第五話 疑惑 其の二

 それからしばらく、私は男鹿おがのもとに通い、怪我の治療に専念した。

 傷も随分癒えてきた頃、いつものように彼の寝所に向かう私に、声を掛けて来る者があった。

 あるお方から伝言を命じられたというその男は、宮廷の端にある書庫へ一人で来るよう、私に伝えた。

 男は誰に命じられたかは口にしなかったが、私はそのぬしが陛下であると確信していた。

 なぜならその書庫は、幼い頃から私と陛下の秘密の隠れ家だったのだ。

 昔はわくわくしながら訪れたその場所に、私は命の危険さえ覚悟して赴いた。

 他の男のものになった私を、陛下はひどく憎んでおられるはずだから……。




 天井近くに小さな窓があるだけの書庫内は昼間でも暗く、古い木と墨の匂いと、かび臭さが充満していた。

 私は書庫に入り、後ろ手に扉を閉じた。


「……陛下?」


 私は小声で呼びかけ、巻物が積み上げられた薄暗い室内を見回し、奥へと歩みをすすめた。

 次の瞬間、背後から何者かに抱きすくめられた。

 強く私を抱く震える腕は、昔から体に馴染んだものだった。


花蓮ファーレン……」


 私の首筋に顔を埋め、陛下は絞り出すような声でつぶやかれた。


「この前は、そなたにまで手をかけてすまなかった。許してくれ」


 幼い子どもが許しを乞うような、弱々しい声色に、私の中で陛下への愛しさが溢れ出した。

 私は肩を抱く陛下の手に、自分の手を添え、小さく首を左右に振った。


「だが、あのような野蛮な国の男に、そなたが抱かれているのかと思うと、己を抑えられなかったのだ」


 陛下の声は涙で震え、私を抱く腕には一層力が込められた。


「あの人と私は、陛下が思われているような関係にありませぬ」


 そう言う私の体をご自分の正面に向け、陛下は驚いた表情で私の目を見つめられた。


「あの人は私に触れてきませぬ。祖国に愛する人を残してきているそうです」


「……ばかな。そのようなこと、そなたを抱かぬ理由にはならぬだろう」


 陛下の疑問は、もっともだと思った。

 私自身も未だに信じられない気持ちなのだ。

 普通の男なら、想い人がいたとしても、もっと自由に生きている。


「私には興味が無いと言われました」


 苦笑する私に、陛下は信じられないという表情で、首を左右に振られた。

 けれど、目を逸らさない私に、真実と悟られたのか、陛下は安心されたように、大きくため息をつかれた。

 そして、再び強く私を抱きしめられた。

 私も陛下の背に手を回し、懐かしいぬくもりを感じた。

 でも、しばらく穏やかな時を噛み締めていた私の体を、陛下が不意に引き離された。


「だが、あの者を信用してはいけない」


「……?」


 陛下は私の両肩を握りしめ、真剣な表情で私を見つめられた。


やまとからの帰国者から情報を集めた。あの男は、倭国で審神者さにわを務めていたのだ」


「審神者……?」


 聞き覚えのない言葉に、私は首を傾げた。


「そなたも、つい最近まで、倭国わこく大王おおきみを、巫女と呼ばれる呪術使いの女が務めていたことは、知っているであろう」


 私もそれは知っていた。

 倭国では、巫女の占いや祈祷によって、国が動かされていると聞いて驚いた覚えがある。

 あの国では、つい最近、みかどと呼ばれる君主が誕生し、朝廷が開かれるまで、巫女である女王が受けた神託が全てというまつりごとが、大真面目に行われていたのだ。

 それは、神の言葉であるとの大義名分のもとでは、既に決定した事柄も一瞬でくつがえされるような危うい国政であったと認識していた。


「審神者とは、その巫女の手先となって、神の言葉を偽り、民を思うままに誘導する男のことだ」


「……」


「だから、あの者を信用するな。奴は言葉巧みに人の心を動かすことにけている。そなたに手を出さぬのも、我らに気を許させるためかもしれぬ」


 私は、自分で思う以上に男鹿の事を信用していたようで、愕然としながら、陛下のお話を聞いていた。

 だが、同時にどこかで納得している自分もあった。

 それは、ずっと疑問に感じていた、身分を持たない彼と女王との接点が、初めて見えたからだった。


「呪術などまやかしに決まっている。それが民の知るところとなり、女王は退任し、あの者は身分を失ってこの地へやってきたのだろう。場合によっては、再び民の前に君臨したいと望む女王の差し金で、あの者は王になることを目指しているのかもしれぬ」


 陛下が呪術者に並々ならぬ嫌悪を抱いておられる訳も、私は知っている。

 それでも今回のこの推測は、私にも辻褄が合っているように思われた。

 けれど、私の中には、男鹿の事を信じたいという思いもわずかながら残っていた。

 その後、混乱した頭をかかえたまま、陛下と別れた私は、ふらふらとした足取りで、自分の寝所へ向かった。







 しばらく自分の部屋で心を落ち着かせてから、私は男鹿の寝所を訪れた。

 部屋の中に目をやると、彼は机の上に巻物を広げ、背を向けて座っていた。


「もう、起きても大丈夫なのですか?」


 私が問いかけると、彼は向き直り、いつもの笑顔を見せた。

 目元には、まだうっすらと青いあざが残っていたが、まぶたの腫れは引いていた。


「はい。すっかり。あなたが手当をしてくれたおかげです」


 屈託なくそう言って笑う彼に、私はいつものように、素直に微笑み返すことはできなかった。


「……聞きたい事があるの」


 私はどうしても真実を確かめたくて、彼に向かい合うように腰を降ろし、その澄んだ瞳を見つめた。

 いつになく緊張した様子の私に、男鹿は一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐにため息混じりに笑った。


「なんでしょう?」


 ここにきて私はためらい、一旦言葉を飲み込んだ。

 真実を知りたいと思う一方で、やはりそれを知りたくないという思いがはたらいたのだ。

 でも私は、再び意を決すると、大きく息を吸い込んだ。


「あなたの愛する女王様は、本当に神の声が聞こえていたのよね?」


 答えを聞くのが怖くて、私は思わずきつく目を閉じ、彼の反応を待った。

 しばらくしても返答がないため、そっと目を開けてその顔を見上げると、彼の顔から笑みは完全に消えていた。

 私はいたたまれなくなって、私が望む答えを導きやすいように、訊ね方を変えてみた。


「この国では占いはまやかしのように思われている。でも、あなたの国では、本当に神の声が聞こえる巫女がいて、その言葉をあなたは民に伝えていたのよね?」


 お願いだから「そうだ」と笑って言って欲しい。

 そう願いながら、私は再度彼の答えを待った。

 けれど、彼は呆然と私の顔を見つめたままで、その口元からは何の言葉も発せられなかった。

 しばらく互いに無言の時間が過ぎ、ふと彼は私から目を逸らすと、絞り出すような声で言った。


「……あの方には、神の声は聞こえていませんでした……」


 思わず私は両手を口元に当て、叫び出しそうになった声を呑み込んだ。


「……あなたが、神の言葉を偽っていたというのも、本当なの……?」


 意識して落ち着いた声で問いかける私に、彼は少し間を置き、無言で頷くと、大きく肩を落とした。

 一瞬の内に、私の中で彼へ対する不信感が大きく膨らんだ。


「あなたは女王の指示で、王になるためここへ来たの?」


「それは違います。あの方は、私がここへ来た本当の目的もご存知ありませぬ」


 男鹿はうなだれていた首を持ち上げ、今度は即答した。

 まっすぐ私を見つめる瞳が、悲しみの色に染まっていた。


「王になって、一緒になる約束をして、ここへ来たのではないの?」


 私の問いに、彼は目を見開き、言葉を失った。

 だが次の瞬間、目を伏せて首をもたげると、唇を強く噛み締めた。


「……王になれる確証もないのに、約束などできませぬ……」


「それじゃあ、ただのあなたの思い込みじゃないの。たとえ王になれたとしても、既に彼女が別の人との人生を選んでいたらどうする気なの?」


 思わず私が激しい口調でそう言い放つと、男鹿はうつむいたまま、膝の衣を握りしめた。

 よく見ると、その手は小刻みに震えていた。


「……わかりません。ただ、今はあの方と同じ位置に立ちたいのです……」


「もういい。あなたの何を信じればいいのか、もうわからない!」


 私は叫ぶようにそう言い、彼の寝所をあとにした。

 一度不信感が芽生えると、彼の言動のすべてが偽りに思えた。

 書を読みながら輝かせていた瞳も、優しい笑顔と言葉も、愛する人のことを語る時の澄んだ目も。

 もしかすると、女王と愛し合っていたという話も、嘘だったのかもしれない。

 身分違いの恋に苦しむ私の心を惹き付け、陛下に近付くための……。


 悔しさなのか、哀しさなのか、溢れる涙の理由もわからぬまま、私は外廊を駆け抜けた。

 そして、自分の部屋に飛び込んだ私は、後ろ手に閉めた戸に背を滑らせ、その場にしゃがみ込んだ。


 『では、私たちは同じ未来を追う同士ですね』


 初めて会った日に彼が口にした言葉も、今の私には白々しく思われた。

 なのに心とは裏腹に、とめどなく溢れ出す涙と、口から漏れる嗚咽おえつに、私の頭はひどく混乱していた。


 そして、それ以来、私は彼の部屋に行くことをやめたのだった。

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