第十四話 紅玉の想い

 あの夜、男鹿おがは私が泣き止むまで、黙って抱きしめ続けてくれた。

 そして私が落ち着きを取り戻し、涙も乾いた頃、背中を包んでいたぬくもりは、何も語らぬまま遠ざかっていった。

 周囲から彼の気配が消えると、私は思わず力が抜けたようにその場にしゃがみ込み、呆然と夜空に浮かぶ月を見上げた。


 きっとあれは、彼なりの慰めだったのだろう。

 事実、私の心にずっしりとのしかかっていた陛下の怒りと哀しみは、あのあと、随分軽くなったように思われた。

 力強く抱く腕と、首筋にかかる熱い吐息に、思わず体が反応してしまったけれど、それを愛と取り違えるほど、私は愚かではない。

 そう自分に言い聞かせると、なぜか再び頬を涙が伝った。




 その後も、私と男鹿の関係が変わることはなかった。

 というより、私にその後、彼と会う機会はなかったのだ。

 あの日以来、陛下は辛い現実を忘れようとされるかのように、毎夜私の部屋にいらっしゃった。

 そのため、私はいつでも陛下をお迎えできるよう、自分の部屋に留まり続けたのだ。

 いや、もしかしたら自分にそう言い訳をして、私は男鹿と会うことを避けていたのかもしれない。

 だとすれば多分私は、その姿を目にすることで、今以上に彼に惹かれていく自分が怖かったのだ。



 そうして月日は流れ、いつしか季節は春を迎えていた。



「もう、陛下がいらっしゃらなくなって、十日目になりますね」


 庭に咲く桃の花がよく見える窓辺で、私の髪をすきながら、紅玉こうぎょくがつぶやくように言った。

 それまで毎日のように私の部屋へ通っていらした陛下が、ここ最近、ぱたりといらっしゃらなくなったのだ。

 それでも、陛下が急にいらした時でも乱れた姿を晒すことのないよう、私は毎日身支度を整えていた。

 紅玉は今日も、いらっしゃるかどうかわからない陛下のために、私の後ろ髪を丁寧にすいてくれていたのだ。


「陛下はお忙しい身でいらっしゃるのだもの。こういうこともあるわ」


 伏し目がちにため息をつき、私がそう言った瞬間、櫛を持つ紅玉の手が止まった。


「奥様、あの日……」


 何かを言いかけて言葉を失った彼女を不審に思い、私が顔をあげると、部屋の戸口に、春の日差しを背に受けて、皇后様が立っていらした。




「遣いの方を寄越していただければ、こちらから参りましたのに……」


 部屋の奥へお招きして、茶を差し出しながら私がそう言うと、皇后様は、見下ろすような視線を向けておっしゃった。


「私のお部屋には陛下がいらっしゃるの。ここ最近ずっと」


「……」


「最近陛下は、こちらにいらっしゃらないでしょう?」


 皇后様は、以前には見られなかった大人びた表情をされ、少し棘のある口調でそうおっしゃった。

 私はそんな皇后様のご様子に違和感を覚えながらも、着物の裾を整えて正面に座り直した。


「私、あの日見たの」


 しばらくの間があって、皇后様は絞り出すようにそうおっしゃった。


「……あの日?」


 訊ね返す私を見つめる瞳には怒りがこもり、薄紅色のあどけない唇は、小さく震えていらっしゃるように見えた。


「父が司馬師を追求した日よ。あなた、私を部屋に残して、陛下のお部屋に様子を見に行ったでしょう?」


「……」


「あのあと、陛下とあなたを追って、あなたの部屋まで行ったの。そこで見たのよ。あなたがどうやって陛下をお慰めしているのか」


 私は思わず両手で口元を覆い息をのんだ。


「難しいお話の相手をするのは無理でも、陛下にこの身を捧げることなら、私にもできると思ったわ」


 あの日、皇后様は、哀しみを吐き出すように私を抱く陛下のお姿をご覧になったのだ。

 陛下のお力になりたいと願っておられた皇后様は、その様子を見て、その身を差し出せば陛下を癒して差し上げられると思われたのだ。

 けれど、皇后様はまだ十三歳。

 妻とは名ばかりで、陛下も大切に扱っていらっしゃるはずだった。


「そんな……皇后様はまだ……」


 私が言いかけた言葉を遮るように、皇后様は苛立ち混じりに少し声を荒げられた。


「私がまだ子どもだから?」


 言葉を詰まらせた私を後目に、皇后様はお話を続けられた。


「陛下も最初はそうおっしゃったわ。私がもう少し大人になるのを待つと。でも、私が無理にお願いしたの」


「……なんてこと……」


 私は目を閉じて大きくうなだれた。

 あんな想いをするのは、私だけでいいのだ。

 花で言えばまだつぼみのような、純真な皇后様には、陛下の怒りと哀しみはとても抱えきれない。

 まともに受け止めれば、きっと、身も心もぼろぼろになってしまわれるだろう。


「あなたには絶対に負けない」


 肩を落として唇を噛み締める私の頭上から、押し殺したような皇后様の声が降ってきた。


「だって、あなたは陛下を裏切っている」


 思わず目を見開き、顔をあげた私の前に、皇后様の一層怒りに満ちたお顔があった。


「北の池でも見たのよ。あなたと……あの異国の男を」


 急に息苦しさを感じ、私は胸を押さえて背中を丸めた。

 皇后様の誤解を早く解かねばと思いながらも声にはならず、ただ、荒い息だけが口から吐き出された。

 そんな無様な私を見下ろし、皇后様は押し殺した声でおっしゃった。


「陛下はあなたのことを誰より愛していらっしゃるのに……。私はあなたを絶対に許さない」


 強い口調でおっしゃる皇后様の瞳から、涙がこぼれ落ちた。

 激しい動揺で言葉が出ない私を睨みつけ、皇后様は少女のものとは思えない低い声でおっしゃった。


「あなたがまだ陛下にして差し上げられていないことを、私やってみせるわ」


「……」


「陛下の子を産んでみせる」






「……奥様」


 皇后様がお部屋を去られてしばらくして、紅玉が遠慮勝ちに声を掛けて来た。

 肘掛けに寄りかかり、頭を抱えていた私は、ゆっくりと身を起こし、部屋の隅で立ち尽くす彼女の顔を力なく見上げた。


「申し訳ありません。私が皇后様を北の池に……」


「……」


「陛下が眠られてから、お部屋を出ていかれた奥様の行き先を訊ねられて、おそらく北の池ではないかと……」


 そう言って急に涙をあふれさせた紅玉の様子から、私はあることを悟った。


「あなたも見ていたのね」


 私の言葉に、突然、紅玉はその場に泣き崩れた。

 彼女は、皇后様を北の池にご案内して、私たちの姿を目撃したのだ。

 私を抱きしめる男鹿の姿を見て、彼に恋をする彼女は傷ついたに違いない。




「奥様は……男鹿様を……?」


 しばらくして少し落ちつくと、紅玉は、しゃくりあげながら私に問いかけた。


「……たぶん、愛してるわ」


 紅玉は一層身を縮め、両手で顔を覆うと、声も出さずに再び泣きだした。

 その様子を見て私は、彼女のそばへゆき、震える肩を抱き寄せた。


「男鹿様も……?」


 顔をあげて涙声でそう言う紅玉の目を見つめ、私はゆっくりと首を振った。


「あの人が愛しているのは、邪馬台国の女王よ。あのときは、私を慰めてくれただけ……」


 少し驚いたように見開かれた紅玉の瞳は、涙で潤み、小さく震えていた。


「その方と共に生きるために、あの人は王になろうとしているの」


 それを聞いて、紅玉は私にしがみつき、今度は大声をあげて泣き始めた。

 初めての恋が報われないことを知り、少女の心は一層深く傷ついたのだ。


「ごめんなさいね。もっと早く、あなたには伝えておくべきだったわ」


 紅玉の小さな頭に頬を寄せ、私は何度も擦り付けた。

 もっと早く、この恋に望みがないことを彼女に知らせておくべきだったと私は心から悔やんだ。

 そうすれば、小さな胸をこれほど痛めることもなかったのに。


 けれど次の瞬間、腕の中で震える少女は、思いがけない言葉を口にした。


「お可哀想な奥様……」


「……」


 私の胸から体を離し、たもとで涙を拭った紅玉は、せつな気な瞳を私に向けた。


「私、男鹿様が好きです。でも、これでも己の立場はわきまえているつもりです。侍女である私には、王を目指しておられるあの方に想いを伝えることさえ恐れ多いことです。だから、ただ遠くからでもお姿を見ることができたなら、それだけでよかったのです」


「紅玉……」


 紅玉は自分の右肩を握りしめると、うなだれてきつく目を閉じた。


「体にこのような醜い傷のある私には、この先、まともな縁談はこないでしょう。ですから、奥様さえよろしければ、この先もずっとお仕えさせていただきたいと思っています」


 私は手のひらで口元を抑え、思わずこぼれそうになった嗚咽おえつを抑えた。

 紅玉はうつむいたまま、膝の上に置いた拳に力を込めた。


「奥様が男鹿様と結ばれれば、せめてあの方のお姿をそばで見つめていられる。そう思っておりましたのに……」


 思わず私は手を伸ばし、紅玉の体を引き寄せて強く抱きしめた。

 それからしばらく、私たちは抱き合ったまま声をあげて泣いた。


「陛下は奥様のことを愛していらっしゃいますけど、陛下のおそばにいらっしゃる奥様は、とてもお幸せそうには見えません。男鹿様なら、奥様を大切にしてくださると思っておりましたのに……」


 私は、紅玉の小さな体を抱きしめ、その背中を何度も摩った。

 衣の上からでも、私を守るために彼女が負った傷は、少し盛り上がっているのが感じられた。

 私のために一生消えない傷を負ったにも関わらず、自分の想いを秘めた上で、私の幸せを願ってくれるなんて……。

 私はこの子にいったい何をしてあげられるのだろう。

 その答えも見つからぬまま、涙はとめどなく流れ落ち、私の胸の中で少女はいつまでも肩を震わせていた。

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