第十三話 残酷な陰謀
これまで皇太后様の後ろ楯により、朝廷内で幅をきかせてきた子元様であったが、今回の戦に敗れたことで、その立場が大きく揺らぐ結果となった。
そして、これを契機と敬仲様は子元様へ強く責任を追求され始めたのだ。
皇后様の父でありながら、これまで劣勢であった敬仲様の反撃は、容赦のないもので、子元様の失脚の日も近いのではとの噂まで朝廷内に飛び交った。
そして、とうとうある日、陛下の前で、二者が顔を揃え、今回の戦の責任の所在が追求されることとなった。
その日私は、同じ宮殿内の皇后様のお部屋にいた。
皇后様から、審判がくだされるまで一緒に過ごして欲しいと直々にお願いされたのだ。
「陛下は、ご無事でしょうか……」
震える手で私の腕を強く掴みながら、皇后様は不安気に問いかけてこられた。
皇后様の心配は、父である敬仲様にではなく、陛下に向けられていた。
「父は、司馬師の提案を受け入れられた陛下をも責めるつもりです」
涙を溜められる皇后様の肩を、私は引き寄せ、強く抱きしめた。
皇后様は、幼いなりに父である敬仲様の思惑を肌で感じておられるのだ。
敬仲様は、子元様を失脚させるだけでなく、今回の負け戦への出兵を決断された陛下の責任も追求し、それを盾に陛下の後見人となって、権力を欲しいままにされるおつもりなのだ。
それを知った皇后様は陛下の身を案じ、胸に大きな不安を抱え、耐えきれず私を呼ばれたのだ。
突然、部屋の外から人々の叫び声が響いた。
と、同時に、部屋の前の廊下を、使用人たちが何かから逃げるように駆け抜けて行くのが見えた。
私は皇后様に、その場を離れぬよう伝えて立ち上がると、戸口から外を見渡した。
すると、同じ並びにある陛下のお部屋の方から、唸るような声と、重い物を倒すような激しい物音が響いてきているようだった。
逃げ惑う人々の波に逆らって、私は壁を手で這うようにして音のする方へと近付いていった。
やはりその物音は、陛下のお部屋から聞こえていた。
恐る恐る、開け放たれた戸口から部屋の中をのぞき、私は驚きのあまり、その場に凍り付いた。
そこには刀を振り回し、片っ端から室内の調度品に斬りつけておられる陛下のお姿があったのだ。
天幕は裂け、室内に飾られていた年代ものの壷は砕かれ、床の上に無惨に散らばっていた。
切り裂かれた寝具から飛び出した羽毛が、宙を舞う中、なおも吠えるような声をあげながら、陛下は刀を上下左右に振り回し、柱や家具に斬りつけておられた。
「陛下!」
戸口から私が呼びかけると、陛下の動きが止まり、狂気を孕んだような瞳が私を捕えた。
乱れた髪の間からのぞくその目には涙があふれ、頬を濡らしていた。
そして次の瞬間、刀を片手に握りしめた陛下は、血走った目を私に向けたまま、こちらに近付いてこられた。
その恐ろしく悲し気な形相に、動けなくなった私のそばまでこられた陛下は、強く私の右手首を掴まれた。
「来い!」
そう言って陛下は、私を引きずるように外廊を早足で歩き始められた。
そんな私たちの姿を、役人や使用人が遠巻きに見ていた。
しかし、尋常でない陛下のご様子に、誰も制止するどころか、声さえ掛けることができないようだった。
そんな周りの視線などまるで目に入っていないご様子の陛下は、そのままずんずんと歩みをすすめ、私の部屋の前まで来ると、室内に私の体を突き飛ばされた。
横滑りするように床に伏した私に近付くと、陛下は刀を力一杯振り下ろし、床に突き立てられた。
そしてそのまま私の上へ乗りかかると、私の衣の襟元を引き裂くように大きく開かれた。
「すまなかった。
しばらくして落ち着きを取り戻された陛下は、そう言って横たわる私の首元に顔を埋められた。
あのあと、私は陛下に乱暴に抱かれた。
けれど、このようなことは初めてではなかったので、私は逆らうこと無く、陛下に身を委ねた。
ただ、このお方の悲しみを受け入れて差し上げたい。
そう思い、痛みにも耐えた。
「すまない……」
身を震わせ、何度も繰り返す陛下の髪を撫で、私は首を小さく左右に振った。
「お話ください。何がこれほどまでにあなた様を苦しめたのですか?」
私の言葉に、陛下は伏せていた顔をあげ、私の瞳を見つめられた。
そして、大きくため息をつかれるとゆっくりと起き上がり、壁際にもたれかかるように座られた。
そして、ぽつりぽつりと、今日あった出来事をお話され始めたのだった。
陛下が謁見部屋に入られた時、既に敬仲様と子元様、そして子元様の弟で今回の戦で
そして彼らの背後には、
部屋の両脇に大臣たちが居並ぶ中、陛下が玉座につかれるやいなや、口火を切ったのは敬仲様だったという。
「陛下、どうぞ司馬師に厳重なる処分を。呉相手に十万もの兵を失ったのは、準備不足にも関わらず、出兵を急いだこの者の責任です」
敬仲様は、必要以上に大きな声を張り上げて、そう陛下に進言されたという。
それから敬仲様は、こうこうとご自分の正当性と、子元様の無能さを語り始められた。
時期早々であるとの自分の忠告を無視し、戦を急いだこと。
弟の子尚様に全権を委ね、己の役目を怠ったこと。
今回の戦を提言しながら、深酒に溺れ、多くの兵を失って帰還した公休様は、血の気を失った表情で、終始唇を噛み締めておられたようだ。
周りの大臣たちも、何度も頷き、その場は敬仲様の独壇場と化していたという。
「司馬師よ。お前の言い分も聞こう」
敬仲様のお話を押し黙って聞いている子元様に、陛下はそうお訊ねになった。
結果的に子元様の意見に同意された陛下は、この時、少しでも今回の戦を正当化できるような答えを求めておられたに違いない。
「少なくとも、東興で十万もの兵を失った諸葛誕の首は、はねねばなりますまい」
子元様の答えを待たず、敬仲様がそうおっしゃり、公休様は一層顔を青くして身を固められたはずだ。
「いえ。私が張緝殿の
間もなく、ずっと何かを考え込んでおられる様子であった子元様が、落ち着いた口調でそうおっしゃった。
その言葉に、公休様をはじめとする各武将は、一斉に驚きの表情を彼に向けた。
「まずは、総責任者であった我が弟、司馬昭の官位を返上させましょう。もちろん、私自身もどのような処分もお受けする覚悟でございます」
神妙な様子で子元様がそうおっしゃると、にわかにその場はざわついたという。
「将軍様に責任はございませぬ! 我々が相手を見あまったのが敗因でございます!」
「そうです。酒の欲に溺れ、統制を失ったのは我らの心の弱さゆえ!」
武将たちは、自分たちの罪を被るかのような発言をされた子元様に恩を感じ、次々に陛下へそう訴えかけられた。
すると、そんな武将たちのほうに向き直り、今度は子元様が彼らを制止するように強い口調でおっしゃった。
「お前たちは黙っておれ。弟の能力を過信し、監督を怠った私が愚かであったのだ。司馬昭さえしっかりとしておれば、お前たちも気を緩めることもなかったであろう」
互いに庇い合う彼らの姿に、大臣たちの中にも、同情のような念が芽生えはじめ、いつしか、その場の流れは、子元様を擁護する方へと変化していった。
そんな空気を徐々に感じ、敬仲様は言葉を失い、悔し気にきつく唇を噛み締められていかれたという。
結局、
寸でのところで首がつながった武将たちは、改めて子元様に対し、その場で絶対の忠誠を誓ったという。
「……美しい主従愛のお話のように伺えますが……?」
事の次第を聞き終えた私は、首を傾げて陛下に訊ねかけた。
確かに一人で責任をとる形となった子尚様はお気の毒だけれど、誰も首をはねられることなく、私には極めて穏便にことが片付いたように感じられたのだ。
とてもこの出来事が、先ほどの陛下の激高を招いたとは思えなかった。
「のちに聞いた話に寄ると、諸葛誕の陣に酒を送ったのは、司馬師であったというのだ」
「……」
「司馬師は、これまで幾度も諸葛誕と共に戦に赴いている。
「……まさか」
恐ろしい想像が脳裏をかすめ、私は思わず身震いした。
「そして、司馬師は司馬昭と意見を違わせ、弟を煙たがっていたらしい」
あまりの恐ろしさに、私は陛下の胸に頬を寄せるようにしてしがみついた。
そんな私の肩を抱き寄せた陛下の手にも力がこもっていた。
「司馬師は、最初からこの戦に負けるつもりだったのだ。そのために東興の陣に大量の酒を送ったのだ。戦に負けることで目障りな弟を失脚させ、同時に武将たちに恩を売って信頼を得るために」
私は思わず声にならない声をあげ、口元を手で覆った。
そんな私の肩を抱く陛下の手にも、一層力が入った。
「己の権力を絶対的なものにするため、やつは十万もの兵を見殺しにしたのだ」
「……」
「そのような企みがあるとも知らず、
私は立ち上がって、陛下のお顔を自分の胸に押し付け、強く抱きしめた。
私の背の衣を握りしめる陛下の手が震えていた。
私は陛下の髪に頬を寄せて涙を流した。
「……なんてひどい……」
知らなかったこととはいえ、子元様の意見を受け入れ、決断を下されたことによって、十万もの兵が苦しみ、命を落としたと聞いては、とても平常心ではいられまい。
どんな言葉なら今の陛下を癒せるのか、私にはわからなかった。
ただ、己の体を投げ出して、全身で陛下の悲しみと怒りを受け止めることしかできなかったのだ。
つらい現実を忘れるかのように、陛下と私は幾度も愛し合った。
やがて気を失うように眠りにつかれた陛下を残し、私はひとり部屋を出た。
いつしかすっかり陽は暮れ、月明かりを頼りにあてもなく歩いているうちに、私は何かに引き寄せられるように、
陛下の怒りと悲しみを受け止めて重くなった心の中身を、一刻も早くどこかで吐き出したかった。
そう思うと、なぜか無性に男鹿に会いたくなったのだ。
夜の池に彼が現れるはずはないと思いながらも、どこかで期待していた私は、ひとけのない池の端にたたずみ、大きくため息をついた。
相変わらず冬の池は荒涼とし、墨のような水面に映る満月だけが、青白い光を放っていた。
「花蓮?」
不意に背後から忘れようのない声が私の名を呼んだ。
振り向くと私の目に、月明かりに光を放つ、涼し気な瞳が飛び込んできた。
「何かあったのですか? こんな時間にひとりきりで……」
心配そうに私を見つめる男鹿の顔を見ていると、私はたまらなくなって、彼の胸に飛び込み、陛下より細いその体を強く抱きしめた。
と同時に、抑えていた感情と涙が、私の中から一気に溢れ出した。
「泣いていてはわからない。何があったのか話してください」
しばらく黙って胸を貸してくれていた彼は、そう言って私の両肩に手を置き、少し体を離すと、顔を覗き込むようにして問いかけた。
体が離れた瞬間、襟の大きく開いた私の胸元を月明かりが照らした。
そこにあるものを見つけた私は、素早く彼に背を向け、両手で襟を寄せてきつく握りしめた。
「花蓮?」
「近付かないで!」
私は衣を掴んだ拳を胸に押しあて、彼を拒絶するようにそう叫んだ。
その拳の下の肌には、陛下が残された唇の痕が残っていたのだ。
それを彼には絶対に見られたくなかった。
「私は……汚れてるから……」
私は泣きながら首をもたげ、小さな声でつぶやいた。
背を向けていても、彼の視線が私に注がれていることは肌で感じていた。
でも、その視線を感じるほどに、胸の痕を見透かされているような気がして、いたたまれなくなった。
一層、胸元を見られまいと、背を丸める私の体を、細い腕が背後から抱きすくめた。
「……あなたは、汚れてなどいない」
耳元で愛しい人の声が、絞り出すようにそうささやいた。
「やめてよ。愛してなどいないくせに……!」
私は必死に
「愛じゃないと思う。……でも、こんなに心をかき乱された人は初めてだ」
耳元にかかる彼の息が熱っぽくて、全身から力が抜け、意識をしっかり保っていなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「やめてよ……」
力なく何度もつぶやく私の体を、彼はいつまでも強く抱きしめ続けていた。
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