第二十九話 新たな身分
間もなく部屋を移った私は、皇后様付きの医者として働くこととなった。
皇后様のお部屋の近くに用意された広い医室には、診察するための寝台が並べられ、必要となる医療器具や医学書は祖父が揃えてくれた。
そして私には医官の身分が与えられ、祖父と同じ役人として宮廷に従事することとなったのだ。
仕事を始める前、前例がない女の医官に、身なりをどうするかと女官長様に訊ねられたが、私は男の医官と同じ物でいいとお答えした。
医官の着物は、白い木綿地に黒い半襟、黒い帯。
その上に黒い肩羽織りを掛け、頭には黒い頭巾を被る。
男ものの着物に袖を通し、宮中を歩く私に、「もと妾のおとこ女」と嘲笑する者もあったが、余計な装飾が無いため身が軽く、作業がしやすいところが私は気に入っていた。
また、陛下のお部屋にも近い場所に移ったことで、医者とは名ばかりで、妾に戻ったのではとの憶測を払拭するためにも、女を感じさせないこの姿は都合が良かったのだ。
私の助手として共に働くことになった
それから私たちは、祖父について傷を負った兵士らのもとへ出向き、治療方法の手ほどきを受けた。
書物によって、それなりの知識はあるものの、実地経験の乏しい私たちに、祖父は傷ついた兵ら相手に刀傷の縫合や、骨接ぎなどを経験させてくれたのだ。
当初は惨い傷口に、思わず目を背けていた紅玉であったが、最近は随分馴れてきたようだ。
「お嬢ちゃん、可愛いね。俺の嫁になってくれよ」
そんな兵士の軽口にも、傷口に巻いたばかりの
皇后様に仕える女官や侍女たちも、最初は妾であった私に軽蔑するような目を向けていたが、ひとり、またひとりと、体の不調を訴えて来る者が現れ、治療により症状が良くなるにつれ見方が変わり、今では「医官殿」と呼んで慕ってくれる者もある。
こうして、あっという間にふた月ほどの時間が過ぎていった。
「医官様、急患です。お早いご準備を」
そんなある日、午前の仕事を終えた私が窓際から外を見つめ一息ついていると、紅玉がそう言って医室に飛び込んで来た。
彼女はここで働き始めて以来、私の呼び方を変えていた。
私はすぐさま、往診用の治療器具の入った木箱を手に取り、戸口へと向かった。
「怪我人? 病人?」
「怪我です。それもひどい大怪我で……」
患者の症状を聞く私の手から荷物を受け取るやいなや、紅玉は駆け出し、慌てて私もその後を追った。
医室から外廊を巡って皇后様のお部屋の前を通り抜け、なおもまっすぐ駆けて行く紅玉の後ろ姿を見ながら、私は首を傾げた。
「この先にあるのは……」
予想した通り、紅玉が飛び込んで行ったのは陛下のお部屋だった。
戸惑いを感じながらも、彼女のあとを追ってお部屋へ入ると、そこには短めの衣を纏い、幅の狭い
そして、そんな陛下を挟むように、同様の服装をした男鹿と、普段着姿の皇后様が座っておられた。
楽し気に談笑していたお三方は、息を切らせて飛び込んで来た私の顔を一斉に見上げられた。
「
初めて目にする医官姿の私を、陛下は驚かれたように目を見開いて、まじまじと見つめられた。
一瞬、男の恰好をしている我が身に恥ずかしさを感じたが、私はすぐに怪我人を探して部屋の中を見回した。
「どなたがお怪我を?」
「陛下よ。早く診て差し上げて」
皇后様から怪我をされたのが陛下と伺い、私は青い顔をしておそばへ駆け寄った。
「ひどいお怪我と伺いましたが、いったいどちらを?」
全身を撫でるように見つめる私の視線から逃げるように、陛下はお顔を背けられた。
「軽い打撲だ。医者を呼ぶ程のことではない」
「
皇后様がくすくすと笑いながらそうおっしゃると、
なるほど、普段陛下の武術指導は武官が勤めるが、お話の状況から察するに、今回陛下はそれを男鹿に頼まれたようなのだ。
「こやつめ、手加減をせぬからな」
口元を尖らせ、陛下が上目遣いに男鹿の顔を見上げると、彼は一層申し訳なさそうに頭を下げた。
「あら、武官は手加減するから面白くないと、陛下が無理矢理|狗奴国王様に手合わせをお願いされたのでしょう?」
皇后様は今度は声をあげてけらけらと笑われた。
そんな様子から、私はほっと胸を撫で下ろした。
男鹿の剣術が人並み以上に優れている事は良く知っている。
兵に束になってかかってこられても、相手に重傷を負わせぬよう気遣いができる彼のことだ。
陛下はこうおっしゃっているけれど、最大限配慮してお相手をしたに違いない。
しかも、訓練用に使う武器は
大きな怪我をすることはまずないだろう。
安堵のため息をついて紅玉の方に視線を向けると、彼女は軽く肩をすぼめて苦笑した。
急患がいるというのも、私をここへ連れ出すための口実であったのだろう。
彼女は、私と陛下を引き合せるために、ひと芝居打ったのだ。
そして、それを彼女に指示されたのは、おそらく皇后様であろうと思われた。
「軽い打撲でも、早く冷やさなくては腫れがひきにくくなります」
心に余裕を取り戻した私は、桶に冷えた井戸水を汲んでくるよう紅玉に伝え、症状を確認しようと、陛下の袴を少し捲って
すると、陛下は顔を赤くされて唇を噛み締め、天井を見つめられた。
そんな陛下のお顔を見て、私の胸も小さく波打った。
「そうだ。珍しいお菓子があったの。紅玉、水を汲んで来たら奥の部屋に取りに来て」
「はい」
皇后様の言葉に、紅玉は何かに納得したように大きく頷いて明るく答えた。
「狗奴国王様も、手伝ってくださいな」
次に皇后様は、男鹿の方へお顔を向けて、にっこりと微笑まれた。
「え? 私もですか?」
菓子を出すのになぜ自分が必要とされたのか理解できず、男鹿は目を丸くして自身を指差した。
皇后様は、そんな彼の袖を引いて立ち上がらせ、背中を押して戸口へと向かって行かれた。
「皇后め、変な気を遣いおって」
こういう事に関して鈍い男鹿と違い、皇后様が私たちをふたりきりにさせようと気を遣われたことに、陛下はお気付きだった。
私も、当然それには気付いていて、皇后様のお心遣いに密かに感謝していたが、まずは治療に専念しなくてはと、再び陛下の足に視線を落とした。
ひととおり足を診終えた私は、今度は手の具合を診るために、陛下の左手をとって袖を少し捲り上げた。
その瞬間、陛下の右手が私の左手首を強く掴まれた。
驚いて顔を上げると、そこには熱を帯びた陛下の大きな瞳があった。
そのまま、私たちはしばらく互いの視線を絡めるように見つめ合った。
陛下の肌のぬくもりを感じたのは、あの牡丹の花畑でお会いして以来だった。
『この胸に飛び込みたい』
言葉には出せない思いが、私の中に溢れ出した。
見つめ合う陛下の瞳も、同様の思いを語っておられるように見えた。
一瞬、陛下の手に力がこもり、私の体を引き寄せかけた。
でも、次の瞬間、その力は失われ、手首を掴む手が離れた。
「これ以上触れれば、そなたを再び妾に戻してしまう……」
絞り出すようにおっしゃった陛下の言葉に、私は俯いてそっと涙を隠した。
そうだ。
祖父は恩給を返上してまで、私を自由の身にしてくれたのだ。
そして、皇后様が与えてくださった、医官としての身分。
それを無にすることはできない。
思い直した私は、努めて冷静に、陛下の手に視線を戻した。
「最近、皇后の様子がおかしいんだ」
不意に陛下がそうおっしゃった。
「あの者の部屋を、頻繁に
陛下の問いかけに、私の手が思わず止まった。
『陛下のお耳には入れないで』
あの日、皇后様がおっしゃった言葉と、儚気な微笑みが鮮やかに甦り、私の心の臓は激しく胸板を叩き始めた。
しかし、表面上は動揺を悟られぬよう、私は熱心に診察している振りをして、陛下の手に目を配った。
「皇后様は幼くして実母を亡くされていらっしゃいます。その分、父上様とのご関係も深くていらっしゃるのではないでしょうか」
声の震えを必死に抑え、私は視線を下げたままそうお答えした。
「花蓮」
名を呼ばれ、私はやむなく顔を上げた。
そこには、揺らぐ事なく、私をじっと見つめられる陛下の瞳があった。
心を見透かすようなその視線に耐えきれず、私は思わず目を逸らしてしまった。
そんな私を、なおも陛下はしばらく見つめていらしゃった。
「馬鹿な考えをおこさなければよいが……。今後、なにか気が付いたことがあれば、
それ以上、問い詰めようとはなさらなかったけれど、勘の良い陛下のことだ。
私の様子からただ事ではない何かがあると悟られたに違いない。
いっそ、すべてを打ち明けて、陛下にあの恐ろしい計画を止めていただきたかった。
でも、陛下を巻き込みたくないという皇后様のお気持ちも、同じくこの方を愛する女として痛い程理解していた。
「陛下は、普段から皇后様をお名前では呼んでは差し上げないのですか?」
陛下の意識を別の方向へ移そうと、苦し紛れに私はそう問いかけた。
「名前?」
突拍子のない私の問いに、陛下は一瞬目を丸くされた。
「女性は、名で呼ばれると嬉しいものですよ」
以前から、陛下が私の名を呼ぶたび、皇后様が少し寂しそうなお顔をされることには気付いていた。
私が知る限り、陛下は皇后様をお名前で呼ばれることはない。
皇后様はそのことに寂しさを感じておられるのではないかと、常々思っていたのだ。
「ずっと皇后と呼んできたからな……」
そう言って陛下は、少し照れたようなお顔をして目を逸らし、頭を掻かれた。
「医官様、お水を汲んで参りました」
その時、部屋の外から、紅玉の遠慮がちに呼びかける声が聞こえてきた。
「ありがとう紅玉、中まで持ってきて」
私がそう言うと、紅玉は、様子を伺うようにきょろきょろしながら、ゆっくりと桶を抱えて室内に入ってきた。
そして、私と陛下の顔を交互に見て、不思議そうに首を傾げ、そっと床に桶を置いた。
久しぶりの再会に、私たちが感傷に浸っているとでも思い、気を遣っていたのだろう。
距離感を保って向き合う私たちに、彼女は少し拍子抜けしたようだった。
「では、お菓子の用意を手伝ってきます」
桶の水に浸した晒を軽く絞り、陛下の腕に当てる私の淡々とした様子に、彼女は再び首を傾げて、皇后様がいらっしゃる奥の部屋へと消えて行った。
紅玉が去ってから間もなく、皇后様がお部屋に戻って来られた。
皇后様に続いて、男鹿と紅玉、そして、お茶の道具や菓子盆を手にした侍女達も入ってきた。
「陛下のお怪我の具合はいかがです?」
私たちのそばに腰を降ろしながら、皇后様は明るくそうおっしゃった。
「軽い打ち身程度です。ご心配には及びません」
私が笑顔を浮かべてそう言うと、皇后様は胸の前で手を合わせ、嬉しそうに微笑まれた。
「それは良かったわ。では、お茶にいたしましょう」
そうおっしゃって、皇后様は茶器を陛下の方へ差し出された。
「ああ」
陛下は茶器を受け取り、笑みを浮かべてそうおっしゃった。
ふと、そんな陛下のお顔が、赤らみ、表情が瞬時に固まった。
「ありがとう……
陛下がそう口にされた瞬間、皇后様の目が大きく見開いた。
「ふふ。熱いですから、お気をつけて」
そう言って素早く陛下に背を向けられた皇后様の瞳から、光るものが舞ったような気がした。
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