、机に向かって座る見覚えのある後ろ姿があった。


 机の周りには無数の巻物が、あるものは巻かれたまま、あるものは広げられた状態で、無造作に床を覆い尽くすように散らばっていた。

 黙って戸口から様子を見ていると、彼はそのひとつをてのひらの上で滑らせ、そこに書かれた文字を目で追った。

 やがて、最後まで読み終えた彼は、大きくため息をついて巻物を床に放り出すように置くと、机に肘を付いて頭を抱えた。


「感染源はわかったか」


 祖父が戸口から声を掛けると、男鹿はびくりと肩を震わせて顔をあげ、体ごと私たちの方へ振り返った。


「いえ……まだ……」


 振り返った瞬間、私と目が合った彼は、目を見開いて言葉を失った。

 それから私たちは、しばらく目を合わせたまま、動けなくなった。


「現地に行って詳しく症状を見てみないと、なんとも」


 間もなく我を取り戻した彼は、そう言って、すっと私から祖父のほうへ視線を移した。


「そうか」


 ため息をついて祖父は彼のもとへ近付き、向き合うように腰を降ろした。

 男鹿は文字の記された木札を机の上に並べ、それらを指差しながら、真剣な表情で祖父の顔を見つめた。


「とりあえず、あらゆる症状に対応できるよう、思いつく限りの薬を持っていくつもりです」


「わかった。必要なものを書き記せ。すぐに用意させよう」


「ありがとうございます」


 まるで彼が戦地に行くことが当たり前のように、平然と語り合うふたりの様子に、私はなんとも言えない違和感を感じていた。

 その後も携行する薬や治療器具について、時折笑みさえ浮かべて話す男鹿に、私はたまりかねて強い口調で言い放った。


「どうしてあなたが行かなきゃいけないの?」


 突然部屋に響いた私の言葉に、ふたりの会話がぴたりと止まり、一斉に彼らの視線が私の方へ向けられた。


「あなたにとっては、多少の縁はあってもよその国のことでしょう? なにも命を掛けてまでそんな危険なところへ行かなくても……。あなたほどではないとしても、他に適任者はいるはずだわ」


「奥様……」


 紅玉が腕を引いて私を止めようとして、抱えていた巻物を落とした。

 巻物は四方に散らばってころころと転がり、そのひとつが男鹿のそばで止まった。

 彼はそれを手に取って紐をほどき、さっと中身に目を通した。


「わざわざ資料を持ってきてくれたんですね。ありがとうございます」


 そう言って彼は懐かしい、あの、人懐っこい笑顔を見せた。

 その顔を見て、私は一層抑えきれない苛立ちを感じた。


「祖国に待っている人がいるのに、もしものことがあったらどうする気なの?」


 前回の東興とうこうの戦いは、子元しげん様の命令があったので仕方がないところもあった。

 だが、今回の戦に際しては、陛下も彼を派遣するおつもりはなかったのだ。

 なのに、わざわざ危険な任務に名乗りをあげたという彼の気持ちが私には理解できなかった。

 いや、それだけじゃない。


(行って欲しくない)


 その想いが、思わず彼を責めるような言葉となって私の口から飛び出したのだ。


壹与いよ様のためにも、命を大切にしようと言っていたのに、どうして……!!」


 涙混じりにそう言い、激しく息をつく私の前で、彼はきつく唇を噛み、視線を床に落とした。




 しばしの沈黙のあと、噛み締められて色を失っていた彼の口元から、絞り出されるような低い声が発せられた。


「……いい加減にしてくれないかな」


 彼らしからぬ口ぶりに、私は一瞬息をのんだ。


「あなたが今、支えるべき相手は私ではないでしょう」


 そう言って顔をあげた彼の瞳は、私を軽蔑するように無機質に光っていた。


「最初に言ったはずです。私はあなたには興味がない。それにあなたは陛下の妾でしょう?」


 冷たく言い放つ彼の言葉に、私は思わず両手で口元を覆い、抱えていた巻物をばらばらと床に落とした。


「これ以上厄介事はごめんだ。二度とここには来ないでください」


 眉間に皺を寄せてそう言い、彼は私に背を向けて再び机に向かった。

 私はしばらくその場でわなわなと唇を震わせていたが、いたたまれなくなって身を翻すと、戸口から回廊へと飛び出した。


「奥様!」


 背後で紅玉が呼び止める声がしたが、私は振り返ることも、立ち止まることもできなかった。

 もう、一瞬でも早くこの場から消えてしまいたかった。


「男鹿様、ひどい!」


 遠くで紅玉が、男鹿を責める声が聞こえた。

 私は、手で顔を覆い、泣きながら庭園を囲むように巡らされた回廊を駆け抜け、男鹿の屋敷を後にした。





 北の池まで引き返して来た私は、池のほとりにある石造りの椅子に、寄りかかるようにして泣き崩れた。


「奥様!」


 間もなく、駆け寄ってきた紅玉の小さな体が、私の肩を包み込むように抱きしめてくれた。

 私は、自分より幼い少女の腕の中で、みっともなく大きな声をあげて泣き、彼女はそんな私の体を黙って支えてくれた。

 そんな紅玉の瞳からも、涙はとめどなく溢れ、赤い頬を濡らしていた。



 それからどれだけの時間が経ったのだろう。

 抱き合いながら互いの肩を濡らす私たちのもとに、何者かが近付いてくる気配を感じた。


「お爺さま……」


 紅玉にもたれかかったまま、顔をあげた私の前に、難しい顔をした祖父が立っていた。




「東興の戦いに敗れた折、武将たちを庇った子元様の責任を問う者はいなくなった」


「……」


「そのため、早々の侵攻を決断された陛下おひとりに、十万の兵を失った責任が向けられたのじゃ」


 池を見渡す椅子に、私と並んで腰を降ろした祖父は、静かに語り始めた。

 傍らでは、私の肩を支えながら、紅玉も祖父の話に耳を傾けていた。


「……そんな……」


 私は、胸に拳を押し付けて祖父の横顔を見上げた。


「武将たちを味方に付けた子元様は、これまで以上に陛下を軽んじるようになった。そして、皇后様の父である敬仲けいちゅう様も、自身の進言を却下されたことで陛下を見限ったのじゃ。そのため、今回の新城しんじょうの防衛についての話し合いの場でも、陛下は完全に孤立されていた」


 役人である祖父は、いつも陛下と子元様をはじめとする重鎮たちとの会議に同席している。

 祖父に発言権はないが、その一部始終をその目で見てきたのだろう。


「呉が新城を攻めてくると知って、陛下は兵たちの体力があるうちに徹底的に敵を討てとおっしゃったのじゃ。城を囲まれた状態で、長期戦になれば、兵糧ひょうろうが絶え、命取りになりかねぬからのう。じゃが、そんな陛下のお考えに耳を傾ける者は誰一人いなかった」


 膝の上で握られた祖父の拳が震えていた。

 いつも冷静な祖父の感情的な姿に、私はその怒りの大きさを感じていた。

 きっと、その会議の場で、陛下が受けられた扱いは、想像以上に惨いものだったのだろう。


「あげくに、この疫病騒ぎじゃ。この戦いにも大敗することがあれば、今度こそ陛下のお立場があぶない。子元様の独断で決められたことだとしても、最終責任は陛下にあるからのう」


 祖父はそう言って眉を寄せ、胸まであるあご髭をしきりになでた。

 私は混乱した頭を必死に整理しようとしたが、なかなか考えがまとまらなかった。


『大丈夫だ』


 新城の戦いの動向を案じる私を安心させようと、陛下はいつも優しくそう言ってくださった。

 まさか、あの笑顔の裏に、こんな残酷な現実を抱えていらっしゃったなんて、私はずっとおそばについていながら、少しも気付いて差し上げられなかった。

 そう思うと、自分の愚かさと悔恨の念に胸が苦しくなった。


『あなたが今、支えるべき相手は私ではないでしょう』


 その時、さっき男鹿が言った言葉がよみがえってきた。

 あの時、彼は私に陛下をお支えして、妾としての役目をしっかり果たせと言っていたのだ。

 だとすれば、彼が新城へ向かうことを決意した理由はおそらく……。


「……じゃあ、男鹿は陛下のお立場を守るために……?」


 私の問いかけに、祖父は髭に触れたまま、何度か頷いて見せた。


「でも、なぜ、そこまで……」


 陛下の置かれた境遇に同情はしても、彼にそのお立場を守らなくてはならない義理はないはずだ。

 所詮、彼にとっては異国のこと。

 命を掛けてまで参戦する理由が、やはり私には理解できなかった。

 首を傾げる私の顔を見て、祖父は大きなため息をひとつついた。


「陛下が万が一廃位されることにでもなれば、誰があやつを王として認めてくれるというのじゃ」


「ああ……」


 私は小さく叫んで、再び涙が溢れ出した目元に袖口を当てた。


「壹与様との未来のために……」


 自分の言葉に絶望を感じ、私は頭を抱えて、椅子に腰掛けたまま泣き崩れた。


「奥様……」


 私の肩を抱く紅玉の声も涙に震えていた。


 私はいつの間に期待していたんだろう。

 最初からあの人の心の中には彼女しかいなかったのに。

 もしかしたら、彼の中に少しでも私が住める場所があるのではないか。

 自分でも気付かぬ間に、そんな想いを持っていたのかもしれない。

 でなければ、こんな絶望感を覚えることはないはずだ。


 私は紅玉の小さな体にしがみつき、子どものように声をあげて泣いた。

 紅玉も、私の背にまわした手で衣を掴んで泣き声をあげた。

 いつまでも固く抱き合って泣き続ける私たちを、池に咲く蓮の花は静かに見つめ続けていた。

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