第二十七話 攻防の果て

親魏和王しんぎわおうだと?」


 手紙の主の名を耳にして、一気に室内がざわめき立った。

 親魏和王とは、金印と共に魏の皇帝より、当時邪馬台国の女王であった卑弥呼に授けられた封号だ。

 その名には、魏の皇帝がその者を倭国の王と認めたとの意味が込められている。

 朝廷が開かれてからは、王位を継承した邪馬台国の皇子が引き継いだが、倭国で彼はみかどと呼ばれている。

 つまり、倭国の天子が直々に、男鹿おが狗奴国くなこくの王とするために、その証を授けて欲しいと、陛下に嘆願してきたということなのだ。


「帝や他国の王が、このような者を大国の王に望むなど考えられぬ。それもどうせ偽物であろう」


 子元しげん様はそう言って席から立ち上がり、祖父の手から絹製の書状を乱暴に奪い取られた。

 そうして、書面に視線を落とされた子元様であったが、しばらくすると、その目が見開き、書を持つ手が小さく震え始めた。


司馬師しばし、それを」


 ただならぬ様子の子元様に、陛下が背後の玉座から声を掛けられた。

 すると子元様は、背を向けたまま、そばにいた役人に手にしていた書状を突き出し、それを受け取った役人は陛下のそばへ進み出た。

 役人が頭を下げ、両手で書状を掲げると、陛下はそれを手にされた。

 すぐさま巻物を広げ、そこに書かれた文字を目で追い始められた陛下の視線が、最後の部分でぴたりと止まった。


「金印が押されている」


 少しの間があって、署名されたとおぼしき場所をじっと見つめられたまま、陛下がぼそりとおっしゃった。

 それを聞いて、大臣や役人たちは、そばにいる者同士でしきりに顔を見合わせた。

 金印は魏より送られたものだ。

 陛下がその意匠を見紛うはずがない。

 その瞬間、誰もが、その書が紛れも無く倭国の帝から送られたものであると確信したのだ。


 同時に私も、信じられない思いで男鹿の顔を見た。

 玉座の陛下を見上げる彼の頬には、たまりかねてこぼれた涙が、一筋流れていた。


「司馬師よ、帝までが王にと推す者を、留める事はできまい」


 陛下は書状を役人に手渡しながら、子元様の背中を見下ろされた。


「もともとそなたは、この者を南安なんあんに送る事で、罪を償わせようと考えていたではないか。今回の戦いで、この者は十分戦力となってくれた。もうこれ以上、咎める理由は無いのではないのか?」


 それを聞いて、子元様は悔しそうに小さく舌を鳴らされた。

 しかし、不意に何か思い直したかのように身を翻し、陛下の前に跪いて頭を下げると、右手の拳を左手で包まれた。


「しかしながら陛下……」


 礼の姿勢のまま、床をみつめて子元様は低い声でつぶやかれた。


「この者が戦略に長けている事はご存知の通り。倭国の帝までが手元に置きたがるような者となれば、いずれ我が国にとって脅威となり得るかと……」


 深刻な口ぶりでそう話す子元様を、陛下はじっと見下ろしておられた。

 だが、次の瞬間、顔を伏せられた陛下の肩が、上下に小さく揺れ始めた。 

 押し殺したような笑い声も漏れ始め、子元様は、伏せていた顔を思わず上げられた。

 必死に笑いを堪えておられる陛下のご様子に、大臣や役人たちも、不思議そうに顔を見合わせた。


「情けない話ではないか。司馬師よ」


 少し笑いがおさまった陛下は、尚も口元に笑みを浮かべたまま、子元様をご覧になった。


「三国一と恐れられたこの国が、小さな島国の、こんな若者ひとりに脅威を覚えるとは」


 そう言って陛下は、今度は少し大きな笑い声を上げられた。

 私には背中しか見えなかったが、うろたえている大臣らの様子から、子元様が険悪な顔つきをされていることが伺えた。


「我が国には、この者を上回るような人間はいないと申すのか? そして、そなたほどの者が、今後もそのような人材を育てる自信がないと?」


 真顔に戻られた陛下は、今度は鋭い視線を子元様に向けてそうおっしゃった。

 背後からでも、子元様が下ろした拳を、きつく握りしめられるのが見えた。


「所詮、倭国など発展途上の小国ではないか。いつの間に魏は、そのような国にさえ怯えるほどに成り下がったのだ?」


 強い口調でおっしゃる陛下に、子元様は言葉を失い、ただ、視線を床に向けて立ち尽くしておられた。

 これ以上異議を唱える者はいないと悟られたのか、陛下は何度か大きく頷き、室内に居並ぶ者たちを見渡された。


「近々この者を、正式に王と認める儀を行う。本日よりこの者を、賓客として丁重に扱うように」


 再び子元様の方に戻された陛下の視線には、有無を言わさぬ気迫が感じられた。


「よいな。司馬師」


「……御意」


 念を押されるような陛下のお言葉に、子元様は、再び礼をして小さくそうつぶやかれた。

 その瞬間、室内に満ちていた緊張感がわずかに和らいだ。


 だが、ほっとする間もなく、それまで黙って様子を伺っておられた皇太后様が席から立ち上がり、玉座を振り仰ぐと、陛下のお顔を見上げられた。


新城しんじょうでの罪は消えても、この者とその女が行った、陛下へ対する背徳行為は消えませぬ」


 皇太后様の言葉に、好奇に満ちた視線が、男鹿と私に集中した。


「この者が北の池でその女を抱く姿を、目にされた方がいらっしゃるのです。陛下の妾に手を出すなど、死にも値する大罪。その罪を咎めぬ訳には参りませぬ」


 皇太后様はそうおっしゃって、後ろ手に扇子を持った手で男鹿を指し、不敵な笑みを浮かべられた。


「倭国との関係を重んじ、この男の罪を咎められないのであれば、代わりにその女に償ってもらいましょう」


 私は首をもたげ、覚悟を決めた。

 どんな罰でも甘んじて受けよう。

 この時の私は、男鹿が無事に祖国に帰る事ができるなら、自分はどうなってもいいと思っていた。


「母上、その者はもうちんの妾ではありませぬ。その者が誰と逢おうと、朕の知るところではないのです」


 不意に室内に響いた陛下の言葉に、私は思わず首を持ち上げた。

 瞬時には状況が理解できず、私は陛下を見上げて目を泳がせた。


「先日、近く退役する張政ちょうせいが、恩給を返上し、孫娘を買い戻したいと申し出てきたのです。それを了承し、既にその者の身は、張政のもとへ渡っております」


「なんと……?」


 皇太后様は、目を大きく見開き、私と祖父の顔を順に見つめられた。

 私も驚きのあまり、呆け顔で祖父の顔に目をやった。


「そのような事、わらわは聞いておりませぬぞ」


 わなわなと唇を震わせ、そうおっしゃる皇太后様を、陛下はまっすぐ見つめ、口元をふっと緩められた。


「皇帝とは、妾を手放す時にさえ、母上の許可が必要なのですか?」


 苦笑しながらそうおっしゃる陛下から目を逸らし、皇太后様は悔しそうに唇を噛み締められた。

 そうして、一度は口をつぐまれた皇太后様であったが、再び思い直されたように表情を固め、陛下を見上げられた。


「しかし、それでは皇后様のお気持ちが収まらぬはず。皇后様は、北の池でのこの者たちの姿を目にされ、激しい怒りを覚えておられるのですよ」


 その言葉に、陛下は肘掛けを握りしめ、少し困ったように表情を曇らされた。

 室内の者たちは、息を呑んで、そんなお二人の姿を見守っていた。


「ごめんなさい。その話は嘘なの」


 その時、可愛らしくも凛とした少女の声が室内に響いた。

 声のする方に目を向けると、そこには冷めた表情で皇太后様を見下ろす、皇后様のお姿があった。


「その女をおとしいれたくてついた嘘だったの」


 再び大きく見開かれた皇太后様の瞳が、みるみる怒りの色に染まっていくのが、手に取るようにわかった。


「う……そ……?」


 震える声でそう言う皇太后様のお顔を見つめ、皇后様は淡々とした口調でお話を続けられた。


「そう。嘘。子どもができたというのも嘘。私、その人に負けたくなかったの」


「……」


「だから、その者たちを咎める理由なんてないわ。お願いだから、この退屈な審議を早く終わらせて」


 そう言って皇后様は扇子をぱたぱたと扇ぎ、肘掛けに寄りかかるように頬杖を突かれた。

 それから、視線だけを皇太后様の方へ向けた皇后様は、広げた扇子で口元を覆われた。


「そう言えば、私の嘘を鵜呑みにして、お腹の子を流そうとした人がいるようだけど、馬鹿みたいよね」


 皇太后様を見つめ、皇后様は明るい声でそうおっしゃった。

 けれど、扇子の陰から覗く目は笑ってはおられなかった。


 次の瞬間、束になった小枝を折るような、大きな音が室内に鳴り響いた。

 見るとそこには、ふたつに折られた扇子を両手で握り、鬼の形相をした皇太后様のお姿があった。





 審議を終え、縄を解かれた私が部屋に戻ると、紅玉こうぎょくが泣きながら駆け寄ってきた。


「奥様、奥様、よくぞご無事で」


 声を殺して泣く少女を、私はきつく抱きしめた。


「心配をかけてごめんなさいね。もう大丈夫よ」


 そう言うと、彼女は安心したのか、今度は声をあげて泣き始めた。


「でも、もう私は、ここにはいられなくなったわ」


 続いた私の言葉に、紅玉の泣き声がぴたりと止まった。

 そうして彼女は顔を上げ、しゃくりあげながら、赤くなった瞳でその理由を問いかけてきた。


「私、祖父に買い戻されたの。もう、陛下の妾ではないのよ」


 最後まで言い切る前に、私の言葉は涙で震えた。

 陛下が私を妾の身分から解放するために、祖父の申し入れを了承されたであろうことは想像できた。

 けれど、同時に妾でなくなった私に、宮殿ここに身を置く理由はなくなったのだ。

 今日明日にでも、荷物をまとめて部屋を空けるよう命じられるだろう。

 そうなれば、もう二度と陛下にお会いすることは叶わなくなる。


『最後の日までおそばにいたい』


 陛下の想いは痛い程感じる事ができたけれど、その結果は私の望んでいたものではなかった。


「あなたが産婆になる姿も、見届けたかったけれど……」


 両手のひらで頬を包み込んで見つめると、紅玉はふるふると首を小さく振った。


「私、実家に帰っても勉強を続けます。そしていつかきっと、産婆になってみせます」


 赤い頬を一層赤く染めてそう言う紅玉を、私は再び強く抱きしめた。


「そうね。私も実家に戻ったら、町の人たちの役に立ちたいと思っているの」


 哀しくても、断腸の思いで陛下が与えて下さった自由の身。

 せっかく戴いたこれからの人生を、無意味に過ごす訳にはいかないと、私は強く思っていた。

 正式な医者とは認められなくても、病に苦しむ町の人々の手助けくらいならできるかもしれない。


「じゃあ、荷物をまとめ始めましょうか」


 涙を拭ってそう言う私に、紅玉も笑顔で頷いて見せた。

 せめて去り際は美しく、この部屋を綺麗に片付けていきたいという思いは、ふたりとも同じだった。


 それから私たちは、思い出を語り合いながら、荷物を丁寧に箱に納めていった。

 私が陛下の妾となって、今年で八年目になる。

 着物やかんざしのひとつひとつに、それを身につけてお会いした時の陛下のお顔や、お話された内容が思いだされ、私は何度も込み上げてくる嗚咽おえつを吞み込んだ。


 そうして、おおかた荷物がまとまった頃、皇后様の遣いの方が部屋を訪ねていらっしゃった。

 その方から、皇后様が私だけでなく紅玉もお部屋にお呼びだと聞いて、私たちは慌てて箱にしまったばかりの衣装を引っ張りだしたのだった。




 着物を着替えた私たちが、皇后様のお部屋に伺うと、そこには祖父と男鹿、そして上座には、皇后様と並んで陛下のお姿があった。


「いいのよ、紅玉。あなたもここに来て」


 陛下のお姿を目にして躊躇ためらう紅玉に、皇后様が優しく声を掛けられ、彼女はおずおずとした様子で室内に入ってきた。

 私は陛下と目を合わせると涙がこぼれ落ちそうで、俯きがちに歩みを進め、皇后様に導かれるままに腰を下ろした。

 向かって左右の壁際にそれぞれ男鹿と祖父、上座に向かい合うように私と紅玉が座す形に落ち着くと、しばし沈黙の時間が流れた。


「ふたりとも、いい加減顔を上げて」


 吹き出しながら発せられた皇后様の言葉に、私と紅玉は、緊張で固くなった顔を恐る恐る持ち上げた。

 まだ陛下を直視することができず、思わず逸らした私の視界に、男鹿がいた。

 その姿を改めて目にした私は、驚きのあまり、声にならない叫び声を上げた。

 そこには、翡翠色の絹地に、銀糸で刺繍の施された長衣を身につけた彼の姿があったのだ。

 そして、少し照れくさそうに唇を噛む彼の髪には、小さいながらも透かし模様が美しい、銀の冠が輝いていた。

 私の異変に気付いた紅玉も、あまりに立派で美しい彼の姿を見て、丸く開いた口を慌てて手で覆った。


「もう、この方は一国の王。大切な賓客ですからね」


 驚く私たちに気が付かれた皇后様が、微笑みながらそうおっしゃった。

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