第六話 告白 其の一

 その後、私と陛下は、人目を忍んで書庫で頻繁に逢うようになった。

 陛下の遣いの方から知らせを受けると、私は年若い侍女を連れて、書庫へ赴き、彼女に戸口を見張らせた。


 久しぶりの逢瀬は、内密であることも相まって情熱を燃やし、私たちは激しく愛し合った。

 同時に男鹿おがの部屋へ行くことをやめた私を、彼はとがめるどころか、呼び出そうとさえしてこなかった。

 彼が私と陛下のことに、気が付いているかどうかはわからなかったが、何も言ってこない彼に結果的に私は甘えたのだ。

 当然、同じ屋敷内で生活していれば、偶然顔を合わすこともあったが、そんな時も彼は何事もなかったように軽く会釈して、私の前を通り過ぎて行った。






「呉の孫権そんけんが死んだらしい」


 書庫の薄暗がりの中、壁にもたれかかりながら、陛下はふとそうつぶやかれた。


「呉の皇帝が?」


 着物の乱れをなおしながら驚く私に、陛下は哀し気に微笑むと、少し遠くに視線を移された。


「次期皇帝候補の孫亮そんりょうは、まだ十歳だそうだ」


「……」


ちんが即位した年と、あまり変わらぬな」


 寂し気な陛下の表情に私はかける言葉を失い、ただそっと寄り添った。


「所詮お飾りの皇帝だ。実権は大将軍の諸葛恪しょかつかくが握るであろうと言われている」


 魏と対立する国のひとつ、呉では、皇太子が若くして亡くなり、その後長年に渡り、二人の皇子に付いたそれぞれの派閥が、権力争いを続けていた。

 数年前それも、初代皇帝である孫権が両成敗することでようやく収束したが、結果二人の成人した皇子を失い、新たに立てられたのが、幼い孫亮だったのだ。

 幼帝にまつりごとなどできるはずもなく、結局は後見人になる者が実権を握ることになるのだろう。

 陛下にとっての昭伯しょうはく様(曹爽そうそう)と、仲達ちゅうたつ様(司馬懿しばい)がそうであったように。


 ご自分の境遇に酷似した呉の幼帝に、陛下は同情されているようだった。

 私は、陛下の肩に寄りかかり、黙ってその手を握りしめた。


「長年続いた権力闘争で、呉の国力は衰退していると聞く。その上、孫権が死に、跡継ぎが年端のいかぬ子どもとなれば、魏にとってまたとない好機だ。きっと、近く司馬師しばしが動き出すぞ……」


 陛下は私の肩を抱きながら、唇を噛み締められた。





「お待ちください!」


 その時、戸口の外から、見張りに立たせていた侍女の、叫びに似た声が飛び込んできた。


「なぜここを開けさせぬ!」


 侍女の声のあとに、怒鳴るような男の声が響いた。

 私たちは慌てて身なりを整え、乱れた髪を頭に撫で付けた。


「陛下! こちらにおいでですね?」


「……司馬師だ……!」


 扉の向こうから呼びかける男の声を聞いて、陛下が声を殺してそうおっしゃった。

 外から聞こえる野太い男の声は、先ほど陛下が口にされた、撫軍ぶぐん大将軍である子元しげん様(司馬師)のものだったのだ。

 きっと、しばらく姿の見えない陛下を探して、ここを探し当てられたのだろう。


「ああ!」


 突然、侍女の悲鳴とともに、鈍く不快な音が戸口の外から聞こえた。


花蓮ファーレン、奥へ隠れろ!」


 小声でそう言い、陛下は私の体を部屋の奥へ押しやられた。

 私は震えながら、巻物の積まれた戸棚の奥に身を隠し、頭を抱えてしゃがみ込んだ。


 それと同時に、木の扉が開け放たれ、まぶしい陽の光が、暗い室内に一気に注ぎ込んだ。

 恐る恐る顔をあげ、棚の隙間から戸口の方へ目を向けると、背中から陽を受け、仁王立ちする恰幅かっぷくの良い男の影が見えた。

 黒い甲冑に身を包んだその男の足元を見て、私は思わず手で口を覆い、漏れかけた声を抑えた。

 そこには、私が見張りに立たせた侍女が、うつぶせに血を流して倒れていたのだ。

 私よりかなり若い、まだ少女である侍女は、あるじである私を庇って戸を開けることを拒否し、子元様に斬られたのだ。


「陛下、こちらにいらっしゃいましたか。このようなところでいったい何を?」


 人を斬った直後とは思えない穏やかな笑みを浮かべ、子元様は戸口近くにおられた陛下に訊ねられた。

 だが、右手に下げた刀の刃は血に染まり、陽の光に紅く光る雫を落としていた。


「読み返したい資料があったのだ。そなたこそ何用だ?」


 陛下は子元様の進行を妨げるように、彼の正面に立たれ、意識して強い口調でおっしゃった。


「女の匂いがする」


 刀を一振りして血を落とし、鞘に納めると、子元様はそう言って、陛下の肩越しに首を左右に伸ばし、室内の様子をうかがわれた。

 私は戸棚の陰で再び身を縮め、息を殺してきつく目を閉じた。


「探せ」


 不意に背後を振り返った子元様は、部屋の奥に向かってあごを上げられた。

 すると、戸口から武装した兵が数人室内になだれ込んできた。


「何ごとだ!」


 叫びにも似た陛下のお声にも耳を貸さず、兵達はどかどかと部屋の奥へ歩みをすすめ、鋭い眼光を四方に巡らせた。

 私は頭を抱えたまま息を殺し、戸棚の陰でうずくまっていた。


「将軍! おりました!」


 間もなく呆気なく見つけられた私は、兵に後ろ手を掴まれ、引きずられるように子元様の前に突き出された。

 子元様の濃い眉の下の鋭い眼光に捕えられ、私は動けなくなった。


「これはこれは、倭人のめかけではないか」


 私が陛下の妾であった頃には口にした事がないようなさげすんだ口調で、子元様はそう言い、口の端で笑われた。


「このような汚れた者が、よりにもよって皇帝陛下をたぶらかすとは」


 子元様は私のあごを持ち上げると、冷めた目で見下ろされた。

 涙を流し、恐怖で腰が抜けそうな私を、兵は締め上げるように乱暴に支えた。


「違う! 朕がその者を呼び寄せたのだ!」


 必死に食い掛る陛下を無視するように、子元様は兵達に顔を向け、戸口の外を指さされた。


「皇太后様のお部屋へ、その女を連れてゆけ!」


「陛下!」


 泣き叫びながら、私は兵に抱えられるように書庫から外へ連れ出された。


「花蓮!」


 兵の肩に担がれた私の背後で、涙混じりに叫ばれる陛下の声が遠くなっていった。







「まったく、なんという汚らわしい娘じゃ」


 後ろ手に縛られ、突き出された私を、皇太后様は汚いものを見るように眉をひそめられた。


「よりにもよって皇帝陛下を惑わすとは……。しかもそなたは、他の男の妾であろう。主人がある身で情事に興じるなど、なんと罪深い」


 そう言って皇太后様は、扇子で私のあごを持ち上げられた。

 私は、ひきつけを起こしたように乱れた息づかいで涙を流した。

 そんな私の顔を見て、皇太后様は扇子をそのまま振り上げ、横面を思い切りはたかれた。


「花蓮は悪くない! 朕が……!」


 上座に座られた陛下が、腰を持ち上げながら皇太后様に訴えかけられた。

 皇太后様は、事情を聞くためとおっしゃって、陛下もこの場にお呼びになられたのだ。

 そんな陛下の肩を子元様が掴み、席につかれるように促された。

 強い力に抑えられ、やむなく再び腰を降ろされた陛下は、子元様を睨まれ、悔しそうに唇を噛み締められた。


「陛下がこの娘を庇いたいお気持ちはわかりますが、身分をかえりみず行ったこの者の罪は、死にもあたいいたします」


「……やめてくれ……」


「前々からこの娘は、陛下に災いをもたらすと、占いにも出ております。生かしておいては、あなた様にとってよくありませぬ」


 皇太后様に強い口調で言われ、陛下は泣きながら何度も首を左右に振られた。

 私は半分諦めた気分で、首をうなだれた。

 確かに、主人のある身で、陛下と逢い引きするなど、命を取られても仕方がない行為であろう。

 私と陛下は、少し離れた場所で、絶望感に満ちた瞳で見つめ合った。




「この先にはお通しできませぬ!」


 その時、にわかに皇太后様のお部屋の外がざわめき、なにかを制止するような男の声が響いた。


「なにごとじゃ!」


 ただ事ではない騒ぎに、皇太后様は私から戸口の外へ視線を移され、不機嫌そうに叫ばれた。


「……そなた……」


 そうつぶやき、息を呑まれた皇太后様に、私もゆっくりと顔をあげ、戸口の方へ目を向けた。

 すると、そこには、険しい表情で皇太后様を見つめて立つ男鹿の姿があった。


「誰か、やまと言葉がわからぬか。この者に出て行けと……!」


「通訳は不要でございます」


 苛立ちながら室内を見渡す皇太后様に向かって、男鹿は静かに魏の言葉で言った。


「そなた……言葉を……?」


「私のそば付きの者が捕えられたと聞き、失礼を承知で伺わせていただきました」


 驚かれる皇太后様とは対照的に、男鹿は落ち着いた口調で述べた。


「そなたには関係ない。今すぐここを去られよ」


 皇太后様は扇子を開いて口元を覆い、彼を払うように反対の手を振られた。

 だが男鹿は、皇太后様の言葉を聞き流し、室内に入って来ると、私の隣でゆっくりと腰を降ろした。


「この者は私の管理下にある者。罪を犯したとなれば、私も監督不行き届きで咎められてしかるべきかと思い、まずは事情を聞かせていただきに参りました」


 私は驚きのあまり、まばたきするのも忘れ、彼の横顔を見つめた。

 彼は見た事がない無機質な表情で、まっすぐ皇太后様を見つめていた。


「いったい、この者がどのような問題を起こしたというのでしょう」


 かたくなな男鹿の様子に、皇太后様は観念したように大きくため息をつかれた。

 そして次の瞬間、何かをひらめいたように目を見開かれ、紅い唇をぐっと引き上げて微笑まれた。


「この者は、そなたという者がありながら、陛下と書庫で逢い引きしておったのじゃ」


 ああ、もうおしまいだ……と私は、再び大きくうなだれた。

 もしかしたら彼は、私を庇おうとここへ来てくれたのかもしれない。

 けれど、仮にも彼の妾である私が、不貞をはたらいていたと知れば、さすがの彼も裏切りと感じるに違いない。

 案の定、男鹿は一瞬驚きの表情を浮かべて息を呑んだ。

 けれど次の瞬間、彼は目を伏せ、ふっとため息混じりに微笑んだ。


「ああ、それなら誤解です」


 肩を落とす私の隣で、男鹿は明るい声でそう言った。


「私がこの者を書庫に行かせたのです。ぜひ一読したい書がございましたので、持ってきて欲しいと」


 驚いて思わず顔を上げると、彼は背筋を伸ばし、皇太后様をまっすぐ見つめていた。


「……なに?」


「きっとそこに偶然、陛下がいらしたのでしょう」


「嘘を言うでない!」


 皇太后様は怒りに満ちた表情を男鹿に向け、激しく叱責された。

 すると男鹿は、眉間に皺を寄せて、口元を歪ませた。


「自分の妾が不貞を疑われているのに、私に庇う理由があるとお思いですか? まことであれば、私がこの者を殴り殺しています。ただ、つまらぬ誤解でこの者を失いたくないので、真実を申し上げているだけのこと。それとも、私が嘘を言っているという証拠でもあるとおっしゃるのですか?」


 よどむ事なく淡々と話す男鹿に、皇太后様は言葉を失い、悔しそうに唇を噛み締められた。


「この者を捕えた時、陛下はご自分がこの者を呼び寄せたとおっしゃったのだぞ」


 皇太后様に加勢するように、それまで黙って陛下のかたわらに座っておられた子元様が、男鹿を睨みつけながらそうおっしゃった。

 それを聞いて彼は、再び笑みを浮かべ、ため息をついた。


「それは陛下のお優しいお気持ちの表れでしょう。このような場合、身分の低い者が罪に問われることが世の常。ですから咄嗟にご自分が呼び寄せたことにして、この者の罪を軽くしてやろうとそうおっしゃったのでしょう。陛下とこの者の以前の関係を考えれば、そう思われても不思議ではありませぬ。責められるとすれば、あのような場所に、女性だけを向かわせた私の方でしょう」


 そう言って、男鹿は上半身を深く折り曲げ、両手と額を床に付けた。


「たわけたことを……」


 見慣れない倭国風の辞儀じぎに、子元様は戸惑い、悔しそうに舌打ちをされた。

 しばらくして体勢を戻した男鹿は、今度はそんな子元様の方へ向き直った。


「それより子元様、あなた様がこの者の侍女を斬られたとか。この件が誤解であれば、あなた様は、罪の無い少女を傷つけられたことになりまする」


 微かに侮辱を滲ませた視線で、男鹿は子元様を見つめた。


「私を脅すつもりか!」


 子元様は思わず怒りの表情を浮かべて彼を凝視し、腰の刀の柄を握りしめられた。

 瞬間、一気に室内に緊張感がはしった。


「とんでもない。幸い彼女は命を取り留めましたので、我々も事を荒立てるつもりはありませぬ。ただ、年頃の娘の体に、生涯消えない醜い傷が刻まれたのです。せめて、誤解された主人を守ろうとして負った、名誉の負傷であったとなぐさめてやりたいのです」


 哀し気な瞳で訴えかける男鹿に、いつしか形勢は逆転し、なぜか子元様の方が責められているように、私たちの目にも映るようになっていた。

 皇太后様も、子元様も、もう出てくる言葉は無く、お二人とも固く口をつぐんで、異国から来た男を睨みつけていた。


(やっぱり、とんでもない嘘つきだわ)


 助けてもらっておきながら、私は男鹿の涼し気な横顔を見つめてそう思った。


「おわかりいただけたのならば、この者を連れて帰ります」


 男鹿はそう言って皇太后様に向かって深く頭を下げると、立ち上がりながら私に「行きましょう」と声を掛けた。

 そして私の手を縛る縄に目をとめた彼は、再び子元様の顔をじっと見つめた。


「ほどいてやれ」


 彼の意向を読み取った子元様は、悔しそうに歯ぎしりして、近くの兵に吐き捨てるようにおっしゃった。

 兵は戸惑いながら、私に近付き、縄を小刀で切り落とした。

 手が自由になると、私は慌てて立ち上がり、男鹿の背を追った。

 けれどふと背後に視線を感じた私は、振り返り、上座におられる陛下のお顔に視線を向けた。

 陛下は複雑そうな表情を浮かべておられたが、すぐに「早く行け」と、手のひらを前後に振られた。

 それを見て私は頷き、再び男鹿のあとを追った。





「待って!」


 早足で歩く男鹿の後を、小走りするように追っていた私は、息苦しさに足を止めて、彼を呼び止めた。

 宮殿から少し離れた庭園を歩いていた彼は、私の呼びかけに立ち止まり、冷めた表情で振り返った。

 私はその顔を見上げながら、膝に置いた手で上半身を支え、乱れた呼吸を整えた。


「……なぜ責めないの? 私はあなたを裏切っていたのよ」


 一瞬表情を曇らせた男鹿は、次の瞬間ほっと息をついて微笑んだ。


「あなたは望んで私の妾になったのではないし、私もそれを望んだわけではない。それに愛する人と共にいたいと思うのは、自然な感情でしょう。それを私は責めるつもりはない」


 寛容な彼の言葉も、この時の私には偽善に聞こえた。

 そして、穏やかに微笑む彼の顔を見ていると、なぜか例えようのない苛立ちが胸の中に沸き上がった。


「あなたがとんでもない嘘つきだってことは、よくわかったわ」


 思わず私は、苛立ちがむき出しの言葉を彼にぶつけた。


「これで恩を売ったと思わないで。陛下のおそばにいられないくらいなら、私は命を失っても良かったんだから……!」


 吐き捨てるような私の言葉に、男鹿は突然血相を変え、てのひらを大きく振り上げた。


(ぶたれる!)


 一瞬そう感じた私はきつく目を閉じ、肩をすぼめて身構えた。

 衝撃がないまましばらく経ち、そっと目を開けた私の前には、振り上げた震える右手を握りしめ、目を伏せる男鹿がいた。

 やがて、その手を下ろした彼は、深くため息をついた。


「陛下は、ご自分が呼び出したのだと言って、あなたを庇われたのでしょう? それはあのお方が、あなたを失いたくないと思っていらっしゃるあかし。私の事は、どれだけ蔑んでもらっても構わない。けれど、陛下にとって大切なその命を、どうか粗末にしないで下さい」


 噛み締めるようにそう言い、男鹿は再び背を向けて歩きだした。

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