第二十一話 最後の条件

 それから数日間、私は自分がどう過ごしていたのか記憶がない。

 ただ、来る日も来る日も、自分自身に向かって答えの出ない問いかけを延々と繰り返していた気がする。

 皇后様のお腹に芽生えた、陛下の血を引き継がれる大切な命。

 そして、愛しく思う人のかけがえのない命。

 そのいずれを選ぶべきか。

 そんな惨過ぎる問いかけへの答えなど、どれだけ考えても見つかるはずはなかった。



 そんなある日、旅の様相をした祖父が、私の部屋を訪ねて来た。


「少しやつれたのではないか?」


 ここ数日、食がまともに喉を通らず、深く眠る事もできなかったため、おぼつかない足取りで出迎えた私を、祖父は心配そうに見下ろした。


「少し風邪気味のようで……」


 私は、袖口で口元を隠し、祖父から目を逸らしてそう言った。

 身を裂く程の苦しみの理由わけは、口に出すのも恐ろしく、祖父にも打ち明ける事ができなかった。


「わしは、皇太后様より東海王様のご子息、彦士げんし曹髦そうぼう)様に学問を説いてくるよう命じられた。わしが帰るまでにしっかり養生しておれよ」


 祖父の言葉を聞いて、私はうなだれていた頭を思わず引き上げた。

 皇太后様がなぜ、医学に詳しい祖父を遠方に派遣されたのか、その意図を察したからだ。

 皇后様が薬を飲まれた際、適宜な治療が行えないよう、専門的な知識を持つ祖父をこの地から遠避けられたのだ。

 このことにより、皇太后様が計画を実行される日が近い事を悟り、私は身を震わせた。


「お爺様、肉豆蔲ニクズクにはどのような副作用がありますか?」


 震える声で尋ねた私の顔を、祖父は一瞬息を呑み、目を見開いて見つめた。


「お前……まさか、陛下のお子が……?」


 私が口にした果実の名から、祖父はそれが何の目的で用いられるものなのか、瞬時に理解したのだ。


「いえ、風邪のせいか、最近食欲が無く、吐き気もしますので……」


 目を逸らし、語尾を濁す私に、祖父の痛い程鋭い視線が向けられた。

 肉豆蔲は桃に似た果実で、その種子は胃腸薬として用いられる。

 しかし、中絶を望む妊婦には堕胎薬として処方されることで知られているものなのだ。

 おそらく、祖父は私が陛下の子を宿したと思ったのだろう。


「待て、早まるな。あれは大量に服用すると痙攣けいれんや幻覚が生じる危険な薬じゃ。副作用の少ない薬を用意してやるから、飲むならそれを飲みなさい」


 明らかに私の言葉を信用していない、怪訝な表情を浮かべて祖父はそう言い、調薬するため慌てて部屋を出て行った。

 そんな祖父の後ろ姿を呆然と見送り、私は懐から黒い小袋を取り出すと、それをじっと見つめた。

 皇后様のお腹のお子を流すため、皇太后様から渡されたこの薬は、おそらく肉豆蔲だろう。

 しかも、堕胎を促す目的なら、かなり濃度の高いものが入っているはずだ。

 そんなものを、まだ大人になりきっていない皇后様のお体に投与すれば、そのお命まで危ぶまれる。

 この薬によって、私はお腹のお子だけでなく、皇后様の命までもおびやかそうとしているのだ。

 改めてその恐ろしさを知り、私は身を震わせ、その場に突っ伏して涙を流した。





 祖父が旅立った翌日、皇太后様のお部屋へ参上するよう、遣いの方が伝えに来られた。

 名目上は、陛下と皇后様をお誘いして茶会を開くというものであったが、私はいよいよこの日が来たと腹をくくった。

 紅玉を連れて、私が皇太后様のお部屋を訪ねると、そこには既に子元しげん様がいらっしゃった。

 私の顔を一瞥いちべつされた子元様は、にやりと不敵な笑みを浮かべ、皇太后様に向かって目配せをされた。


「今日の茶はそなたがてよ」


 扇子で口元を隠された皇太后様はそう言って、私に茶盤ちゃばん(中国茶をいれるための台)の前に座るよう目で促された。

 小さく頷いた私が腰を降ろした時、陛下と皇后様がお部屋に入っていらした。

 皇后様より先に入っていらした陛下は、私と目が合うと、そのままじっと見つめられた。

 思わず目を逸らした私が茶壷ちゃふう(急須のようなもの)に湯を注ぎ始めると、陛下は皇后様のほうへ振り返り、手のひらでここへ座れと合図された。

 その所作に嬉しそうな笑みを浮かべられた皇后様は、先に座られた陛下に寄り添うように腰を降ろされた。

 茶壷の湯を捨てながら、横目で皇后様の様子をうかがって、私は思わず息を呑んだ。

 しばらくお見かけしない間に、皇后様は幼い少女から美しい女性に変貌を遂げておられた。

 大きな黒い瞳は潤んで無数の光を放ち、陛下と言葉を交わすたびにほころぶ唇は、花弁のように可憐だった。

 これが愛する人の子を宿した女の、幸せに満ちた表情なのだろうか。

 そんなことを考えると、理由わけも無く私の胸はきゅうと縮むような痛みを覚えた。


「今日はこの者が茶を点ててくれまする」


 皇太后様がそうおっしゃると、皇后様は、両手のひらを胸の前で合わせて花が咲くような笑顔を浮かべられた。


「まあ、嬉しい。花蓮ファーレンさんの入れてくださるお茶は絶品ですもの。ねえ、陛下」


 そう言って皇后様は、陛下の腕を抱き、桃色に染まった頬をすり寄せられた。

 私はこぼれそうになる涙を必死に抑え、微かに笑みを浮かべて静かに礼をした。


 暖まった茶壷に茶葉を投入し、少し高い位置から湯を注ぐと、一気に白い湯気が視界を遮った。

 用意された茶器は五つ。

 陛下と皇后様、そして皇太后様と子元様、五つ目は私の分だ。

 周りの世界から湯気に隔たれた空間で、私は震える手でそっとそのひとつに薬を入れた。





「うまい」


 茶器を口に運び、一気に飲み干された陛下は、そう言って私に満足げな笑顔を向けられた。


「本当、いい薫りですね」


 茶をひとくち飲んで、陛下を見上げられた皇后様のお顔に、皇太后様と子元様の視線が集中した。


「皇后様……ご気分は?」


「?」


 皇太后様の問いかけに、皇后様は不思議そうな表情を浮かべられた。

 そのお顔に、皇太后様は珍しく慌てた様子で子元様の方に振り返られた。

 首を傾げる子元(しげん)様に、皇太后様は何かに気付かれたように、はっと目を見開き、私の方へ視線を移された。


「そなた……!」


 皇太后様が叫ばれた瞬間、私は茶を喉に流し込んだ。

 直後、痛みを感じる程の痺れが舌の上を走り、胸に灼熱感を感じた。

 顔から頭部にかけて一気にのぼせたように熱くなり、目の前の光景が大きく歪み、座っていられなくなった私はその場に倒れ込んだ。


「花蓮!」


 遠退く意識の中、私の異変に気が付かれた陛下が立ち上がり、駆け寄って来て下さるのが見えた。

 呼吸がままならず、ひいひいと息を荒げる私をうつ伏せに抱き上げ、陛下は背中を上下に激しく摩られた。


「吐け! 花蓮! 腹の中のものを吐き出すんだ!」


 陛下の膝で腹部を圧迫された私は咳き込み、嘔吐した。


「頼む! 花蓮! 全部吐き出してくれ!」


 薄れてゆく意識と視界の中、涙混じりの陛下の声が遠退いていった。





 気が付くと、私は自分の部屋のしとねの上に横たわっていた。

 何かを磨りつぶすような音が遠くに聞こえ、そちらに顔を向けると、天幕の向こうに人影が見えた。

 どうやら医者らしき男が、薬研やげん(薬種を細粉する道具)で薬を砕いているようだ。


「あ……」


 私が小さく声を上げると、人影は動きを止め、こちらに近付いてきた。

 やがて天幕を捲り、そこに現れた男の顔を見て、私は目を見開いた。


「なぜ、あなたが……?」


 そこには眉間に皺を寄せた男鹿おがが立っていた。

 彼は上下に分かれた麻製の作業着を身に着けていたが、髪を小さくまとめ、身綺麗な姿をしていた。


「直後に陛下が吐き出させて下さらなかったら、命を落としていましたよ」


 そう言って彼は、顔をしかめたまま、大きくため息をついた。


「それにしても、なぜ附子ぶし(トリカブト)なんて……」


 男鹿は捲っていた袖を伸ばしながらそう言って、褥のそばに置かれた椅子に腰を降ろした。


「附子? 肉豆蔲ではなかったの?」


 目を丸くして問いかける私を、彼は睨むように見つめた。


「肉豆蔲?」


 私ははっとして慌てて口元を抑えたが、医者としても優秀な彼が、その名を知らないはずはなかった。


「……まさか……子が……?」


 目を見開き、そうつぶやく彼の顔からは色が失われていた。


「違う! 私じゃない!」


 咄嗟に私は、声を荒げて否定した。

 陛下の子を身ごもったと、彼に誤解されるのが耐えられなかったのだ。

 だがそれは、彼を真相に気付かせるきっかけとなる愚かな行為であったと気付き、再び袖で口元を覆った。


「……どういうことなのか、説明してください」


 真顔に戻った彼は、そう言って冷たい目で私を見下ろした。

 その視線から逃げるように、私は寝返って彼に背を向けた。


「……まさか、皇后様に……? それを誤って飲んだのか?」


 もうひとつの可能性を導きだした彼の言葉に、私は布団を深く被り、背中を丸めた。


「皇太后様の思惑ですね」


 いきなり確信を突いて来た彼の言葉に、私はびくりと肩を震わせた。


「でもなぜ? あなたがそんな恐ろしいことを……?」


 私の様子に確信を得た彼は立ち上がり、肩に手を掛け、激しく揺さぶって問いつめるようにそう言った。

 何も言えない私は涙をこぼし、両手で耳を覆って激しく首を振った。


「男鹿様のためです!」


 一層身を縮める私に問いただそうとする彼の声を、涙混じりの少女の声が遮った。


「皇后様に薬を盛らなければ、男鹿様の命がないと皇太后様に迫られ、どちらの命も守りたい奥様は、ご自分がその薬を飲まれたのです!」


 その声は紅玉こうぎょくだった。


「北の池での奥様と男鹿様の姿を皇后様がご覧になっていて……! 皇太后様に、そのことで罪に問うと言われて……!」


 叫ぶように一気にまくしたてた彼女は、直後わっと声をあげて泣き出した。


「紅玉!」


 その泣き声に私は身を起こし、彼の前に立ちふさがるように立つ少女の体を抱きしめた。

 私にすがり、全身を震わせて泣く少女の肩越しに男鹿を見ると、潤んだ視界の向こうで彼は呆然と立ち尽くしていた。

 やがて、力が抜けたように再び椅子に腰を降ろした彼は、爪を立てて頭を抱え、肩を震わせ始めた。


「やはりあなたとは、もっと早い時期に距離をとっておくべきだった……」


 絞り出すような声でそう言い、男鹿は拳で自分の額を何度も打ち付けた。


「私がとった軽率な行動のために、もう少しであなたの命を失うところだった」


 彼の声は震え、語尾は涙混じりにかすれて聞こえた。

 私は紅玉を抱いたまま、うなだれるその姿に見入っていた。





「失いたくないと思うなら、お前が守ってやれ」


 突然室内に響いた低く通る声に、私たちは一斉に振り返った。

 すると、いつの間にか大きく開け放たれた天幕の向こうに、陛下のお姿があった。

 驚く私たちのそばへ近付いてこられた陛下は、男鹿の正面で足を止められた。

 ゆっくりと立ち上がった男鹿は、赤く染まった瞳で陛下を見つめた。


「この者をお前の国に連れて行ってやってくれ。それがお前を王として認めるための最後の条件だ」


 目を大きく見開き、小さく首を左右に振る男鹿を、陛下は睨むように見つめられた。


「いい加減認めろ。お前も花蓮に惹かれている」


 思いがけない陛下のお言葉に驚き、私と紅玉が男鹿の顔を見上げると、彼は唇を震わせ、床の上に視線を落とした。

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