第二十八話 雪解け後の嵐
「陛下、先ほどはありがとうございました」
「己を買いかぶるな。お前ひとりに頼らねばならぬような国ならば、魏ももう終わりだ」
陛下の言葉に、ゆっくりと頭を持ち上げた男鹿も、笑顔を見せた。
陛下はそんな彼を上目遣いに見つめ、いたずらっ子のような笑みを浮かべられた。
「女王からの情熱的な恋文も読ませてもらったしな」
一瞬、目を見開いた男鹿は、直後、顔を真っ赤にして視線を床に落とした。
恥ずかしそうに黙り込み、肩をすぼめる見慣れない彼の姿に、陛下は声を殺して笑われた。
陛下と男鹿との間に、こんなに穏やかな空気を感じたのは初めてだ。
私の知る限り、これまで陛下にご友人と呼べる方はいらっしゃらなかったけれど、彼とならいい関係をお持ちになれるような気がした。
「
しばらくして、真顔に戻った陛下がそうおっしゃると、男鹿はその言葉を噛み締めるように何度も頷いた。
そうして、一旦目を閉じて心を落ち着かせた彼は、大きく深呼吸をして、再び陛下のお顔を見上げた。
「はい」
決意がこもった瞳でそう答える男鹿に、陛下は満足されたように何度も首を縦に振り、優しく微笑まれた。
「ところで、あなたはこれからどうするつもりなの?」
おふたりのやりとりを微笑ましく見ていた私は、不意に皇后様に問いかけられ、思わず息を飲んだ。
「これから……」
そうだ。
男鹿が王になることができたことで安心して忘れていたけれど、私は間もなく宮廷から去って行かなくてはならない身であったのだ。
つまり、それは陛下と永遠にお別れすることを意味する。
改めて現実を突きつけられ、黙り込んだ私に、陛下のせつな気な視線が向けられた。
「実家に戻り、病や怪我に苦しむ人たちの手助けができればと思っています」
心を決めた私は、陛下にご心配をおかけしないよう、笑みを浮かべ、努めて明るい声色で言った。
「まあ、それはお医者様になるってことね」
皇后様はそう言って目を輝かせ、胸の前で手を合わせて屈託無く微笑まれた。
このお方はきっと、女の医者がこの国に存在しないことをご存知ないのだろう。
無邪気なご様子を目にして、私はそう思った。
「いえ……。その真似事のようなことができればと思っているのです」
「真似事?」
不思議そうに首を傾げられた皇后様に、祖父が堪り兼ねて助け舟を出してくれた。
「女は医者にはなれませぬ」
眉を寄せてそう言う祖父に、皇后様は一層首を傾げられた。
「なぜ?」
その問いかけに、室内の誰もが口を
誰もその問いに対し、納得いただけるような答えは持ち合わせていなかったのだ。
ただ、昔から医者という職業は男のもの。
そう疑うことなく思い続けてきただけだ。
「陛下、お願いがあります」
答えが見つからず黙り込んだ私たちに、しびれを切らされたのか、皇后様は陛下の方にお顔を向けてそうおっしゃった。
何事かと、眉をひそめ、陛下は皇后様の次のお言葉をお待ちになられた。
「
「は?」
思いがけない皇后様のご要望に、陛下は目を大きく見開かれた。
私たち室内にいる他の者たちも、一斉に驚きの表情を皇后様の方へと向けた。
そんな私たちを気にとめるご様子もなく、皇后様は身を乗り出して陛下のお顔を間近で見つめ、お話を続けられた。
「私、前から女のお医者様っていらっしゃらないのかしらと思っていたの。お医者様とはいえ、男の方に肌を晒すのは恥ずかしいんですもの。女官たちだって、女性同士だからこそ打ち明けやすい体の悩みもあるかと思うのです」
「しかしな……」
そう呟き、陛下は困ったように後ろ手に頭を掻かれた。
「なんなら、陛下も花蓮さんに、これから毎朝の検診をお願いなさったら?」
「ば、ばかを言うな……!」
少しからかうようにおっしゃる皇后様の言葉に、陛下は一瞬で顔を赤くして声を荒げられた。
そんな陛下のお顔を見ながら、皇后様はくすくすと声を堪えて笑われた。
「やはり陛下はおやめになられた方がよろしいわね。花蓮さんに脈を測っていただいたりしたら、心の臓が暴れて、とても正確には測れそうにありませんもの」
一層顔を真っ赤にして顔を背けられた陛下に、皇后様は扇子でお顔を隠し、お腹をねじるようにして笑われた。
私は、恥ずかしさで顔から湯気が出てるのではないかしらと、思わず両手で熱くなった頬をおさえた。
「花蓮さんに、お医者様としてこちらに来ていただいてもよろしいですか?」
笑いを堪(こら)えながら再度問いかける皇后様に、陛下は背を向けて頬杖をつかれた。
「勝手にしろ」
投げ捨てるようにそうおっしゃって、陛下はその場から立ち上がられた。
今にもお部屋を立ち去りそうなご様子の陛下に向かって、皇后様はすかさず次の要望を口にされた。
「あと、
「好きにしろ」
背中を向けたままそうおっしゃると、陛下は皇后様のお部屋を出て行かれた。
事態が吞み込みきれない私は、そんな陛下の背中を呆けて見送った。
「本当に見てられないわ。まるで恋をしたばかりの少年みたい」
年上の陛下に向かってそうおっしゃる皇后様の言葉に、室内の誰もが苦笑した。
そんな中で私は、頭の中で必死に状況を整理しようとしていた。
つまり、私は宮廷から去らなくても済んだということなのだろうか。
皇后様のおそばで働けるということは、これからも陛下とお会いできる機会もあるかもしれないということ?
女で、しかも妾の身分であった私が、医者として認められることなど、本当にあり得るのだろうか。
混乱して黙り込んだ私に気付かれた皇后様は、人差し指を口元に当てて微笑まれた。
「陛下のお許しもいただけたことだし、さっそくあなたたちの新しい部屋を用意しなくちゃね」
相変わらず呆然としている私に背を向け、皇后様は手を叩いて天幕の陰に控えていた女官をお呼びになられた。
音もなく陰から出てきた女官は、皇后様の前で跪くと、両手の袖口を合わせて頭を下げた。
「この人たちに部屋を用意してちょうだい。病人を寝かせる寝台も必要だろうから、広めの部屋をお願い。それから、この方は今日から私の命を預かってくださる大切なお医者様になられたの。くれぐれも失礼のないようにね」
「御意」
年配の女官はそう答えて袖の陰から、ちらりと私の顔を見た。
妾の身分であった私は、これまで彼女らからも
それを丁重に扱うようにと言われ、彼女らの本心は面白くないはずだ。
皇后様はそれを承知された上で、今後私へ対する態度を改めるよう、ひとこと加えてくださったのだろう。
女官が顔を隠したままあとずさりしてその場を去ると、皇后様は今度は男鹿の方へ振り返られた。
「
一瞬、皇后様が誰に話しかけているのかわからなかったのか、男鹿は目をぱちくりとさせ、周りを見回した。
しばらくして、王と呼ばれたのが自分であることに気がついた彼は、頭を掻きながらあらぬ方向に視線を向けた。
「私は、あの屋敷が気に入っているのですが……」
「だめよ。王となられた方をあんな粗末な屋敷に住まわせていては、陛下が笑いものになります」
皇后様に強い口調で否定され、彼は困ったように首の後ろを掻いた。
すると、私の隣に座っていた紅玉が身を乗り出し、活き活きとした表情を浮かべて彼の顔を見上げた。
「男鹿様……いえ、狗奴国王様。奥様のお部屋は既にほぼ片付いているのです。私、今から王様の荷物をまとめるお手伝いをします。相変わらず書物が部屋中に積み上げられて、ひどい散らかりようなんでしょう?」
紅玉はそう言うなり立ち上がり、部屋を後にしようとした。
そんな彼女のあとを追うように、男鹿は慌てた様子で立ち上がった。
「待って、紅玉。勝手に片付けられると、どこになおしたのかわからなくなる」
男鹿はそう言いながら、早足で廊下へ出て行こうとする紅玉を追って行った。
立派になった身なりに不似合いな慌てた様子が滑稽で、私たちは思わず吹き出してしまった。
「さて、わしも奴の荷造りの手伝いをするかな。あの書の量ではまとめるのに数日は掛かるぞ」
笑いがおさまった祖父はそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
その少し身が重そうな動作に、私は改めて祖父の老いを感じた。
「おじいさま……」
私の呼びかけに、動きを止めた祖父は、優しく微笑んだ。
「私を買い戻してくださって、ありがとうございます」
長年、役人として勤め上げ、ようやく悠々自適な隠居生活を送れるはずであった祖父は、私を自由な身にするため、その
涙を滲ませ頭を下げる私に、祖父は細い目を一層細めた。
「気にするな。これまでの蓄えもある。お前はしっかり、皇后様の医者として働きなさい」
頭を下げた私の横を通り過ぎ、祖父は皇后様のお部屋から出て行った。
身を屈めたまま祖父を見送った私は、ゆっくりと身を起こし、袖口で目尻に溜まった涙を拭った。
そんな私の眼前には、真顔で私を見つめる皇后様のお姿があった。
「皇后様、本当になんとお礼を申し上げればいいか……」
私はそう言って、再び頭を下げた。
この方は、審議の間で私と男鹿を庇って下さっただけでなく、妾でなくなり宮廷を去る運命であった私に、ここに留まれるよう仕事まで与えてくださったのだ。
陛下の妾であった私など、皇后様にとっては面白くない存在のはず。
なのに、ここまでしてくださったお心遣いに、涙が止まらなかった。
「ちょっと席を外してくれる? 二人きりでお話がしたいの」
頭を下げたまま泣いている私の前で、皇后様は室内に控える女官や侍女たちにそうおっしゃった。
すると、複数の衣擦れの音が戸口へと移動してゆき、やがて部屋から人の気配が消えた。
「花蓮さん」
二人きりになった部屋に、皇后様の押し殺したような声が響いた。
その声に身を起こした私は、姿勢を戻して皇后様のお顔を見つめた。
皇后様は、先ほどまでとは打って変わり、固い表情をされていた。
「これからここで働いてもらうにあたって、あなたにお願いがあるの」
そう言って皇后様は、誰もいないはずの室内に、もう一度視線を巡らされた。
そして再び私と目を合わせられた皇后様は、緊張した面持ちで、ごくりと唾を呑み込まれた。
「私と父がしようとしていることを、陛下には絶対言わないで欲しいの。あの方を巻き込みたくないのよ」
目を見開き言葉を失った私の手をとり、皇后様はそれをご自分の額に寄せられた。
にわかに、以前皇后様がおっしゃっていた恐ろしい計画が頭に浮かび、私の全身は震え始めた。
皇后様はあの時、父である
しかし、
その上皇太后様も彼の味方につかれたことが明らかとなり、その権力は今や朝廷内で絶対的なものとなっているのだ。
そう、陛下でさえ
そんな、どう見ても不利な形勢にお考えを改められたかと思っていたが、恐ろしいことにあの計画は続行されていたのだ。
不意にお顔を上げられた皇后様は、力を込めて私の手を握られた。
その目には涙が溢れ、握られた手を通して震えておられるのがわかった。
「そして、私になにかあった時は、今度はあなたが陛下の妻となってお支えしてね」
「……!」
私は思わず手を引き戻し、叫び声をあげそうになった口元を覆った。
「本当は、私がお支えして差し上げたかったけど……。陛下はあなたでなくてはだめみたいなのよ」
「どうか……、お考え直しを……!」
私は皇后様の腕を掴み、お顔を見つめて必死に訴えかけた。
しかし、皇后様は大きく首を左右に振られ、その動きに合わせて無数の涙が宙に舞った。
「もうね、これは陛下のためではなく、私たちの意地を賭けた戦いなの」
私の手を腕から離しながら、皇后様は儚気に微笑まれた。
「だからお願い。陛下のお耳には入れないで」
そう言い残し、皇后様はすっくと立ち上がると、両手で顔を覆って戸口に向かって駆け出された。
遠退いていく小さな足音を聞きながら、私はその場に泣き崩れた。
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