第十五話 不落の城

 皇后様がいらした翌日、陛下が私の部屋を訪ねて来られた。

 皇后様のお話から、陛下がしばらくこちらにお越しになることはないと思っていた私と紅玉こうぎょくは、驚いて一瞬言葉を失った。

 立ち尽くし、目を丸くする私と紅玉の様子に、陛下は首をひねられた。


「どうかしたのか?」


「いえ……あの……皇后様が……」


「紅玉!」


 私は慌てて紅玉の言葉を遮ったが、陛下は既に何かを悟られたようだった。


「皇后が何か言ってきたか」


「……」


「仕方のないやつだ。どうせ、ちんがここへ来ぬ理由を自分のところへ通い詰めているからとでも申したのであろう」


 ため息混じりに苦笑してそうおっしゃる陛下に、私は再び驚いた。

 そんな私の前を通り過ぎ、部屋の奥のしとねに腰を降ろされた陛下は、眉を寄せて頭を掻かれた。


「陛下、ご存知で?」


「あの者なら言いかねぬ。困ったやつだ。しばらく朕がここへ来られなかったのは、戦の準備に掛かり切りだったからだ」


「戦?」


 私の問いかけに、陛下は真剣な表情に戻ったお顔を上げ、しばらくじっと見つめられた。


諸葛恪しょかつかくが動き出した。呉の大軍が新城しんじょうを目指しているとの情報が入ったのだ」


 呉との国境のそばにある新城は、長江ちょうこうに近いわがくにの要所だ。

 これまで何度も敵国から攻撃を受けてきたため、高く強固な城壁が設けられ、不落の城と呼ばれていた。

 そこに呉の最高実力者である諸葛恪が、兵を率いて攻めてくると聞き、私は疑問を感じた。

 先の東興とうこうでの戦いで大勝した諸葛恪は、呉の皇帝より丞相じょうしょう(最高官位)の位を賜ったと聞いている。

 そのような立場の者が、自ら兵を率いてくるとは、不自然に思えたのだ。


「諸葛恪が自ら? 兵の数は?」


 私は思わず陛下のおそばへ歩み寄り、向かい合うように褥の上に腰を降ろした。

 真剣に問いかける私に、陛下はふっと吹き出すように笑みを浮かべられた。


「つくづく、そなたを女にしておくのはもったいないな」


 そう言って、陛下は私の首に腕を回し、強く抱き寄せられた。

 そんな様子を見て、紅玉は天幕の隙間を閉じ、そっと部屋を後にして行った。


「諸葛恪は、東興の戦いでの勝利に気を良くしたのであろう。周囲の反対を押し切って、今回の侵攻に踏み切ったと聞く。そのため周りの協力が得られず、やむなく自ら戦地に赴いてくるのであろう。大丈夫だ。新城の守将しゅしょう張特ちょうとくは機転の利くことで名のしれた男だ。既に司馬師しばしが援軍も送った」


 そう言って陛下は私を抱いたまま、褥に身を沈められた。




「……北の池」


 ひとときの戯れのあと、絹の布団に仰向けに横たわる私を見下ろし、陛下は小さくつぶやかれた。

 その言葉に思わず私は、息をのみ、陛下の瞳を見つめたまま動けなくなった。


「皇后が言ってきた。そなたが朕を裏切っていると」


 視線を外すように逸らした私の顔を、大きな手が引き戻し、再びうっすらと潤んだ大きな瞳に捕えられた。


「安心しろ。今回の戦に、あの者は派遣しない」


 せつな気に微笑み、優しくおっしゃる陛下のお言葉に、私の目から一気に涙が溢れ出した。


「なぜ、私を責められないのです? 心ではとっくにあなた様を裏切っている私を。なぜ?」


 感情を抑えきれず、叫ぶようにそう言う私を、陛下は少し困ったような表情を浮かべて見下ろしておられた。


「いっそ、私の首をはねてください……。あなた様を裏切ってばかりの私の首を……」


 この時の私には、陛下のお優しさが何より辛かった。

 陛下を裏切り続けている自分が許せなかったが、男鹿に惹かれる気持ちも自分ではどうしようもなかった。

 ふたつの相反する感情で、心が引き裂かれ、頭がどうにかなってしまいそうだった。

 こんな想いを抱えたまま、陛下のおそばに居続けるより、いっそ罵倒され、その手であやめられた方が救われるような気がした。

 そんな、泣きじゃくる私の胸に額を寄せ、陛下は肩を震わされた。


「……それはできない」


 胸元で絞り出される声も震えておられた。


「そなたがこの世にいなければ、朕は生きていけない……」






 青葉が眩しい季節になった頃、諸葛恪が率いる呉の大軍が、新城に到着し、城の周りを包囲したとの報告があった。

 しかし、それよりも先に子元しげん司馬師しばし)様が現地に送られていた鎮東将軍ちんとうしょうぐん仲恭ちゅうきょう毋丘倹かきゅうけん)様と揚州ようしゅう刺史ししである仲若ちゅうじゃく文欽ぶんきん)様は、砦を兵で固め、敵に備えておられた。

 各武将に対し、今回子元様は、あえて攻撃はせず、城の防衛に徹し、敵の疲弊を待てとの指示をくだされたらしい。

 その指示を守り、この城を守る大将である子産しさん(張特)様は固く門を閉ざし、じっと敵の攻撃を見守っていたという。

 子元様は、強固な新城の砦は、呉のいかなる攻撃にもびくともしないと自負しておられたのだろう。

 であれば、兵の命を無駄にせず、相手が諦めるのを待つが得策と判断されたのだ。


 しかし、周囲の反対を押し切って侵攻に踏み切った諸葛恪の意地なのか、呉軍に一向に撤退する様子は見られず、絶え間なく攻撃を仕掛けてきた。

 そうして、当初数日しか持たないであろうと思われていた呉の攻撃は、夏を迎える頃になっても衰えることなく、連日城に向かって、雨のように矢を降らせてきたのだった。





 間もなく夏も盛りを迎えようというある日、祖父張政ちょうせいが私の部屋を訪ねてきた。


「お前、確か疫病に関する書物を持っていたであろう」


 そう言って、祖父は私の部屋の片隅の棚に積み上げられた巻物を物色し始めた。


「疫病……ですか?」


 私は祖父の背後から棚に近付き、心当たりの巻物をいくつか手に取った。

 そしてそれを手渡しながら、祖父に問いかけた。


「どこかで疫病が流行っているのですか?」


「うむ。まあな」


 珍しく濁したような口ぶりで答え、祖父は広げた巻物に視線を落とした。

 そしてしばらくして、うつむいたまま小さな声でつぶやいた。


「新城の兵が疫病で倒れはじめているらしいんじゃ」


「なんですって?」


 呉からの攻撃から防衛し続けている新城の砦で、疫病が流行り始めていると聞き、私は背筋が寒くなった。

 敵から包囲された閉ざされた城の中でそのようなことになれば、兵達の間で一気に感染が広がるだろう。


「とりあえず、感染者は隔離するなど、広がらぬよう策はとっているらしいが、症状の軽い者は治癒させなくては兵力が足りなくなる」


「まさか、お爺さまが治療に……?」


 高齢の祖父が、猛暑の中、新城まで旅をし、疫病が蔓延している中に行くことを想像すると、私は胸が詰まった。


「いや、流石にわしの体力では無理じゃ」


「じゃあ……」


「……」


「……まさか……」


 再び悪い想像が頭に浮かび、私の心臓は凍り付いた。


「男鹿を……行かせるつもりですね……」


 黙ったまま、巻物の文字を目で追う祖父を見て、私は確信を得た。

 戦地に医者として送るには、ただ知識と技術がある人間を送ればいいというわけにはいかない。

 行く道でも敵や暴漢に襲われる可能性があり、現地ではいざという時、兵士として戦える体力と気力が備わっていなければ、生き延びて他の者の命を救うこともできないのだ。

 既に戦地には軍医は同行させているはずだが、おそらく彼らの手に負えない病なのだろう。

 若くて体力があり、優れた知識と戦闘能力を合わせ持つ人材。

 あらゆる条件を重ね合わせた結果、彼以上の適任者は私の頭にも浮かばなかった。


「そんな……。陛下は今回の戦には彼を派遣しないと……」


「陛下を恨むな。状況が変わったのじゃ。それに新城へ行くことを希望したのは、誰でもない、男鹿やつ自身じゃ」


「男鹿が……?」


 呆然と立ち尽くしていると、祖父が数本の巻物を胸元に押し付けてきた。

 思わずそれを手に取った私は、眉を寄せて祖父の顔を見上げた。


「……?」


「わし一人では持ちきれぬ。お前もそれを持って付いて来なさい」


 皆まで言わずとも、その行き先が男鹿のところであることは感じ取れた。


「でも、私は……」


 あの北の池での夜以来、もう半年近く彼とは会っていなかった。

 会いたくないと言えば嘘になるが、会ってしまえばきっと、もっと会いたくなる。

 そうして歯止めがかからなくなる自分が怖かったのだ。

 しかも、あの夜のことは、皇后様だけでなく、陛下も既にご存知なのだ。

 あの日の陛下の寂し気な表情を思い浮かべると、これ以上もう、あの方を悲しませるようなことはしたくなかった。


 巻物を抱えたまま、うつむいて黙り込んだ私を、祖父は黙って見つめていたが、しばらくして大きくため息をついた。


「いつまでもそのような想いを抱えたままでは、誰も救われぬであろう。戦に赴けば、あの者が無事に帰還する保障も無い。この機会に気持ちに整理をつけておきなさい」


 祖父はそう言って、私に背を向け、戸口から出て行った。

 その言葉をしばらく噛み締めた私は、意を決して顔をあげ、慌てて祖父の後を追って部屋を出た。

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