第二十二話 同じ未来を見つめる者
しばらくして
「彼女に惹かれていることは事実です」
落ち着いた口調でそう言う彼の横顔を、私ははっと息を呑んで見上げた。
一瞬、無表情にも見えたが、よく見れば涼し気な目元には力が込められていた。
そんな彼の視線を、陛下も口を固くつぐみ、睨むような目で受け止めておられた。
「彼女にはこれまで、あらゆる場面で、心が通じ合えると感じてきました」
男鹿は、ひと言ひと言噛み締めるように話を続けた。
そんな彼の言葉に、私の呼吸は大きく乱れ始めた。
『心が通じ合えると感じてきた』
彼も同じような想いを抱いてくれていたのだと思うと、素直に嬉しさが込み上げた。
「でも、だからと言って、互いに同じ未来を見ているかどうかは別の話です」
その言葉に、胸の辺りから沸き上がっていた熱は、一気に温度を失った。
私の中で行き場を失った熱は、目頭に集まり、涙に変わって頬をこぼれ落ちた。
「彼女もひとりの人間です。意思や希望もあるでしょう。それを聞こうともなさらずに、大切な者を手放すおつもりですか?」
陛下の顔色が明らかに変わられた。
ただでさえ大きな瞳が、一層大きく見開かれ、噛み締められた唇は、小さく震えておられるように見えた。
「お前になにがわかる……」
ようやくその唇が薄く開かれたとき、絞り出すような声で陛下はつぶやかれた。
眉間には深い皺が刻まれ、その下の瞳は、赤く染まって潤んでいた。
「私には、あなた様の苦しみはわかりませぬ」
小さく首を振り、男鹿はため息混じりにそう言った。
直後、再び陛下のお顔を見つめる彼の瞳には、一気に熱情がこもったように見えた。
「けれど、地下牢の私のもとへ自らおいでになり、地に膝を付いて、彼女の命を救って欲しいと訴えられたあなた様の想いは、伝えないままでよろしいのですか?」
一気に言い放った男鹿の言葉は、最後には激しく、怒鳴っているかのように聞こえた。
地に膝をついて?
この国の頂点に立たれる皇帝である陛下が、罪人として捕えられていた彼に向かって……私を救うために?
こんな私を、皇帝としての誇りもかなぐり捨てて、救おうとしてくださったというの?
私は両手で口元を覆い、背中を丸めて一気に泣き崩れた。
「奥様!」
私の気持ちを察した
私は彼女の腕の中で、上半身を折り曲げ、声をあげて泣いた。
男鹿への想いと、陛下への想い、そして陛下が与えてくださった愛情が私の中で入り交じり、心が激しく乱れ、留まることなく涙が溢れた。
「この先、
涙混じりに聞こえた言葉に、私が顔をあげると、目を伏せて唇を噛み締める陛下のお姿があった。
やがて、黒い衣の袖を翻し、背を向けられた陛下は、そのまま戸口へと向かって行かれた。
『行かないで』
心の中でそう叫び、私は腕を伸ばした。
けれど声にならない叫びに気付かれるはずもなく、いつもより小さく見える背中は戸口の向こうの闇へと消えていった。
「あなたの容態がもう少し落ち着けば、私は
しばらくして私の方へ向き直った男鹿は、穏やかに微笑みながらそう言った。
彼の言葉に、紅玉は、一瞬顔色をうかがうように私の顔を見つめた。
そして、落ち着きを取り戻した様子に、ほっとため息をつくと、気を利かせたのか、静かに天幕を閉じて出て行った。
「南安へ……」
その地に男鹿を戦力として送るつもりであるということも……。
「先に戦地に行かれた
おそらく彼の南安行きは、私の治療を理由に保留になっていたのだろう。
このままここに留まることも可能かと思われたが、彼の性格上、父親代わりという男の友人である
「私が帰るまで、ゆっくり考えればいい。共に倭国へ渡るかどうか」
優しい笑みを浮かべながらそう言う男鹿の顔を見て、私は少しいじわるを言ってみたい気持ちになった。
「陛下は私を倭国へ連れて帰る事を、王として認める最後の条件だとおっしゃったのよ。必然的に答えは決まっているんじゃないの」
男鹿は一瞬、目を見開いて言葉を失ったが、再び穏やかに笑った。
「自分の目的のためにあなたを利用するつもりはない。あなたに振られたら、他に認めてもらえる方法を考えるよ」
頭を掻きながら、屈託のない表情を浮かべる彼の顔を見て、私は大きくため息をついた。
妾の立場である私の意思を尊重しようとするなんて馬鹿げてる。
この国では、妾は買われた人間に従うのが当然で、選択権など認められることはあり得ないのだ。
けれど、私のため息を誘った理由は、それだけではなかった。
「よく言うわ。ついさっき、私の事を振ったくせに」
軽く睨み、そう言う私に、彼は首を傾げて不思議そうな表情を見せた。
心当たりが見つかりそうにない彼の様子を見て、私は再び大きくため息をついた。
「心が通じ合えると感じていても、同じ未来を見ているかどうかは別の話。それがあなたの本心でしょ?」
自分の発言の真意に今初めて気が付いたらしく、目と口を丸くした彼の顔に、私は思わず吹き出してしまった。
「結局、あなたが同じ未来を見ているのは、ずっと
そう言いながら、なぜか頬を流れた涙に、私は驚いた。
哀しい訳でも、嬉しい訳でもないのに、流れ落ちるこの涙の
でも、流れる涙とは裏腹に、私の心は、これまでになく清々しさに満ちていた。
「私もそうかもしれない。同じように手の届かない人を愛するあなたに惹かれて……。でも、この先の人生を、そばで見届けたいと思う相手は、あなたじゃない」
涙を流しながら見上げる私を、男鹿も潤んだ瞳で見つめていた。
私は
「これまでありがとう。やっと、自分の本当の気持ちがわかった」
一瞬戸惑い、身を固くしていた男鹿は、私の言葉に、ふっと力を抜き、優しく抱き返してくれた。
皮肉だけど、彼と向かい合って抱き合ったのはこれが初めてだった。
『一生忘れない』
私は自身にそう言い聞かせながら、もう二度と嗅ぐ事がないであろう彼の匂いを、大きく胸に吸い込んだ。
男鹿の体からは、先ほどまで磨りつぶしていた薬草と、いつも書物を手にしているからか、微かに墨の匂いがした。
「
耳元で男鹿が小さく、けれど強い口調でつぶやいた。
彼の腕の中で、私は黙ったまま、何度も何度も頷いた。
それからしばらくして、男鹿は南安へと旅立って行った。
陛下のおそばに留まることを心に決めた私だったけれど、あの日以来、陛下が私の部屋へお越しになることはなかった。
『会いたい』
いくらそう思っても、妾の私からそのようなことを口にできるはずもなく、ただ、陛下がお越しになる日をお待ちするしかないつらい日々が続いた。
そんなある日、思いがけず、皇后様が私の部屋へいらっしゃった。
突然の訪問に、驚きながらも私が上座へと案内すると、皇后様は唇を噛み締め、おずおずとした様子で歩みをすすめ、ぺたりと腰を降ろされた。
「その後、体調はいかがですか? 御子は順調にお育ちですか?」
私がそう訊ねかけると、皇后様はびくりと肩を震わせ、膝に置いた拳を固く握りしめられた。
「皇后様?」
再び訊ね返すと、皇后様はいきなり、床に顔を伏せてわあっと泣き声を上げられた。
「どうされたのです?」
戸惑う私に、皇后様は泣きながら、何度も同じ言葉を繰り返された。
「ごめんなさい。ごめんなさい。私……!」
幼子のように泣き声を上げられる皇后様の背後に回り、私は背中をさすって、なんとか落ち着いていただこうと声を掛けた。
「そのようにお腹を圧迫されましたら、御子に触ります」
腿と胸に押しつぶされているお腹が心配になり、身を起こしていただこうと私は皇后様の腕を持ち上げた。
少し身を起こされた皇后様は、今度は勢い良く私の胸に飛び込んでこられた。
「ごめんなさい。子どもができたというのは嘘だったの!」
「え?」
皇后様の言葉に、私は一瞬言葉を失った。
「私こそが陛下の妻であると認めていただきたくて……!」
その後一層大声を上げて泣き始めた皇后様の背中を、私は摩り続けた。
私にしがみついて泣く皇后様は、まさに幼い少女そのもので、その様子にはいじらしさが感じられた。
「紅玉から聞いたの。私を庇って、あなたが薬を飲んだことを」
思わず私は、戸口のそばに控える紅玉を責めるように睨んだ。
年の近い彼女が、時折、皇后様に呼ばれてお話相手になっている事は知っていたけれど、このようなことまで話しているとは予想外だった。
「しかも、堕胎薬だと聞かされていたその薬が、毒薬であったことも!」
私がさっきより怒りを込めて紅玉を睨むと、彼女は大きくうなだれて顔を伏せた。
それから私は、皇后様のお顔を覗き込むように見つめ、震える肩にそっと手をかけた。
「どうぞ、お気になさらずに。私が勝手にした事ですから」
「ごめんなさい。ごめんなさい。こんなことになるなんて、私……!」
いつまでも謝罪の言葉を繰り返し、泣き続けられる皇后様に、私はどうすればいいのかわからず、とにかく小さな体を抱きしめ続けた。
「陛下はなんと……?」
私の言葉に、それまでしゃくり上げておられた皇后様の肩がぴたりと止まった。
「私、陛下にきっと嫌われてしまったわ」
皇后様はお顔をあげて、私の顔を見上げられた。
そのお顔は涙に濡れて、哀しみと不安に震えておられた。
「そんな、御子ができたと喜んでおられたなら、がっかりもされるでしょうけど、時間が経てば許してくださいますよ。近いうち、本当に御子が授かるかもしれませんし」
私は、皇后様に安心していただこうと、笑みを浮かべて涙でお顔に貼り付いた髪を、そっとかき上げた。
すると、皇后様は、ぷるぷると顔を左右に振られ、震える声でおっしゃった。
「違うの。陛下は私がまだ幼いから、子ができれば体に良くないとおっしゃって、まだ
その話を伺って、私はどこかでほっとしている自分に嫌気がさした。
散々陛下を心で裏切りながら、あの腕の中に皇后様が抱かれていると思うと、心穏やかでない自分がいたのだ。
そんな自己嫌悪に気持ちを重くするのと同時に、私はある疑問を覚えていた。
陛下ご自身に身に覚えがなければ、子ができたと言っても嘘にさえならないはず。
では、皇后様はいったい誰に嘘を……?
「紅玉は、あなたを脅した相手が誰なのかまでは話してくれなかったけど、その人物が私に堕胎薬を飲ませるように迫ったと聞いてわかったわ」
いつしか皇后様のお顔からは、哀しみや不安の色は消え、代わりに怒りの色があどけなさの残るお顔を覆い尽くしていた。
その表情は、先ほどまでの泣きじゃくる少女のものではなく、憎悪に歪む女の顔だった。
「だって、私はあの人にしかこの嘘の話をしていないもの」
「皇后様……」
私は少女の怒りに満ちた顔に恐怖を覚えた。
「皇太后。しかもあの女、私に毒を飲ませて殺そうとしたんだわ」
氷のように冷たい皇后様のお顔を見つめ、私はこれからただならぬことが起こりそうな大きな不安を感じていた。
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