第三十二話 斜陽

 私は青葉を見渡せる医室の窓辺に腰掛け、懐から光沢のある白い布を取り出した。

 これは、陛下があの日引きちぎり、私に下さった内着の右袖だ。

 私は今日何度目か知れない大きなため息をつき、そこに施された金色こんじきの龍を力なく見つめた。


『そなたに持っていて欲しいんだ……』


 陛下はあの時、私の手に握らせながら、これをご自分の形見だとおっしゃった。

 この袖の対である左袖を敬仲けいちゅう様に託された陛下は、それにより子元しげん様より咎められ、命を奪われることも覚悟されているのだ。

 皇帝の座から廃位されるだけでなく、陛下がこの世から消えてしまわれるかもしれないなんて。

 想像することさえ恐ろしく、首を大きく横に振った私は、微かに香の香りが残る布に顔を埋めた。





花蓮ファーレン


 不意に名を呼ばれ、私はびくりと肩を震わせた。

 顔を上げると、そこには長身の青年が立っていた。


男鹿おが……」


 彼の顔を見た瞬間、私の両目から涙がどっと溢れ出した。

 彼はそんな私の顔から、手に握られた袖へと視線を移した。


「その袖のことは、皇后様から聞いたよ」


 寂し気につぶやくように言う彼の言葉に、私は堪えきれず、顔を伏せて嗚咽を漏らした。




「花蓮、奥の個室を貸りてもいいかな」


 少し間をおいて彼が口にした申し入れに、私は涙で濡れた顔を上げた。


「間もなく、ここに張緝ちょうしゅうが来る。彼と話をするのに使いたいんだ」


 そう彼が言い終わるのとほぼ同時に、敬仲けいちゅう様が難しい顔をして医室へ入ってこられた。


狗奴国くなこく王、お話とは何ですかな?」






「ど……どうぞ」


 私は袖で涙を拭い、彼らを奥の個室へと導いた。

 先に中へ入った男鹿(おが)が手を広げて促すと、敬仲様は「ふん」と鼻を鳴らして奥へと歩みを進め、どかりと椅子に腰をおろされた。


「もう、あなたとお話することはないはずだが」


 膝に肘をつき、落ち着きなく左右の指を何度も組み直しながら、敬仲様は苛立ちを含んだ瞳で若い王を見上げられた。

 机を挟んだ向かいの席に腰を降ろした男鹿は、落ち着いた様子で神経質そうな男の顔を見下ろしていた。

 自分をまっすぐ見つめる澄んだ瞳に、敬仲様は思わず視線を外された。




「あなた方は真実を知らないんだ」


 彼らに背を向け、戸を閉める私の耳に、男鹿の低く抑えた声が入ってきた。


「真実?」


 眉間に皺を寄せ、敬仲様が訊ね返されると、男鹿は大きく頷いて見せた。


「陛下は、前帝、明帝めいてい様の真の皇子です」


「は? 何をたわけたことを」


 男鹿の言葉に、敬仲様は椅子に仰け反り、右手を頭にのせて苦笑された。

 だが、そんな敬仲様から視線を外すことなく、男鹿は話を続けた。


張政ちょうせい殿が真実を語ってくれました。陛下は、間違いなく、曹家の血をひく皇家の皇子です」


「……ばかな……」


 真剣な男鹿の様子に、敬仲様の表情から笑みが消え、口元ががたがたと震えだした。


「歳が近い司馬懿しばい殿と張政殿は、若い頃から親しくされていたそうです」


 それは、私も初めて耳にする話だった。

 確かに陛下の後見人のお一人であった仲達ちゅうたつ(司馬懿)様と祖父は年が近い。

 だが、もう一人の後見人であった昭伯しょうはく曹爽そうそう)様に役人として仕えてきた祖父と、曹家に敵対する関係にあった仲達様が親しく交流していたなど、考えてもみなかった。


「明帝様は、ご自分の皇子が次々と夭折ようせつされることに危機を感じておられたそうです。おそらくそれも、皇家を絶やし、跡目を狙う者の仕業であったのでしょう。そのため、妾姫との間にお生まれになった陛下を、密かに遠縁の親族に預け、改めて養子として迎えられたそうなのです」


「……」


「その事実を知っていたのは、明帝様より、跡継ぎを護る手立てはないかとの相談を受けられた司馬懿殿と、彼に知恵を貸した張政殿のみ。そして、敵対勢力の手が及ぶことを恐れた司馬懿殿の計らいで、張政殿は倭国に派遣されたそうです」


 淡々と語る男鹿の言葉を、敬仲様は顔を真っ青にして聞いておられた。


「そのようなこと……にわかに信じられるものか。何を証拠に?」


 ようやく絞り出された声は震え、打ち合う歯の音と重なっていた。

 そんな敬仲様のお顔を冷ややかに見つめ、男鹿は大きく息をついた。


「陛下には同時に明帝様の養子となられた兄上がいらっしゃいました。なぜ、年長者である兄上ではなく、弟君である陛下が皇位を継がれることになられたとお思いですか?」


 男鹿の言葉に、敬仲様ははっと息を呑み、弾かれたようにその場に立ち上がられた。


「……ばかな……」


 同じ言葉を繰り返し、立ち尽くす敬仲様を見つめ、私も全身の震えを抑えることができなくなっていた。

 確かに、陛下には若くして亡くなられたお兄様がいらっしゃった。

 陛下が即位された時、その方は嫡男ちゃくなんでありながら皇帝ではなく、なぜか半島にある国、しんの王となられたのだ。

 お体が弱かったからと噂に聞いたことはあったけれど、実際に一国の王に立てられていることを思えば、それを理由とするのは不自然だ。

 でも、もしもその方こそが他所から連れてこられた養子であり、陛下が明帝様の実子であったとするなら……。

 私はもう、立っていることさえできなくなり、その場にへなへなと座り込んでしまった。


「司馬懿殿は死の淵で、陛下にその事実を告げられたそうです。ですから、陛下もこのことをご存知のはずです」


「それならなぜ、我々に袖を渡されたのだ!! 我こそが正統に皇位を継ぐ者と、あの時主張されればよかったではないか!!」


 敬仲様は男鹿を睨みつけ、怒鳴るようにそうおっしゃった。

 その目には涙が溢れ、お顔は真っ赤に染まっていた。

 男鹿は、動じた様子もなく、静かに取り乱す敬仲様を見つめていた。


「真に曹家の方だからこそ、代々仕えてきてくださったあなた方に、ご自分の命をもって恩を返そうとされたのですよ」


 そう言った男鹿の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。

 その言葉に、敬仲様は一瞬言葉を失い、呆然と宙を見つめられた。


「そんな……」


 敬仲様はそう言って、力が抜けたように再び椅子に腰を落とされた。


「そんな……もう遅い」


 両手で頭を抱え込み、肩を落とした敬仲様の声は涙混じりだった。


「既に、密詔みっしょうは記された……」





 その時、部屋の外から、がちゃがちゃと鉄の鎧がぶつかり合う音と、無数の足音が響いてきた。

 私たちが一斉に戸口の方へ目を向けると、そこに紅玉こうぎょくが飛び込んで来た。


「狗奴国王様! 医官様! 陛下のお部屋に子元様とその兵が……!!」


 私にすがりつき、彼女はそう言って泣きじゃくった。

 椅子から立ち上がった男鹿は、天幕を払いのけ、個室から飛び出して行った。

 その後を、敬仲様も、何度もつまづき、よろめきながら追って行った。




 泣き崩れる紅玉を部屋に残し、私が少し遅れて陛下のお部屋を訪れると、部屋の外も中も、武装した兵によって囲まれていた。


「待て!」


 室内に入ろうとする私の腕を兵士らが掴み、行く手を阻んだ。

 なおも、部屋に入ろうとあらがう私の耳に、皇后様の悲壮な声が響いた。


「やめて! 陛下の手を離して!!」


 その声に、私は上半身を伸ばし、なんとか戸口から室内に目を向けた。

 そこには、兵士らに両腕を掴まれた状態で腰をおろす陛下と、同様に兵らに抑えられながらも、陛下に近付こうと身を乗り出しておられる皇后様のお姿があった。


「……陛下……!」


 陛下は、腕を抑えられながらも、抵抗する様子はなく、目を閉じて静かに座っておられた。

 おふたりから視線を外し、室内を見回すと、男鹿と敬仲様も、兵によって取り押さえられ、布によって口を塞がれていた。

 泣きながら室内を見つめる私の目の前を、鎧を身に纏った中年の男が通り過ぎて行った。


「子元様……」


 髭を蓄えた恰幅のよいその男は子元様だった。

 子元様は、ずんずんと奥へと歩みを進め、陛下の膝の前でぴたりと足を止められた。

 ご自分の頭上を覆う影に気付かれた陛下は、目を開けてゆっくりと顔を上げられた。


「陛下。これに見覚えはありますかな」


 子元様は懐から白い布を出し、それを広げて陛下の眼前に示された。

 それは、先日陛下が敬仲様に渡された内着の左袖だった。

 そこには、赤黒く変色していたが、血と思われるもので、文字が記されていた。


 龍の刺繍のある袖に血で書かれた文字。

 それが皇帝の勅命が書かれた密詔であることは、誰の目にも明らかだった。

 あの日、敬仲様が陛下から受け取った内着の袖に、何者かが血で文字を書いたものだろう。


「司馬師と弟の司馬昭しばしょうが国を奪おうとしている。みな決起して逆賊どもを討滅せよ。ここにはそう書かれている」


 陛下の前で仁王立ちされた子元様は、布を何度もはためかせ、わざと声を張り上げておっしゃった。


「この龍の刺繍のされた袖は、どなたのものかな」


 知らぬはずはないのに、とぼけるようにそうおっしゃる子元様から、陛下はすっと視線を外された。


「いかにも、それはちんの内着の袖である」


「違います!!」


 陛下の言葉を、皇后様の叫ぶような声が遮った。

 皇后様は兵らに取り抑えられながらも、子元様に食い掛らんばかりに顔を突き出しておられた。


「それは、私が書きました!!」


香蘭こうらん!」


 皇后様の発せられた言葉に、陛下はお顔を上げてたしなめるような表情をされた。


「ほう」


 そんなおふたりを交互に眺め、子元様は口元を歪めて笑われた。


「私が父と画策して陛下のお部屋から持ち出し書きました! 陛下は何もご存知ありませぬ!!」


 子元様は必死に訴えかける皇后様のそばへ近付いて行くと、小さな顎を持ち上げ、にやりと笑われた。


「先に捕えた夏侯玄かこうげん李豊りほうより、張緝が首謀者であると聞き出している。この女は張緝の娘。生かしておくわけにはいきませぬなあ」


「香蘭は関係ない!!」


 それまで腰を降ろしておられた陛下は、そう声を荒げて立ち上がろうとされた。

 だが、両腕を掴む兵らによって、その体は再び床に押さえ付けられた。


「連れて行け!」


 子元様が手を振られると、兵らが皇后様の小さな体を抱えるように戸口へと運んで行った。


「陛下!!」


「やめろ! 裁くなら朕を裁け!!」


 兵らに押さえられながらも、陛下は必死に叫び続けておられた。


「陛下!!」


 兵らの足音に混じり、陛下を呼ぶ皇后様の声が遠退いていった。


「香蘭!!」


 陛下はその声に答えるように、戸口に向かって顔を突き出し、皇后様のお名前を叫び続けておられた。


 完全に皇后様の声が聞こえなくなり、うなだれる陛下の前に、再び子元様が近付いて行かれた。

 そして跪かれた子元様は、腰から刀を引き抜き、鞘で陛下の顎を持ち上げられた。

 そこには、憎しみに歪み、血走った陛下の瞳があった。

 そのお顔を見て、子元様は、ふんと鼻を鳴らされた。


「少数とはいえ、この朝廷内にはまだ皇家に忠誠を誓う者もある。あなたを亡き者にすれば、新たな憎しみを生み、後々厄介だ。せいぜい生きて地獄を味わっていただこう」


 そう言って子元様は鼻面を寄せた陛下のお顔に、唾を吹きかけられた。

 しぶきに一瞬目を閉じ、そむけられた陛下のお顔が、強引に刀の柄で押し戻された。


「大切な者が苦しむ姿を、その目でしかと見るがいい」


 子元様の言葉に、陛下の目が大きく見開き、お顔からみるみる色が消えて行った。


「まずは皇后。……そして」


 立ち上がりながら体をねじり、手にされた刀の刃先が狙いを定めるかのように宙をさまよった。


「次はあの女」


 冷たく光る細い目と、刃の先は、私の方へと向けられていた。

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