第六話 告白 其の一
その後、私と陛下は、人目を忍んで書庫で頻繁に逢うようになった。
陛下の遣いの方から知らせを受けると、私は年若い侍女を連れて、書庫へ赴き、彼女に戸口を見張らせた。
久しぶりの逢瀬は、内密であることも相まって情熱を燃やし、私たちは激しく愛し合った。
同時に
彼が私と陛下のことに、気が付いているかどうかはわからなかったが、何も言ってこない彼に結果的に私は甘えたのだ。
当然、同じ屋敷内で生活していれば、偶然顔を合わすこともあったが、そんな時も彼は何事もなかったように軽く会釈して、私の前を通り過ぎて行った。
「呉の
書庫の薄暗がりの中、壁にもたれかかりながら、陛下はふとそうつぶやかれた。
「呉の皇帝が?」
着物の乱れをなおしながら驚く私に、陛下は哀し気に微笑むと、少し遠くに視線を移された。
「次期皇帝候補の
「……」
「
寂し気な陛下の表情に私はかける言葉を失い、ただそっと寄り添った。
「所詮お飾りの皇帝だ。実権は大将軍の
魏と対立する国のひとつ、呉では、皇太子が若くして亡くなり、その後長年に渡り、二人の皇子に付いたそれぞれの派閥が、権力争いを続けていた。
数年前それも、初代皇帝である孫権が両成敗することでようやく収束したが、結果二人の成人した皇子を失い、新たに立てられたのが、幼い孫亮だったのだ。
幼帝に
陛下にとっての
ご自分の境遇に酷似した呉の幼帝に、陛下は同情されているようだった。
私は、陛下の肩に寄りかかり、黙ってその手を握りしめた。
「長年続いた権力闘争で、呉の国力は衰退していると聞く。その上、孫権が死に、跡継ぎが年端のいかぬ子どもとなれば、魏にとってまたとない好機だ。きっと、近く
陛下は私の肩を抱きながら、唇を噛み締められた。
「お待ちください!」
その時、戸口の外から、見張りに立たせていた侍女の、叫びに似た声が飛び込んできた。
「なぜここを開けさせぬ!」
侍女の声のあとに、怒鳴るような男の声が響いた。
私たちは慌てて身なりを整え、乱れた髪を頭に撫で付けた。
「陛下! こちらにおいでですね?」
「……司馬師だ……!」
扉の向こうから呼びかける男の声を聞いて、陛下が声を殺してそうおっしゃった。
外から聞こえる野太い男の声は、先ほど陛下が口にされた、
きっと、しばらく姿の見えない陛下を探して、ここを探し当てられたのだろう。
「ああ!」
突然、侍女の悲鳴とともに、鈍く不快な音が戸口の外から聞こえた。
「
小声でそう言い、陛下は私の体を部屋の奥へ押しやられた。
私は震えながら、巻物の積まれた戸棚の奥に身を隠し、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
それと同時に、木の扉が開け放たれ、
恐る恐る顔をあげ、棚の隙間から戸口の方へ目を向けると、背中から陽を受け、仁王立ちする
黒い甲冑に身を包んだその男の足元を見て、私は思わず手で口を覆い、漏れかけた声を抑えた。
そこには、私が見張りに立たせた侍女が、うつぶせに血を流して倒れていたのだ。
私よりかなり若い、まだ少女である侍女は、
「陛下、こちらにいらっしゃいましたか。このようなところでいったい何を?」
人を斬った直後とは思えない穏やかな笑みを浮かべ、子元様は戸口近くにおられた陛下に訊ねられた。
だが、右手に下げた刀の刃は血に染まり、陽の光に紅く光る雫を落としていた。
「読み返したい資料があったのだ。そなたこそ何用だ?」
陛下は子元様の進行を妨げるように、彼の正面に立たれ、意識して強い口調でおっしゃった。
「女の匂いがする」
刀を一振りして血を落とし、鞘に納めると、子元様はそう言って、陛下の肩越しに首を左右に伸ばし、室内の様子をうかがわれた。
私は戸棚の陰で再び身を縮め、息を殺してきつく目を閉じた。
「探せ」
不意に背後を振り返った子元様は、部屋の奥に向かってあごを上げられた。
すると、戸口から武装した兵が数人室内になだれ込んできた。
「何ごとだ!」
叫びにも似た陛下のお声にも耳を貸さず、兵達はどかどかと部屋の奥へ歩みをすすめ、鋭い眼光を四方に巡らせた。
私は頭を抱えたまま息を殺し、戸棚の陰でうずくまっていた。
「将軍! おりました!」
間もなく呆気なく見つけられた私は、兵に後ろ手を掴まれ、引きずられるように子元様の前に突き出された。
子元様の濃い眉の下の鋭い眼光に捕えられ、私は動けなくなった。
「これはこれは、倭人の
私が陛下の妾であった頃には口にした事がないような
「このような汚れた者が、よりにもよって皇帝陛下をたぶらかすとは」
子元様は私のあごを持ち上げると、冷めた目で見下ろされた。
涙を流し、恐怖で腰が抜けそうな私を、兵は締め上げるように乱暴に支えた。
「違う! 朕がその者を呼び寄せたのだ!」
必死に食い掛る陛下を無視するように、子元様は兵達に顔を向け、戸口の外を指さされた。
「皇太后様のお部屋へ、その女を連れてゆけ!」
「陛下!」
泣き叫びながら、私は兵に抱えられるように書庫から外へ連れ出された。
「花蓮!」
兵の肩に担がれた私の背後で、涙混じりに叫ばれる陛下の声が遠くなっていった。
「まったく、なんという汚らわしい娘じゃ」
後ろ手に縛られ、突き出された私を、皇太后様は汚いものを見るように眉をひそめられた。
「よりにもよって皇帝陛下を惑わすとは……。しかもそなたは、他の男の妾であろう。主人がある身で情事に興じるなど、なんと罪深い」
そう言って皇太后様は、扇子で私のあごを持ち上げられた。
私は、ひきつけを起こしたように乱れた息づかいで涙を流した。
そんな私の顔を見て、皇太后様は扇子をそのまま振り上げ、横面を思い切りはたかれた。
「花蓮は悪くない! 朕が……!」
上座に座られた陛下が、腰を持ち上げながら皇太后様に訴えかけられた。
皇太后様は、事情を聞くためとおっしゃって、陛下もこの場にお呼びになられたのだ。
そんな陛下の肩を子元様が掴み、席につかれるように促された。
強い力に抑えられ、やむなく再び腰を降ろされた陛下は、子元様を睨まれ、悔しそうに唇を噛み締められた。
「陛下がこの娘を庇いたいお気持ちはわかりますが、身分を
「……やめてくれ……」
「前々からこの娘は、陛下に災いをもたらすと、占いにも出ております。生かしておいては、あなた様にとってよくありませぬ」
皇太后様に強い口調で言われ、陛下は泣きながら何度も首を左右に振られた。
私は半分諦めた気分で、首をうなだれた。
確かに、主人のある身で、陛下と逢い引きするなど、命を取られても仕方がない行為であろう。
私と陛下は、少し離れた場所で、絶望感に満ちた瞳で見つめ合った。
「この先にはお通しできませぬ!」
その時、にわかに皇太后様のお部屋の外がざわめき、なにかを制止するような男の声が響いた。
「なにごとじゃ!」
ただ事ではない騒ぎに、皇太后様は私から戸口の外へ視線を移され、不機嫌そうに叫ばれた。
「……そなた……」
そうつぶやき、息を呑まれた皇太后様に、私もゆっくりと顔をあげ、戸口の方へ目を向けた。
すると、そこには、険しい表情で皇太后様を見つめて立つ男鹿の姿があった。
「誰か、
「通訳は不要でございます」
苛立ちながら室内を見渡す皇太后様に向かって、男鹿は静かに魏の言葉で言った。
「そなた……言葉を……?」
「私のそば付きの者が捕えられたと聞き、失礼を承知で伺わせていただきました」
驚かれる皇太后様とは対照的に、男鹿は落ち着いた口調で述べた。
「そなたには関係ない。今すぐここを去られよ」
皇太后様は扇子を開いて口元を覆い、彼を払うように反対の手を振られた。
だが男鹿は、皇太后様の言葉を聞き流し、室内に入って来ると、私の隣でゆっくりと腰を降ろした。
「この者は私の管理下にある者。罪を犯したとなれば、私も監督不行き届きで咎められてしかるべきかと思い、まずは事情を聞かせていただきに参りました」
私は驚きのあまり、まばたきするのも忘れ、彼の横顔を見つめた。
彼は見た事がない無機質な表情で、まっすぐ皇太后様を見つめていた。
「いったい、この者がどのような問題を起こしたというのでしょう」
そして次の瞬間、何かをひらめいたように目を見開かれ、紅い唇をぐっと引き上げて微笑まれた。
「この者は、そなたという者がありながら、陛下と書庫で逢い引きしておったのじゃ」
ああ、もうおしまいだ……と私は、再び大きくうなだれた。
もしかしたら彼は、私を庇おうとここへ来てくれたのかもしれない。
けれど、仮にも彼の妾である私が、不貞をはたらいていたと知れば、さすがの彼も裏切りと感じるに違いない。
案の定、男鹿は一瞬驚きの表情を浮かべて息を呑んだ。
けれど次の瞬間、彼は目を伏せ、ふっとため息混じりに微笑んだ。
「ああ、それなら誤解です」
肩を落とす私の隣で、男鹿は明るい声でそう言った。
「私がこの者を書庫に行かせたのです。ぜひ一読したい書がございましたので、持ってきて欲しいと」
驚いて思わず顔を上げると、彼は背筋を伸ばし、皇太后様をまっすぐ見つめていた。
「……なに?」
「きっとそこに偶然、陛下がいらしたのでしょう」
「嘘を言うでない!」
皇太后様は怒りに満ちた表情を男鹿に向け、激しく叱責された。
すると男鹿は、眉間に皺を寄せて、口元を歪ませた。
「自分の妾が不貞を疑われているのに、私に庇う理由があるとお思いですか?
「この者を捕えた時、陛下はご自分がこの者を呼び寄せたとおっしゃったのだぞ」
皇太后様に加勢するように、それまで黙って陛下の
それを聞いて彼は、再び笑みを浮かべ、ため息をついた。
「それは陛下のお優しいお気持ちの表れでしょう。このような場合、身分の低い者が罪に問われることが世の常。ですから咄嗟にご自分が呼び寄せたことにして、この者の罪を軽くしてやろうとそうおっしゃったのでしょう。陛下とこの者の以前の関係を考えれば、そう思われても不思議ではありませぬ。責められるとすれば、あのような場所に、女性だけを向かわせた私の方でしょう」
そう言って、男鹿は上半身を深く折り曲げ、両手と額を床に付けた。
「たわけたことを……」
見慣れない倭国風の
しばらくして体勢を戻した男鹿は、今度はそんな子元様の方へ向き直った。
「それより子元様、あなた様がこの者の侍女を斬られたとか。この件が誤解であれば、あなた様は、罪の無い少女を傷つけられたことになりまする」
微かに侮辱を滲ませた視線で、男鹿は子元様を見つめた。
「私を脅すつもりか!」
子元様は思わず怒りの表情を浮かべて彼を凝視し、腰の刀の柄を握りしめられた。
瞬間、一気に室内に緊張感がはしった。
「とんでもない。幸い彼女は命を取り留めましたので、我々も事を荒立てるつもりはありませぬ。ただ、年頃の娘の体に、生涯消えない醜い傷が刻まれたのです。せめて、誤解された主人を守ろうとして負った、名誉の負傷であったと
哀し気な瞳で訴えかける男鹿に、いつしか形勢は逆転し、なぜか子元様の方が責められているように、私たちの目にも映るようになっていた。
皇太后様も、子元様も、もう出てくる言葉は無く、お二人とも固く口をつぐんで、異国から来た男を睨みつけていた。
(やっぱり、とんでもない嘘つきだわ)
助けてもらっておきながら、私は男鹿の涼し気な横顔を見つめてそう思った。
「おわかりいただけたのならば、この者を連れて帰ります」
男鹿はそう言って皇太后様に向かって深く頭を下げると、立ち上がりながら私に「行きましょう」と声を掛けた。
そして私の手を縛る縄に目をとめた彼は、再び子元様の顔をじっと見つめた。
「ほどいてやれ」
彼の意向を読み取った子元様は、悔しそうに歯ぎしりして、近くの兵に吐き捨てるようにおっしゃった。
兵は戸惑いながら、私に近付き、縄を小刀で切り落とした。
手が自由になると、私は慌てて立ち上がり、男鹿の背を追った。
けれどふと背後に視線を感じた私は、振り返り、上座におられる陛下のお顔に視線を向けた。
陛下は複雑そうな表情を浮かべておられたが、すぐに「早く行け」と、手のひらを前後に振られた。
それを見て私は頷き、再び男鹿のあとを追った。
「待って!」
早足で歩く男鹿の後を、小走りするように追っていた私は、息苦しさに足を止めて、彼を呼び止めた。
宮殿から少し離れた庭園を歩いていた彼は、私の呼びかけに立ち止まり、冷めた表情で振り返った。
私はその顔を見上げながら、膝に置いた手で上半身を支え、乱れた呼吸を整えた。
「……なぜ責めないの? 私はあなたを裏切っていたのよ」
一瞬表情を曇らせた男鹿は、次の瞬間ほっと息をついて微笑んだ。
「あなたは望んで私の妾になったのではないし、私もそれを望んだわけではない。それに愛する人と共にいたいと思うのは、自然な感情でしょう。それを私は責めるつもりはない」
寛容な彼の言葉も、この時の私には偽善に聞こえた。
そして、穏やかに微笑む彼の顔を見ていると、なぜか例えようのない苛立ちが胸の中に沸き上がった。
「あなたがとんでもない嘘つきだってことは、よくわかったわ」
思わず私は、苛立ちがむき出しの言葉を彼にぶつけた。
「これで恩を売ったと思わないで。陛下のおそばにいられないくらいなら、私は命を失っても良かったんだから……!」
吐き捨てるような私の言葉に、男鹿は突然血相を変え、
(ぶたれる!)
一瞬そう感じた私はきつく目を閉じ、肩をすぼめて身構えた。
衝撃がないまましばらく経ち、そっと目を開けた私の前には、振り上げた震える右手を握りしめ、目を伏せる男鹿がいた。
やがて、その手を下ろした彼は、深くため息をついた。
「陛下は、ご自分が呼び出したのだと言って、あなたを庇われたのでしょう? それはあのお方が、あなたを失いたくないと思っていらっしゃる
噛み締めるようにそう言い、男鹿は再び背を向けて歩きだした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます