第三十六話 悪なる善
「我々は逃げも隠れもしない。だから手を離せ」
腕を掴む兵士に向かって、陛下は強い口調でおっしゃった。
戸惑う兵士が司馬師の顔を見て判断を仰ぐと、彼は大きく頷いて見せ、それと同時に私たちの両腕は解放された。
「では」
司馬師はそう言って、陛下の前に手を出し、その手を水平に進行方向へと滑らせた。
手の向けられた方向に、陛下は黙って踏み出され、私はそんな陛下の後に続いて歩いて行った。
審議の間へ着くと、私たちはいつものように玉座の脇にある戸口から、中へ入るよう促された。
そうして、一段高い場所に置かれた黄金の椅子に並んで座り、改めて室内を見渡すと、そこには大臣や武将たちが居並び、静かに私たちを見上げていた。
いったい何の審議が始まるのか、知らされないままの私たちは、不安に曇らせた顔を見合わせた。
その時、議会の始まりを知らせる
「これより、陛下の皇帝としての天資(資質)を審議する」
司馬師が口にした議題に、私たちは目を見開き、息を呑んだ。
言葉を失った私たちの正面に司馬師は立ち、手にしていた巻物を広げると、大きく息を吸った。
「ひとつ、今上陛下に置かれましては、既に成人されているにも関わらず、
(ひどい!)
ここ最近、陛下が政務に関わることを、何かと理由を付けて遠ざけていたのは司馬師だ。
なのに、それを理由に陛下を咎めるなんて。
私が肘掛けの上で拳を震わせていると、陛下がなだめるように手のひらでそっと包み込んでくださった。
そんな私たちを、司馬師は巻物から目を離し、上目遣いにちらりと見た。
そして再び書状に視線を落とした彼は、大きく咳払いをして口上を続けた。
「ひとつ、今上陛下は明帝様の
「!!」
思わず立ち上がりかけた私の腕を、陛下の手が掴んで止められた。
悔しさを滲ませる私の顔を見上げ、陛下は眉をひそめて左右に首を振られた。
明帝様がそのような詔を残されたなど、これまで聞いたことがない。
明帝様ご自身が、かつては妾であった皇太后様を正妻に迎えていらっしゃるのだ。
しかも、私に
「先日、父司馬懿の遺品を整理していた折に、こちらが発見されたのです。生前父が、明帝様より預かっていたものでしょう」
司馬師がそう言うと、役人が盆にのせた布片を手にして彼に近付いて来た。
先ほど読み上げた巻物を盆にのせ、かわりに少し黄ばんだ白い布を手に取った司馬師は、それを広げ、高く掲げて見せた。
「こちらには、決して妾を后にすることなかれと書かれております」
遠目にも、その布に金糸で龍の刺繍がなされているのが見てとれた。
皇帝が身につける着物の刺繍は、その代によって意匠が異なる。
その意匠を確認すれば、あの布が先代皇帝の着物の一部であることは、すぐに証明されるだろう。
そしてそうなれば、そこに書かれた内容が、先帝の詔であるとの証になる。
例えそれが、何者かによって作為されたものであったとしても……。
「今上陛下は、色欲に耽り、その挙げ句、かつて妾であった張氏を皇后とされた。このような方が皇帝の座にあれば、世が乱れると考えるが、皆はどうだ?」
ああ。
司馬師は、はじめから陛下を廃位へと追い込む口実にするつもりで、私を皇后に据えたのだ。
そのために、もと妾である私を……。
あまりのことに意識が遠退き、よろめきそうになった私の肩を、陛下が背中から抱くようにして支えてくださった。
「この件に関しては、皇太后様より既に廃帝の指示もいただいている。誰も異論がなければ、陛下に皇位の返上を
司馬師は、隅々にまで響き渡る、ひときわ大きな声でそう言った。
それを聞いて場内にざわめきが起こったが、誰一人、声を張り上げて異論を唱える者はなかった。
騒然とする人々を尻目に、玉座へと近付いてきた司馬師は、不敵な笑みを浮かべて陛下のお顔を見下ろした。
「まことに残念ではありますが」
言葉とは裏腹に、司馬師はにやりと笑った。
「あなた様には皇太后様の命により、
笑いを堪えるようにそう言う司馬師の顔を、陛下は表情を崩すことなく、じっと見つめておられた。
やがて真顔に戻った司馬師は、陛下の耳元に口を寄せ、私たちにしか聞こえない、小さな声でささやいた。
「私も、あなた自身が憎い訳ではない」
その言葉に陛下は眉を寄せ、司馬師の顔を睨むように見つめられた。
「だが、この巨大な国家と国民を
「そんな……!!」
思わず彼に詰め寄ろうとした私の肩を、再び陛下の手が押しとどめられた。
悔しさに唇を噛み締め、睨みつける私の顔に、司馬師は冷めた目を向けた。
「この女のことにしてもそうだ。なぜ、一向に子のできないこの女にこれほどこだわられたのか。愛情はなくとも、他の女に皇子を産ませることはできたでしょう」
「!!」
司馬師の言葉に、私は両手で口元を覆い、肩を落とした。
陛下の妾となって、約八年。
長年寵愛を受けながら、未だ子のできない私は、以前より自分自身の体に疑念を抱いていた。
数年前、医師に診てもらったところ、子が宿りにくい体であると診断され、そのことは陛下もご存知だった。
だからこそ、皇后様が懐妊されたと聞かされた時、激しく心が乱れたのだ。
跡継ぎを残されることが使命でもある陛下のおそばに、私のような者がいることを否定された気がしたのだ。
あの時も、皇太后様に同様のことを言われたが、改めてはっきりと指摘され、胸をえぐられるような想いがした。
「この者以外の者と情を交わすつもりはない」
陛下は司馬師の顔を見上げ、絞り出すような声でおっしゃった。
その声に、司馬師は視線の先をゆっくりと私から陛下へと戻した。
「……それに……」
少しの間があって、陛下は言葉を続けられた。
「破滅へ向かう運命を背負うくらいなら、子など授からなくともよい」
その言葉に、司馬師は呆れたように鼻から大きく息を吐き出し、「はっ!」と声をあげて笑った。
「その女に対する一途な想いや、まだ見ぬ我が子への慈しみは結構だが、それでは曹家は絶え、いずれは国をも滅ぼす。やはり、あなたにこの国は任せられない」
そう言うと、司馬師は突き刺すような鋭い視線をまっすぐ陛下に向けた。
「あなたにとってのその善は、この国にとっては悪だ。今すぐ玉座から降りてください」
司馬師の言葉に、陛下は静かに玉座から立ち上がられた。
「
ふと投げかけられた陛下からの問いに、司馬師は鋭い視線を向けたまま、にやりと口元を歪ませた。
「あの方の役目は、あなたの廃帝を指示されるまで。次期皇帝が決まれば、表舞台からは身を引いていただきますよ。あれほど、国庫を食い潰す女はありませぬからな」
不敵な笑みを浮かべ、淡々と語る司馬師の顔を見て、私は背筋が凍るような思いがした。
この男にとっては、あの皇太后様でさえ、陛下を廃位に追い込むための道具でしかなかったのだ。
「ご安心なさい。いかなる手段を使っても、今の朝廷にはびこる
黙って司馬師の話を聞いておられた陛下は、立ったまま目を閉じ、しばらく思いを巡らせておられるご様子だった。
そんな陛下を、真顔に戻った司馬師は、珍しく見守るような優しいまなざしで見つめていた。
やがて、ゆっくりと目を開けられた陛下は、熱のこもった瞳を司馬師に向けておっしゃった。
「この国と民を頼む」
「……御意」
陛下の言葉に、司馬師はそう言って、最敬礼をした。
深く頭を下げる男の姿を、呆然と見つめる私の肩を陛下は軽く叩かれた。
促されるまま椅子から立ち上がり、私は陛下に続いて玉座を後にした。
審議の間の戸口まで来て振り返ると、司馬師は私たちに向かって、まだ頭を下げ続けていた。
その日の夜のうちに、私は荷物をまとめ、斉の国へ旅立つ準備を整えた。
豪華な着物や冠はもう不要となり、まとめてみれば荷物といっても、笑ってしまうくらいわずかなものだった。
必要最小限を箱に詰め、一息ついた私は、改めて室内をぐるりと見渡した。
皇后になってから与えられたこの部屋は、生前皇后様が使っていらしたお部屋だ。
陛下と皇后様、
ここでは、皆が顔を揃え、声をあげて笑い合った日もあった。
その時の一人一人の顔を思い浮かべ、最初は思いだし笑いしていた私だったが、いつの間にか涙が頬を濡らしていた。
そこに、陛下がいらっしゃった。
涙を流す私に気が付かれた陛下は、黙って私を抱きしめてくださった。
翌日、夜明け前の朝もやの中に、私たちはいた。
古びた粗末な
あとは、十数人の護衛兵のみが、私たちの道連れとなった。
「皇后様、お元気で」
泣きはらした目でそう言う紅玉を、私は包み込むように抱きしめた。
「もう、皇后様じゃないわよ」
苦笑しながらそう言う私の胸に顔を埋め、彼女は
昨日、彼女は侍女として私に同行すると、泣いて訴えてきた。
でも、
「あなたはしっかり勉強をして、立派なお医者様になってね」
涙混じりに言う私に、紅玉は何度も首を縦に振り、袖口で涙を拭った。
「
固く抱き合う私たちの背後から、斉王となられた陛下……いや、殿下が声を掛けてこられた。
丈の短い着物に
殿下は、私たちのそばへ近付いて来られると、紅玉の頭に優しく手のひらをのせられた。
「頑張れよ」
「はい!」
涙を拭きながら、紅玉はそう答え、殿下に向かって深く頭を下げた。
「合格できるよう、わしがしっかり仕込んでおいてやる」
紅玉の背後から、祖父
役人を引退してから、実家に戻っていた祖父だったが、都を去る私たちのことを耳にして、早朝にも関わらず見送りにきてくれたのだ。
「お爺さまも、お体に気をつけて」
以前より小さくなった印象の祖父を目にして、私は思わず両手で顔を覆い、泣き声を上げてしまった。
祖父は、そんな私の肩を優しく撫でてくれた。
それから私たちは軒車に乗り込み、紅玉と祖父、あとは数人の侍女や侍従に見送られ、宮廷をあとにした。
軒車の小窓の
金の
遠い昔、父に手を引かれ、初めてここを訪れてから、私の世界はここの中がすべてだった。
平に磨かれた白い石の上を車輪が転がり、馬車が進んでいくと、前方に黒く巨大な鉄の門が見えてきた。
その門の左右には、果てが見えないほど続く高く白い壁。
あの向こうには、どんな世界が待っているのだろう。
そんなことを考えながら、ぼんやりと外を見ていると、膝に置いた手に、あたたかく大きな手が重なった。
振り向くと、そこには私を見つめる殿下の瞳があった。
その胸に頬を寄せると、殿下は私の髪を優しく撫でてくださった。
「これからは、ただの男としてそなたを愛せる」
その言葉に何度も頷き、涙をこぼす私の肩を、殿下は力強く抱き寄せてくださった。
やがて、目前にそびえる黒い門が、ゆっくりと口を開き始めた。
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