第三十話 四面楚歌

 陛下のお部屋でお菓子を戴いた私は、午後からの診療に備えるため、足早に医室へと引き返していた。

 紅玉こうぎょくは、皇后様と楽し気に話を続けていたので、診察が始まる時間までゆっくりしてくればいいと伝えて置いてきた。

 外廊から見える庭の木々は濃い緑で、割れるような蝉の声が辺りを包み込んでいた。


花蓮ファーレン


 不意に背後から呼び止める声が聞こえて、私は立ち止まり振り返った。


男鹿おが……?」


 延々と奥へと続く外廊の赤い柱を背に、少し難しい顔をした男鹿が立っていた。

 私が陛下のお部屋を後にして、随分経ってから追って来たはずなのに、彼に息が上がっている様子はなかった。


「ちょっと、いいかな」


 深刻な面持ちを崩さずそう言う彼に、私は戸惑いながらも小さく頷いた。

 ゆっくりとそばまで近付いて来た彼は、外廊の柵へ肘を置き、緑の木々を見上げた。


「皇后様は、何か恐ろしいことをお考えではないか?」


 先ほど陛下から受けたものとほぼ同じ質問を、男鹿も投げかけて来た。

 私は胸元の衣をぎゅっと握りしめ、震えを抑えて無理に笑って見せた。


「……さあ。どうして?」


「紅玉がさっき、他愛の無い話をしながら皇后様の顔を見つめて涙ぐんでいたんだ。皇后様は以前、皇太后様に挑発的な発言もされていたし、嫌な予感がするんだよ」


 皇后様が父である敬仲けいちゅう張緝ちょうしゅう)様とこれからなさろうとしている計画を、紅玉も知っている。

 普段はそのことに触れないようにして、皇后様と努めて明るく接している彼女だけど、ふとそのことを思い出し、思わず涙ぐんでしまったのだろう。

 その瞬間を男鹿に見られたのだ。

 色恋事には呆れるほど鈍いくせに、なぜこの人はこのようなことにはこれほど鋭くなるのだろう。

 心の底まで見透かされそうな彼の澄んだ瞳を見て、私は一瞬、すべてを話してしまおうかと思った。

 彼なら、皇后様の計画を阻止できる知恵を持ち合わせているかもしれないと思ったのだ。


「さあ。あなたの思い過ごしじゃない?」


 けれど次の瞬間、思い直した私は彼に背を向けてそう言った。

 近々彼は陛下から正式に銀印を賜り、その後帰国することも決まっている。

 今更他国の事で、余計な心配はかけたくなかった。


「午後の診療があるから、もう行くわね」


 背を向けたまま、再び医室に向かって私は歩き始めた。






 翌日、珍しく皇后様が自ら医室にお越しになった。

 慌てて私が戸口まで迎えに行くと、皇后様の背後に袖で顔を隠した男の方が三名、控えていらっしゃった。


「父とその親しい方々なの。あなたの腕前を聞いて、持病の診察をしていただきたいとおっしゃるのでお連れしたの」


 そう言いながら、皇后様は私に目配せをされた。

 その様子から、私はこの方々が言葉通りの目的でここに来られたのではないことを悟った。


「奥の個室を使うわ。声を掛けるまで、誰も入れないでね」


 私が紅玉にそう伝えると、彼女もただ事でない空気を感じたのか、真顔で大きく頷いて見せた。

 それから私は、手を広げて奥の個室を指し示し、一行を中へと導いた。

 皇后様は部屋へ入り際、私の顔を見つめ、少し眉を下げて小声でおっしゃった。


「最近、私の部屋へ父が来る事を怪しむ者がいるみたいなの。悪いけど、ここを使わせてね」


 私が無言で小さく頷くと、皇后様は振り返り、あとに続く方々にも目で合図を送られた。

 するとお三方は、合わせた袖口の陰から目元だけを覗かせ、小さく頷くと素早く個室へと入って行かれた。




 戸口を扉で塞ぎ、念のために天幕を引くと、お三方はようやく手を下ろし、お顔を見せられた。


「父の張緝、夏侯玄かこうげん将軍、役人の李豊りほう殿よ」


 皇后様に彼らのお名前を伺い、思わず息を呑んだ私を、敬仲様は訝し気に睨んでおられた。

 この方のお顔は、宮廷内で何度もお見かけしたことがある。

 先日、男鹿と共に罪を問われた時も、審議の間にいらっしゃった。

 痩せ型で常に眉間に皺を寄せておられるこの方に、私は少し神経が細やかそうな印象を抱いていた。


「大丈夫よ。お父様。この方の人柄は私が保障するわ」


 皇后様がそうおっしゃると、敬仲様はふんと鼻を鳴らし、面白くなさそうに私に背を向けられた。


「医官などと偉そうに。もと妾の分際で」


「お父様!」


 詰め寄って反論されようとされる肩に手を置いて、私は皇后様を引き止めた。

 医官の身分を与えられたとはいえ、私が妾であった過去は消えないのだ。

 そのことによって生涯蔑まれるであろうことは十分覚悟していた。

 首を振って微笑む私に、皇后様は唇をきつく噛み締めて思い留まられた。


「張緝殿、あまり長居してはまた怪しまれる。早く本題に入ろう」


 睨み合う父と娘に、太初たいしょ(夏侯玄)様が、存在感のある低い声でおっしゃった。

 陛下の後見人のお一人であった昭伯しょうはく曹爽そうそう)様の親戚であるこの方は、もうお一人の後見人であった仲達ちゅうたつ司馬懿しばい)様にも人物を評価され、可愛がられていたという希有(けう)な方だ。

 既に髪には白いものが目立つ年頃であったが、その鋭い眼光からは、多少の事には動じない意志の強さが感じられた。


「あ……ああ、そうであったな」


 指摘を受けた敬仲様は、少しばつが悪そうに人差し指で顎を掻かれた。

 張りつめていた空気が緩んだ瞬間に、私は机をとり囲むように置かれた椅子へとご一行をご案内した。

 そして私自身は、外の様子に気を配るため、戸口付近に背を向けて立つことにした。


「今朝の朝議での司馬師しばしの態度は、今までになく目に余るものであった」


 椅子に腰を降ろしながら、敬仲様は苦々し気に歯を鳴らし、向かい合う席に座られた皇后様にそうおっしゃった。


「奴め、剣を片手に握ったまま、玉座までのぼってきおったのだ」


 私と皇后様は、思わず声を上げそうになった口元を手で塞いだ。

 玉座の前で剣を携えることは、なんびとであろうと固く禁じられている。

 にも関わらず、それどころか子元しげん様は、剣を手にしたまま陛下のおそばまで近付いていかれたというのだ。

 それはまさに、天子を天子と思わぬ、許されまじき行為だ。

 その上、身の危険を感じて玉座から立ち上がられた陛下に、高笑いをしながらこうおっしゃったという。


「天子が臣下を立って迎えられるとは何ごとですか」


 そんな彼の言葉に、周りの武将達も追随し、その場は冷ややかな笑いに包まれた。

 その笑い声が収まるまで、陛下は黙って耐えておられたという。


 敬仲様のお話に、私は目をきつく閉じ、手で顔を覆ってしまった。

 その時の陛下のお気持ちを考えると、涙が出そうだった。


「おのれ、司馬師め。許さん!」


 安国あんこく(李豊)様が、思わずそう叫んでその場に立ち上がられた。

 だが、隣に座っておられた太初たいしょ様が彼の袖を引き、「落ち着け」と目で訴えられると、怒りに赤く染まったお顔のまま、不満気に再びどかりと椅子に腰を降ろされた。


「やはりあの者を生かしてはおけぬ」


 低い声でおっしゃった太初様の言葉に、私と皇后様は同時にごくりと唾を呑み込んだ。

 その時、突然戸口の扉が開く音がして、驚いた私は一瞬よろめいた。

 体勢を直しながら見上げると、天幕をかき分けて男鹿が入ってきた。




狗奴国くなこく王?」


 外光を背に立つ青年を見上げ、皆一斉に立ち上がった。


「このようなところに集まって、何の相談事ですか?」


 静かにそう言う彼の顔は、逆光により影で覆われていたが、その瞳だけは鋭く光り、室内をくまなく見渡していた。


「持病の診察をお願いしていただけですよ」


 敬仲様は無理に笑顔を作り、苦し紛れにそうおっしゃった。

 だが、その声も、握った拳も隠しようのないほど震えておられた。

 男鹿は後ろ手に天幕を閉じると、ゆっくりと一同のそばへ近付いて行った。

 そんな彼の動きを、誰もが目を見開いて見守っていた。


「司馬師を亡き者にするつもりなら、やめた方がいい」


「なんだと!」


 安国様は男鹿の言葉に逆上し、彼の顔を睨みつけられた。

 そんな安国様のお顔を無表情で見つめ、男鹿は大きくため息をついた。


「やはり、そうなさるおつもりなのですね」


「なぜ、そう思われた?」


 尚も食い掛ろうとされる安国様の肩に手を置き、太初様が鋭い視線を送りながら男鹿に訊ねられた。

 しばらく彼の顔をじっと見つめていた男鹿は、静かに語り始めた。


「夏侯玄殿、あなたは曹爽に近しい親戚だ。にも関わらず、曹爽が誅殺ちゅうさつされた際、あなたを寵愛する司馬懿によって命を救われた。しかし、司馬懿の死後、その息子の司馬師には曹爽との関係を理由にしいたげられている」


 顔色を変えることはなかったが、言葉を失われた太初様のご様子から、彼の見解が間違っていないことが伺い知れた。

 太初様が黙り込まれると、男鹿の視線が安国様へと移った。

 自分に向けられた冷ややかな視線に、安国様は一瞬びくりとして身構えられた。


「そして李豊殿、あなたはそんな夏侯玄殿を慕い、司馬師を失脚させ、この方を大将軍にしたいと考えておられる」


 安国様は歯ぎしりをして、握った拳を震わされた。

 男鹿(おが)はそんな彼に気をとめることなく、今度は敬仲様に視線を移した。


「張緝殿、あなたは言うまでもない。皇后の父でありながら、司馬師にすべての実権を握られ、あの者さえいなければと、常日頃憎らしく思っておられるはず」


 図星を指され、敬仲様はわなわなと唇を震わされた。


「そんなお三方が、身を隠すようにして集い、画策されることと言えばひとつでしょう」


 黙り込んだ男達を尻目に、最後に彼は皇后様のお顔を見つめた。


「皇后様、あなたは命を狙われたことで皇太后様を憎んでいらっしゃる。そして何より、陛下が失脚させられることを恐れていらっしゃる。陛下のためにも、皇太后様と司馬師両名の命を奪おうとお考えなのでしょう」


 男鹿に確信を突かれても、皇后様は毅然とした態度で彼を見つめていらっしゃった。


「異国から来ているあなたには関係ないわ。放っておいてちょうだい」


 吐き捨てるようにそうおっしゃった皇后様の顔を見て、男鹿の眉間に深い皺が刻まれた。


「残念ながら朝廷は事実上、既に司馬師のものとなっております。今更あの者を亡き者にしたところで、武将達も役人もあなた方に従うことはないでしょう。そうなれば、再び権力闘争が始まり、民達が内戦に巻き込まれて苦しむことになります。そのようなこと、陛下は望んでおられませぬ」


 陛下の意に反すると言われ、皇后様のお顔に戸惑いの色が見えた。

 そんな皇后様の心の動きを見逃さず、男鹿はさらに畳み掛けるように続けた。


「司馬師は目的のためには手段を選ばぬ男ではありますが、陛下も彼には上に立つ者としての器が備わっていると認めていらっしゃいます。呉や蜀からの外圧もようやく弱まり、国内が安定しようとしている今、例えご自身は廃位されることになったとしても、この国を委ねることができるのはあの者だけであるとお考えなのです」


「陛下が……」


 男鹿の話を聞いて、そうつぶやかれた皇后様の頬を涙が伝った。

 皇后様をまっすぐ見つめる男鹿の瞳にも、うっすらと涙が滲んでいた。

 ここ数ヶ月、陛下のおそばで過ごしてきた彼は、単に手合わせの相手をしていただけでなく、様々なことを語り合ってきたのだろう。

 だからこそ今彼は、まるで己のことのように胸を痛めながら、陛下のお気持ちを代弁しているのだ。

 ご自分のお立場よりも、民の安泰を願っておられるという陛下の想いを耳にして、私も目頭が熱くなった。


「だから、どこの馬の骨かも知れぬような者に、皇帝の座など与えるべきではなかったのだ」


 その時、太初様の低い声が、信じられない言葉を発し、室内の誰もが一斉に彼の方へ振り返った。


「あの方は先帝の実子ではない。色々調べてみたが、結局誰の子なのかはわからずじまいであった。血縁でなければ、曹家としての誇りを持ち合わせていなくとも仕方あるまい。だからそのような無責任なことが言えるのだ」


「夏侯玄殿、言葉が過ぎますぞ! 仮にも皇帝陛下であらせられますぞ!」


 敬仲様が慌てた様子で進言されたが、太初様はふんと鼻を鳴らし、白髪混じりのあご髭を撫でておられた。


「張緝殿も忘れたはずはなかろう。あの方は四年前、司馬懿殿に言われるままに、曹爽殿に謀反の罪を被せ、身内を皆殺しにしたのだ。真に曹家の血が流れていれば、そのような惨いことができるはずがない」


(違う……!)


 私は心の中で叫んだ。

 陛下はあの時、民の命と生活を守るために、我欲に狂った昭伯そうはく様を、泣く泣く処罰されたのだ。

 だが、太初様の言葉に、敬仲様は押黙り、険しい顔つきで唇を噛み締められた。

 先帝にその才を見いだされ、今の地位に至るまでとなられた敬仲様も、曹家には並々ならぬ恩を感じておられるのだ。


「狗奴国王よ。我々はあの方が廃位されようと、そのようなことはどうでもよいのだ。司馬師を倒せば、曹家の血を引くしかるべき方に皇位に就いていただくまでだ」


「それは本当なの? お父様?!」


 それまで黙って涙を流しておられた皇后様は立ち上がり、敬仲様の胸ぐらを掴んで、大きく揺さぶられた。

 だが、そんな皇后様の必死の問いかけに、敬仲様が答えられることはなかった。


「狗奴国王よ。くれぐれも我々の動きを他言なさいますな。あなたの弱点はわかっておりますゆえ」


 太初様がそう言い終えるのとほぼ同時に、私は何者かに背後から首元に腕を回され、動きを封じられた。

 その腕の主の顔を見上げると、いつの間にか移動されていた安国様だった。

 安国様の右手を見ると小刀が握られ、その切っ先は私の喉元に当てられていた。


「妙な動きをされますと、この女の命はありませぬ。配下の者に常に見張らせておきますので、お気をつけくだされ。もちろん、陛下のお耳にもお入れになりませぬよう」


 不敵な笑みを浮かべてそうおっしゃる太初様の顔を、男鹿は歯ぎしりをしながら睨みつけていた。


「このまま何事もなくしばらく日が経てば、あなたは銀印を手にして倭国くにに帰ることができる。王として多忙な日々を過ごされるようになれば、やがてここでの出来事も遠い記憶の底に埋もれるでしょう。所詮あなたにとっては他国のこと。ここでの残りの日々をどう過ごされるのが得策か、聡明なあなたならおわかりでしょう」


 そのまましばらく、狭い個室の中には、凍てつくような冷たい空気が張りつめていた。

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